私は、「誰でも知っているが実は理解はしていない」物事について疑問を持ち、それを考察することが大好きなので、『易経』などはそのいい素材になる。要するに、我々が日常的に使っている言葉の意味を掘り下げて考えるいいきっかけになるわけだ。
で、これは易に関する本などでも「説明抜き」に使われることが多いのではないかと思われる言葉だが、「吉凶」とは何か、「悔吝」とは何か、について、読んだばかりの岩波版「易経」からその説明になりそうな部分を抜き出しておく。これは、「繋辞(上伝)」(「繋辞上・伝」ではない)の一節だ。「繋辞」とは「辞を繋(か)ける」意味で、言葉の解説、あるいは解釈をすることのようである。つまり、「易経」の中の語句の解説と思えばいい。しかし、これは文庫本の最後のあたりに出てくるので、たいていの読者は易経の語句の意味を知らないままに易経本文(訳文)を読むことになる。まあ、数学で微積分を習う前に物理で微積分を使った解説を読まされる類である。そういうことが積み重なって、我々の頭脳はブラックボックスだらけになるわけだ。
前置きが長いわりに、本題の部分はすぐに終わる。
「易経」の「繋辞(上伝)」における「吉凶・悔吝」の説明はこうだ。
「易に言う吉凶とは事の得失の象徴であり、悔吝とは事後に生ずべき憂い虞(おそ)れの象徴である」
後半を具体的に言えば「悔とは凶にいながら後悔憂慮して吉に赴くこと、吝とは吉にいながら逸楽猶予して凶に陥ること」である。
特に「悔吝」の意味がよく分からないままに「易経」を読んで困っている人は多いのではないか。で、この説明で分かるように、「吉」と「凶」は対立概念であり、「悔」と「吝」も対立概念だが、「吉凶」と「悔吝」は同時に起こり得るわけだ。「吉」とは「占う事柄が成就する」意味であって、それがべつに幸福かどうかとは関係ない。「凶」も同様に、「占う事柄が成就しない」意味であって、それがべつに不幸だという意味ではない。幸福か不幸かは当人の心の持ち方次第であって、目標とする事柄の成功不成功とは別問題なのである。このあたりが既に、世間の「吉凶」イメージとのズレがありそうだ。
冗談を言うなら、「脳」という漢字の中には既に「凶」が入っているではないかwww これは、我々の脳にはそれ自体の限界がある、ということの象徴だ、と言っておこう。
で、これは易に関する本などでも「説明抜き」に使われることが多いのではないかと思われる言葉だが、「吉凶」とは何か、「悔吝」とは何か、について、読んだばかりの岩波版「易経」からその説明になりそうな部分を抜き出しておく。これは、「繋辞(上伝)」(「繋辞上・伝」ではない)の一節だ。「繋辞」とは「辞を繋(か)ける」意味で、言葉の解説、あるいは解釈をすることのようである。つまり、「易経」の中の語句の解説と思えばいい。しかし、これは文庫本の最後のあたりに出てくるので、たいていの読者は易経の語句の意味を知らないままに易経本文(訳文)を読むことになる。まあ、数学で微積分を習う前に物理で微積分を使った解説を読まされる類である。そういうことが積み重なって、我々の頭脳はブラックボックスだらけになるわけだ。
前置きが長いわりに、本題の部分はすぐに終わる。
「易経」の「繋辞(上伝)」における「吉凶・悔吝」の説明はこうだ。
「易に言う吉凶とは事の得失の象徴であり、悔吝とは事後に生ずべき憂い虞(おそ)れの象徴である」
後半を具体的に言えば「悔とは凶にいながら後悔憂慮して吉に赴くこと、吝とは吉にいながら逸楽猶予して凶に陥ること」である。
特に「悔吝」の意味がよく分からないままに「易経」を読んで困っている人は多いのではないか。で、この説明で分かるように、「吉」と「凶」は対立概念であり、「悔」と「吝」も対立概念だが、「吉凶」と「悔吝」は同時に起こり得るわけだ。「吉」とは「占う事柄が成就する」意味であって、それがべつに幸福かどうかとは関係ない。「凶」も同様に、「占う事柄が成就しない」意味であって、それがべつに不幸だという意味ではない。幸福か不幸かは当人の心の持ち方次第であって、目標とする事柄の成功不成功とは別問題なのである。このあたりが既に、世間の「吉凶」イメージとのズレがありそうだ。
冗談を言うなら、「脳」という漢字の中には既に「凶」が入っているではないかwww これは、我々の脳にはそれ自体の限界がある、ということの象徴だ、と言っておこう。
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