読む本が無いので、「易経」を漠然と読んだりしているが、昔は理解困難で読み飛ばしていた箇所を再読すると、意味が分かる感じのところもあり、それだけで嬉しい。歳を取るのもいいところはある。
たとえばどういう部分かと言うと(まだ最初の辺りなので「乾為天」までしか読んでいないのだが)「乾為天」四爻の「或躍在淵」という文で、これはどの本でも「或いは躍りて淵に在り」と読まれている。四爻というのは、上卦の最下位の地位で、いわば幹部社員に取り立てられたばかりというポジションを表す爻位である。
で、問題はこの「或(ある)いは」という読み方で、孔子の注釈によれば、この「或」は「疑い、迷う」気持ちを表すと言う。つまり、「疑惑、迷惑」の「惑」と同じである。(音はどちらも「ワク」で、漢文では同じ読みの漢字を同じ意味にすることが多い。)とすれば、これは「あるいは」ではなく、「まどう」と読むべきだろう。つまり、「或(まど)い躍りて淵に在り」と読むのが親切な読みだと思う。字を変えて「惑い躍りて淵に在り」とすると分かりやすい。
下っ端の地位から幹部に取り立てられて戸惑うさまであり、実際、これは危険な深淵がすぐそばにあって、少しの失敗でも彼を引きずり下ろそうとするライバルや「こいつの能力は地位相当か」と妬み半分で見守る人々は多いのである。
完全に「使われるだけの立場」から「使う立場」になった(躍る=躍進した)のだが、よほど考えて慎重に行動しないと、深淵に落下するという、そういう危険性を教えているのだろう。
漢文では同音の漢字を融通無碍に同じ意味として用いる例が「乾為天」の「乾」の字である。これは「健」の代わりに「乾」という字を使ったのであり、剛健の徳を意味している。まあ、晴れた空を「乾く」で表すニュアンスもあったのかもしれない。
ちなみに、「易経」は占いの書というより「人生訓」の本と思ったほうがいいと私は考えている。そういう気持ちで読めば、実に有益な人生案内である。難解な部分を勝手に解釈する楽しみもあるwww
たとえばどういう部分かと言うと(まだ最初の辺りなので「乾為天」までしか読んでいないのだが)「乾為天」四爻の「或躍在淵」という文で、これはどの本でも「或いは躍りて淵に在り」と読まれている。四爻というのは、上卦の最下位の地位で、いわば幹部社員に取り立てられたばかりというポジションを表す爻位である。
で、問題はこの「或(ある)いは」という読み方で、孔子の注釈によれば、この「或」は「疑い、迷う」気持ちを表すと言う。つまり、「疑惑、迷惑」の「惑」と同じである。(音はどちらも「ワク」で、漢文では同じ読みの漢字を同じ意味にすることが多い。)とすれば、これは「あるいは」ではなく、「まどう」と読むべきだろう。つまり、「或(まど)い躍りて淵に在り」と読むのが親切な読みだと思う。字を変えて「惑い躍りて淵に在り」とすると分かりやすい。
下っ端の地位から幹部に取り立てられて戸惑うさまであり、実際、これは危険な深淵がすぐそばにあって、少しの失敗でも彼を引きずり下ろそうとするライバルや「こいつの能力は地位相当か」と妬み半分で見守る人々は多いのである。
完全に「使われるだけの立場」から「使う立場」になった(躍る=躍進した)のだが、よほど考えて慎重に行動しないと、深淵に落下するという、そういう危険性を教えているのだろう。
漢文では同音の漢字を融通無碍に同じ意味として用いる例が「乾為天」の「乾」の字である。これは「健」の代わりに「乾」という字を使ったのであり、剛健の徳を意味している。まあ、晴れた空を「乾く」で表すニュアンスもあったのかもしれない。
ちなみに、「易経」は占いの書というより「人生訓」の本と思ったほうがいいと私は考えている。そういう気持ちで読めば、実に有益な人生案内である。難解な部分を勝手に解釈する楽しみもあるwww
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