橘曙覧の長男、井手今滋(いましげ)は父の残した歌をまとめ、1878年(明治11年)『橘曙覧遺稿志濃夫廼舎歌集』(しのぶのやかしゅう)を編纂した。正岡子規はこれに注目して1899年(明治32年)、「日本」紙上に発表した「曙覧の歌」で、源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛し、「墨汁一滴」において「万葉以後において歌人四人を得たり」として、実朝・田安宗武・平賀元義とともに曙覧を挙げている。以後、子規およびアララギの影響下にある和歌史観において重要な存在となる。
『志濃夫廼舎歌集』に「独楽吟」(どくらくぎん)がある。清貧の中で、家族の暖かさを描き、次のような歌がある。
たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時
たのしみはまれに魚煮て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時
たのしみは空暖(あたた)かにうち晴(はれ)し春秋の日に出(い)でありく時
たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草(たばこ)すふとき
たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來(きた)りて錢くれし時
どれも「たのしみは」で始まる一連の歌を集めたものである。1994年、明仁天皇、皇后美智子(いずれも当時)がアメリカを訪問した折、ビル・クリントン大統領が歓迎の挨拶の中で、この中の歌の一首「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」を引用してスピーチをしたことで、その名と歌は再び脚光を浴びることになった。