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俳句の破調と怪奇趣味

最初に変なことを書くが、人生を気楽に生きるには、「プロにならないこと」だ、というのが先ほど思いついた思想なのだが、なぜかというと、プロになると職業的義務が生まれ、その義務に束縛される人生になるからである。プロというのは、その仕事でカネを稼ぐということで、つまり、生まれつきの資産家以外は、この資本主義の世の中では真の自由人にはなれないということである。そこで、ほとんどの人はプロとしての奴隷の時間と、自由人としての余暇の時間を使い分ける人生になる。もちろん、その、プロとしての仕事の時間そのものが楽しいなら、それは幸せな生き方になる。まあ、仕事が辛いとは言っても、昔は仕事に耐えられない年齢になったら仕事から引退して隠居したもので、隠居というのは素晴らしい「社会制度」だったな、と思う。今なら、年金生活か。しかし、その老齢年金は生活保護より低い金額で、それもどんどん減らされる傾向にありそうだ。
まあ、そういう世知辛い話はここまでとする。

ここからは、一種の芸術論になる。ただ、それが素人の論考だから、最初に「素人の良さ」を書いて無意識に煙幕を張ったのだろう。素人の論考だから、責任は持たないよ、ということだ。ただし、素人とプロの本質的な(絶対的な)違いは、その仕事や作業でカネを得るか得ないかというだけだ。

さて、西東三鬼の有名な俳句がある。

「算術の少年しのび泣けり夏」

というもので、全体の音数はちゃんと17字になっているが、意味で切った場合は「算術の」「少年しのび泣けり」「夏」という、「5,10,2」という、とんでもない破調である。(もちろん、「算術の少年」「しのび泣けり」「夏」という「9,6、2」でもいい。これも滅茶苦茶な破調だ。)これを「5,7,5」で読むと「算術の・少年しのび・泣けり夏」という、意味不明の文章になる。
だが、名句であることは確かだ。誰が読んでも、この形でしかこの俳句の良さは出なかっただろうと思うのではないか。
で、ここからが本題だが、実はこの型破りの句法にはモデル(先例)があり、それも、芭蕉の句だというのが、私がここで例証しようとしていることだ。
先ほど、寝床で東雅夫編「文豪怪談傑作選・芥川龍之介集」を読んでいると、龍之介の小論的随筆の中で引用された連句の付け合いで、こういうのがあった。

小夜嵐とぼそ落ちては堂の月  信徳
  古入道は失せにけり露   桃青

桃青はもちろん芭蕉の俳名のひとつだが、この「古入道は失せにけり露」は、まさしく三鬼の「算術の少年しのび泣けり夏」と同じ句法ではないか。どちらも、最後に2音の名詞を「無理やり」付ける形である。そして、どちらも「露」「夏」という、その名詞で世界が広がりながらも、俳句世界を確定している。寺の堂に出没していた古入道が消えた後、庭の草葉に乗っていた一滴の露をクローズアップしたことで、世界が広がり、秋という季節が読む人の感覚に刻まれるのだ。その露には、あるいは前句で書かれた「月」の光が宿っているだろう。


ここで終わってもいいのだが、芭蕉の怪奇趣味(「気違を月のさそへば忽(たちまち)に」など、面白い。狂気を「ルナティック」と言うように、月が狂気を誘うという観念は洋の東西に共通しているようだ。)を龍之介は論じていて、その最後に載せてある龍之介自身の短歌が面白いので、載せておく。面白いとは言っても、内容は残酷で、その美は哀切の美だ。
「河郎」はおそらく「河太郎」つまり、河童のことで、河童は龍之介偏愛の妖怪である。

人間の姿を恋ひしかばこの川の河郎の子は殺されにけり









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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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