第六章 競馬
ヒムロ・サエコとタイガ・ワタルが俺の探偵事務所を訪ねてきたのは、2日後だった。
「あんたに、仕事を依頼したい」
タイガ・ワタルはそう切り出した。事務所に姿を現した彼は、俺の推測どおり、身長が190ほどあり、幅も厚みも通常人の2倍近くある。ラグビーかアメフトの選手のような、あるいは重戦車のような体格だった。
「どういう仕事だ?」
「ローゼンタールの日本での活動拠点を知りたい。できれば、そのメンバーの情報すべても」
「商売のことなら、おそらく、一番の中心はゴルドン・サックス証券だな」
「そうじゃない。裏の活動の拠点だ」
「難しい仕事だな」
「それに、もちろん、危険な仕事だ。日本政府の高官でも知らないレベルの情報だろうからな」
「最上層部なら知っているだろうが、俺にはもちろん、そんなルートは無い。だが、あの婆さんなら、何かのルートがあるかもしれないな」
「婆さん?」
「月村静さ。何せ、おん年175歳だ」
そういう俺が、この前は彼女とデート気分で浮き浮きしていたことは内緒だ。
「おっと、サエコさんとやら。俺の心を読んじゃいけないよ」
サエコは軽く肩をすくめた。
「だけど、俺は、こちらからは動かない方がいいと思うよ。もしも、あちらがまだこちらの存在に気付いていない場合、こちらがあれこれ動くことで、存在を知られることになるからな」
「ふむ。なるほど、そうかもしれないな」
タイガ・ワタルは頷いた。俺はサエコに目をやって言った。
「君達には、時間は無限に近いほどある。俺なら、気楽に、毎日を楽しく生きるね。ローゼンタールのことは、相手が現れてから考えればいい」
「でも、相手と接触しなければ、相手を調べてもいいでしょう?」
「まあね。じゃあ、その依頼は引き受けよう。ところで、例の金儲けはどんな感じで進めている? 今のところ、あんたのテレパシー以外には、特殊な能力が無いなら、金を作るのも簡単じゃないだろう。これも月村婆さんに頼むか?」
「いや、それはしたくない。株か、ギャンブルをやろうと思うんだが、俺たちはそれも良くわからないんだ。あんたに教えてもらいたい」
「まあ、手っ取り早いのは競馬だろうな。あんたのテレパシーは、どのくらいの距離で心が読めるんだい?」
「普通の人間のひそひそ声を聞くくらいよ。せいぜい3メートルまでね」
「それじゃあ、パドックで騎手の声を聞くのも難しいかな。それともできるかな。あんたの能力があれば、もしかしたら金になるかもしれない。今日は土曜日だし、俺と一緒に競馬場にでも行ってみるか」
二人は顔を見合わせた。
「そうしよう。だが、今、金は100万円しか持っていないが」
「いいさ。今日は、別にこれといった確実な目当ては無いんだから。俺も少し、金を下ろして試してみよう」
たしか今は、府中開催だったかな、と考えて、俺は二人を連れて府中競馬場に行くことにした。馬券を買うだけなら新宿や渋谷のウィンズでもできるが、サエコのテレパシー(本当は、双方向的なものではないようだから、別の名称が適切なのだろうが)を利用するには、競馬場まで行く必要があるわけだ。
俺たちは、新宿から中央線で府中に向かった。
府中駅前の銀行で俺は金を100万円下した。
残念ながら、俺たちは特別観戦席に入れる身分ではないので、取りあえずは、パドックで馬を眺め、騎手の心を読むことにした。タイガ・ワタルを投票窓口の傍に待機させ、携帯電話で連絡してこちらの言う数字で購入させる手はずだ。もちろん、その前に勝ち馬投票券を買うマークシートの記入の仕方をレクチュアしたが。
俺とサエコはまず第五レースのパドックを眺めた。競馬などやるのは久しぶりだが、やはり心が浮き浮きする。俺が競馬新聞で検討している間に、サエコはパドックを周回している馬の口取りの心を読む。やがて、騎手が騎乗する。
「あ、あの人」
「ん、誰?」
「8番の馬に乗った人、今日のこのレースは、必ず勝てると思っているわ」
「それは、馬の力かな、それとも、レースが八百長ってこと?」
「わからない。でも、相当に自信を持っている。あっ。八百長みたい」
「ふむ。ほかに、勝つ自信を持っているのは?」
「2番の馬の人と、7番の馬の人」
俺は競馬新聞で第五レースの柱を見た。8番はほとんど無印で、黒三角が二つあるだけだ。そして、このレースの大本命が7番で、対抗が2番だ。7と8は同枠である。これは、大穴のパターンだ。
「わかった」
俺は携帯電話でタイガ・ワタルに三連単の「8-2-7」を10万円、「8-7-2」を5万円、「8-2」の連勝を10万円、「8-7」の連勝を5万円、8の単勝を20万円、複勝を50万円購入させた。
競馬初心者のタイガ・ワタルが、この指示にきちんと従えるかどうか不安ではあったが、「天与はこれを取らざれば、返りてその咎を受く」という言葉もある。いま、来たばかりのパドックで八百長らしい情報を手に入れたのも天与だろう。
俺とサエコは投票窓口に向かった。ちょうど、タイガ・ワタルのでっかい体が窓口に見えた。記入されたマークシートを出して、勝ち馬投票券、つまり馬券に代えるだけだから、彼が百万円という大金をこの一レースに投入したことは周囲の人間に知られることはない。もっとも、8番の馬の単勝オッズが9.6からいきなり9.2まで下がってしまったのだが。
さて、どうなるか。俺たちはわくわくしながら、レースの開始を待った。
いきなり、8番の馬がハナを切った。一角で先頭に立ち、そのままゆったりと逃げていく。4,5馬身離れて他の馬のグループが続く。2は中団、7は最後方のようだ。やがて4角を回り、後ろの馬団が密集してくる。しかし、8のリードはそのままだ。府中の長いバックストレッチを、逃げる8番を他の馬が追う。
「そのままっ!」
俺は、心の中で大声を上げた。
8番が先頭でゴールインしたが、2番手以下に何が入ったのかは分からない。それまで見届ける余裕がなかったのである。だが、掲示板を見ると、上から「8-2-7」となっていた。
競馬新聞の予想オッズでは、三連単の「8-2-7」は7800円、つまり78倍だ。直前で70倍くらいに下がったとしても、10万円の投資は700万円にはなったわけである。それ以外の当たり分を合わせると、おそらくこのレースで1500万くらいにはなったのではないだろうか。
俺たちは、顔を見合わせた。
「勝ったみたいね?」
「ああ。さあ、次に行こう。その前に、俺はいくらか換金しておくから、サエコはパドックに行っておいてくれ」
俺はワタルの手持ちの馬券の中から、8の複勝だけを抜いて、それを払い戻し機に入れた。帰って来たのは160万円だった。50万円の3.2倍である。俺はそれをワタルに渡した。
その後、サエコのテレパシーに引っ掛かる目ぼしい情報は無く、メインレースも本命―対抗で固く収まった。俺は気晴らしに自分の好みで馬券を1,2万円ほど購入したが、もちろん、すってしまった。
「あっ」
とサエコが小さく声を上げた。
「まただわ。今度は、11番と15番。特に11番ね」
最終レースである。俺は新聞を見た。それほどガチガチの本命はいないが、11番と15番はどちらも大きな印はついていない。これが来れば、大穴だ。
「ほかには?」
「よくわからないけど、5番の騎手の乗っている馬は、いい馬みたいね。何で、自分が勝たないのか、不満に思っているわ」
5番は、なるほど一番の実力馬だ。ということは、この馬は今回は連にも絡まないということか。
「1番と4番の騎手は、強い自信を持っているわ。『まともなら、勝ち負けだ』と考えている。どういうこと?」
「今回は、まともな勝負じゃない、ということだろう」
俺は、携帯でワタルに「11-15」の連勝複式を50万円と、11番の単勝20万円、複勝40万円、15番の単勝10万円、複勝40万円を購入するように言った。
窓口に行くと、空いていてまだ購入する余裕があったので、俺は自分の金で「11-15-1」と「11-15-4」の三連単を30万円ずつ買った。
12レースは、1着が11番、2着が15番、3着が1番だった。15番の単勝と「11-15-4」の三連単以外は、皆、当ったわけである。オッズは、11の単勝が9倍、複勝が4倍、15の複勝が5倍、11-15の連勝が120倍、11-15-1の三連単が250倍だった。つまり、俺の買った30万円は7500万円になったわけだ。
俺たちは、金額の少ない複勝馬券だけを換金したが、それでも700万円になっていた。残りは、他人に怪しまれないように後日換金することにして、俺たちはその場を退散した。
第七章 世界との戦い
タイガ・ワタルたちの前では「月村婆さん」などと言っていたが、俺はもちろん、月村静が好きなのである。少なくとも、外貌だけから言えば、俺がこれまで見たどのアイドルスターよりも美しいし、スタイルもいい。まあ、確かに、その目の表情が、深い淵のようで、そこは少々不気味だが、笑顔になれば、そんなことは忘れる。
俺は、新宿駅西口から歩いて5分のところにあるカーライル・ホテルに月村静を訪ねた。その時同行したのが、ヒュウガ・タケルとヒカゲ・アキラの二人である。彼らは、この前の競馬で世話になった礼を俺に言いにきたので、話のついでに、三人で月村静を訪ねることにしたのである。
これも話のついでに、俺はP5のメンバーの名前を確認しておいたが、漢字で書くと、「日向武」「日影明良」「大河渡」「氷室冴湖」「炎純」らしい。まあ名前などいくらでも偽名は作れるから、符牒の役割があればそれでいいのだが。
夜には出歩かないだろうという俺の予測通り、静は部屋にいた。(ついでだが、例のオーラ、つまり、聖痕は、明るいところではほとんど分からないので、明るい場所にいる限りは、問題無いのである。だから、武と明良の二人が夜に行動するのも、陰に行かないように注意すれば問題はない。)
「やっと訪ねてきたね」
月村静は俺たち三人を見て、部屋の中に通した。
「ローゼンタールについて、もっと詳しく聞きたい」
ソファに腰掛けながら、武がぼそっと言った。
「私に聞くまでもないわ。市販の本に、ほとんど出ている。いわゆる『陰謀論』の本ね。ただ、問題は、それがほとんど本当だということ。現在、世界の金は彼らが発行しているし、世界の資源も彼らが独占している。世界のほとんどの国の政府は彼らが支配し、大統領や首相は彼らが決定している。ついでに言えば、様々な宗教もね。それだけよ。その事実が、誇大妄想狂の書いたいい加減な擬似『陰謀論』と混ぜ合わされて見えなくなっているだけ。まともな人間は、『陰謀論』など相手にしないという風潮が、彼らを助けているのよ。もちろん、その風潮も、彼らがマスコミを使って作ったものよ」
「では、俺たちが彼らに対抗する手段は無いんじゃないか?」
「さあね。しかし、彼らの実験動物になるのはいやでしょう。それに、彼らが世界中の金と権力を手にしても、寿命だけは手に入れられないというのは、私のようなへそ曲がりには痛快だわ。そのためだけでも、私なら戦うわね」
「日本での彼らの組織はどうなってますか?」
「日本政府そのものを彼らは自由に操れるのだから、組織云々はあまり意味が無いけど、日本での最高権力者はアルフレッド・モーガンという男ね。もう七十近い爺さんよ。その片腕が、カール・モーガン、アルフレッドの息子ね。こちらはまだ五十にはなっていないはず。でも、そのレベルの人間にあんたたちが会うのはちょっと無理かもしれないね。それに、どういう形で彼らと戦うの?」
「テロしか無いでしょう。つまり、ローゼンタール一族を皆殺しにすることです」
「悪くはない考えだけど、中々難しいでしょうね。さっきも言ったように、彼らは世界の政府のほとんどを動かせるのよ」
「彼らの考えを変えさせるよりは、その方がやさしいでしょう。その『陰謀論』が正しいなら、人類の近現代史すべてを支配してきた一族が、自分のやりたいことをあきらめるとは思えない。敵に対する一番安全な対策は、敵を殺すことです。白人が、『良いインデァンとは、死んだインディアンだけだ』と言ったようにね」
月村静は、武の言葉にしばらく考え込んだ。武のこの考えは、おそらく彼女も考えてきたものだろう。
「まあ、私も、人を殺したことも何度もある人間だし、人を殺すことを悪いとも思わない。自分の身が危いときに相手を殺すのは、当然の権利さね。問題は、やるならうまくやるって事だね。これは月光族対ローゼンタール一族の全面戦争だよ。そして、あんたたち5人がその中心になるんだよ。その覚悟はあるかい? 逃げていれば、長生きだけはできるんだよ?」
「一度、仲間と相談してみますが、俺は戦いたいな。自分が、権力のお目こぼしで生きているというのは不愉快だ」
「俺もそうだ。まあ、しかし、他のメンバーはどうかわからないからな」
明良が武に同意した。
「5人ってのは、俺は入ってないってこと?」
俺は静に聞いた。
「まあね。あんたのような一般人に迷惑を掛けるわけにはいかないからね。私たちのことを黙っていてくれればそれでいいさ」
「いやだね。俺もあんたたちと戦いたい。何せ、世界全体を相手に戦うんだろう? 味方は増やしていかないと」
「あんたが良ければ、私は文句は無いよ。むしろ、嬉しいけどね」
「とりあえず、こちらの強みは、こちらが弱小なだけに、相手に存在をはっきりと知られる前に、準備ができるということだな」
明良が言った。
「やはり、まずは金だな。それで、武器を買う」
「ただの武器では意味が無いよ。普通の戦争をするんじゃないからね。相手の懐に飛び込んで、相手を倒していく、忍者的な武器が必要なんだ。そして、こちらの人数は少ないんだから、絶対にこちらはやられちゃいけない。もしかしたら、あんたたちの役に立つ武器を手に入れられるかもしれないから、明日にでも一緒に来るかい?」
俺たちは頷いた。