ヘレン:なら、やってみたら! (火の気を探して部屋をうろつく。) 「どこに?」だってさ。あの子はそれにぶつかって転ぶまでは何一つ見ようともしない。さて、どこにあったかねえ。どこかで見たはずなんだが。……1シリングでガスの出る奴。家主の女が家具なんかの説明の時に言っていたっけ。ま、そのうち出てくるさ。気分は良くなったかい?
ジョー:私、この臭い嫌い。
ヘレン:臭いなんて嗅がなくていい。それは飲むもんだよ! いい慰めさ。
ジョー:何の慰めが必要なの?
ヘレン:人生さ! さあ、私に寄越しな。お前がもう飲んだならね。後で安全なところに置いておかなくちゃ。(飲む。)
ジョー:前より、飲む量が増えているよ。
ヘレン:ああ、これはいい目が出るまでの暇つぶしのひとつさ。いい目が出るのはいつもたっぷり飲んでいた時だったんだ。おお、神様! なんだか誰かからひどい風邪を移されたみたいだ。きれいなハンカチを持っているかい、ジョー? 私のは一日中鼻をかんでグチャグチャだからね。
ジョー:これを使って。ほぼ、きれいよ。あの電燈、ひどくない? 私、笠の無い裸電球を見るのが大嫌い。あんな風に天井からぶら下がっている奴。
ヘレン:なら、見なきゃいいだろ。
(訳者注)この戯曲を訳していて感じるのは、作者の「象徴的なセリフ」の巧みさだ。まだほんの一部しか読んでいないが、最初に載せた映画のあらすじから推測すると、この場面でのセリフの一言一言に、キャラクターの性格や、この後の成り行きが暗示されているように見える。
「あの子は、それにぶつかって転ぶまでは何一つ見ようともしない」
「なら、見なきゃいいだろ」
これは、この母子の刹那的な生き方を見事に暗示しているのではないだろうか。観客は、これが単に暖房設備や電燈のことを指しているとしか思わないが、物語の進展とともに、これらの暗示がじわじわとボディブローのように効いてくると思う。また、裸電球を見るのが嫌い、というジョーのセリフには、若者らしい美意識と、若者特有の非寛容性が見事に表現されているとも思う。逆に、「酒は飲めればいい。臭いなどどうでもいい」には、生活の泥にまみれて生きてきた大人のしぶとさやしたたかさ、それに美意識の無さがある。要するに、パレットに出す前の絵の具と、パレットでぐちゃぐちゃに混ぜられ、何の色かも分からなくなった汚い絵の具である。
作者がこれらのセリフを計算して書いたのなら、年齢から言って恐るべき天才だと思うが、おそらく本能的に書いたものだろう。その後に作者が作家や戯曲家として大成したという話は聞いていない。
PR