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金持ちの精神の空虚さ

「徽宗皇帝のブログ」に引用した「齟齬」の別記事だが、こちらも非常に面白い。
金持ちの精神生活については、私もおそらくそんなものだろう、と漠然と思っていた通りである。それ以外になりようはないだろう。つまり、子供が何かのゲームでの勝利を求め、それを得て嬉しがるのと何も変わらない、ということだ。ならば、その金持ちはトランプ遊びをしたりテレビゲームをして満足できるか。もはやそうはならないだろう。では、ゲームに熱中している子供と、その金持ちとどちらが幸福か、と言えば、同じようなものだ、と私は見ている。記事中に書かれたように、それはもはや麻薬化しているので、より大きな刺激でないと満足できないわけだ。
金持ちが滅多に慈善にカネを使わないのも、それをやると自分の毎日の行為が無意味化するからだろう。カネを得るのが生活のすべてだのに、そのカネを捨てることほど馬鹿馬鹿しいことはないわけだ。だから彼らの慈善は「別のカネ儲けの布石」か「自己防衛」が目的になる。
なお、記事末尾に「知性を得るのも、金持ちのカネ儲けと同じではないか」という疑問が提出されているが、馬鹿げた疑問である。ミケランジェロやダビンチやモーツァルトの傑作が、前沢某の「宇宙旅行」と同じレベルのお遊戯か、ということだ。「知識」を得るだけなら空しいだろうが、「知性」と「知識」は別のものだ。


(以下引用)



2019-08-27

「富裕になることの最大のパラドックスとは?」


というQuoraの質問に対するK. P. Gill氏の回答がとてもおもしろかったので翻訳しました。ロサンゼルスの富裕層の集まる豪邸でのパーティに呼ばれたK. P.氏が、主催者の大富豪の告白を聞いた、その要約を引用します。


君が金を持っていないときには、君は金で問題事を解決できると考える――これはある程度は事実だ。しかしある段階から、金はそれ自体による問題をもたらす。金を持つことは子どもを持つこととよく似ている。君は子どもの面倒を見て、気をくばり、毎分見守らなければならない。そうするのは、成長していることをたしかめるためだけではなく縮小しないかをたしかめるためでもある。金は生きていて、容易に変化しうる。つまり私はつねに自分の金について考えているということだ。私は朝起きて一番に金のことを考える。そして寝る前に金のことを考える。……さて、そういったことは金がまるで重荷であるかのようだし、ときには本当に重荷になる。しかし残酷な真実は、私の人生のなかで金を稼ぐより大きな満足を与えるものがないということだ。このことは経験しなければ理解するのは難しいだろう。この家を例にとってみよう。私はこの家のための資金を一年で、たったひとつの小さな株式投資で稼いだ。私は10万ドルを3百万ドルに変えた。株価が上昇しつづけるので毎朝私は笑いながら起きたものだ。たった一日で株価が5万ドル以上あがったこともある! すばらしい気分だ! しかし、それこそが狂ったことだ。つまり、こういったことを私は十分に楽しんでいる。これらガラクタはすべて私をわりあいに楽しませるし、退屈しないようにしてくれる。しかし、所有物が増えるにつれて、正直に言うと――そして私はほんとうにこのことを考えるのだ――他のなによりも、私の犬たちから喜びを得るのだ。これが真実だ! 物質的には、幸福になるために私は多くを必要としない。欲しいものはすべて揃っている。私が働いているのは、まったく正直に言うとすれば、それは金を稼ぐスリルのためだ。それはゲームを遊ぶようなもので、そのゲームの賞品は権力であり、それは金によって表される権力だ。なんのための権力か? そんなことは問題ではない! 権力それ自体が賞品だ。権力を持つという感覚がすべてなのだ。金をかせぐときにはある感覚がある……もし君が経験したことなければ、私はそれをセックス、ギャンブル、コカインと例えるしかできない。まさしくそのようなものだ――たぶんそれらよりも良いかもしれない。だから、私の投資とビジネス・ベンチャーは、さまざまなカジノゲームのようなものだ、ゲームのオッズがつねに私に有利であることを除けば……そして私が毎日生きているのは、それらゲームを遊ぶことのスリルのためなのだ。これがクソいまいましい真実だ! もし私が金を稼ごうとすることをやめれば、朝ベッドから出る理由さえわからない……。私が最初に自分がどん詰まりであることを認識しはじめたのは、他人の職業を収支の面から考えていることに気づいてからだった。私には子どもの頃からの友人である医師がいる。そして私はなんて非合理的な職業選択だろうかと考えている自分に気づいた。彼もまた金のことを気にかけており、そして私は単にこう考えたのである、彼の才能と時間の使い方は、なんと無駄で……なんと非効率的なのか、金を稼ぐにはよりよい方法がいくらでもあるのに、と。狂っているだろう? 私は医者になることがどんなものか知らないが、人々がその仕事に打ち込むことには意味の全体的なレベルがあると私は想像する。しかしそんなことは私にとっては意味がない。まるで私が理解できるものは金だけのようだ! 私が数年前に50代になって気づいたことは、ビジネスが私のアイデンティティとなっていること――そして私がそういう自分を好きかわからないということだった。しかし私には選択肢はない、末期の麻薬中毒者と同じように。私はビジネスマンたちが自分が本当はなにをしているかについて自分をごまかすことを知っている――すべては家族のためだとか、他のでたらめのためだとか。自分を騙すな、と私は思う。私はお前のことがわかっている! お前はただ猿にエサをあげている(すべきではないことをしている)だけなのだ! と……。とにかく、それが私のストーリーだよ、K. P. 。私は自分の人生を完全には誇れない。でも、そのことを受け入れた。私はできるかぎり快適であろうとし、楽しもうとした、しかし私は何事においても現実を否定しない。私は根本的には、自分が次の注射のために生きている単なるジャンキーであることを知っている。


感想

私が本当に好きな映画「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」より

この投稿の非常におもしろい点は、大富豪の話を聞く投稿者は、哲学科を卒業し、知恵を追求して生きてきた失業者(当時)であり、知恵を求めるあまり経済的に自立できていない状態の者だったということです。


投稿者には知恵はあっても、世の中を動かす力をもたなかった。一方で大富豪は絶対的な力を持ちながら、自分がしていることに確信を抱けず、疑念を抱いていた。このコントラストが印象的な内容になっています。



あとは個人的な感想です。


はじめは「金持ちざまあ!貧乏人正義!」とか、「資本主義はやっぱクソ!」的な読み方をしていたのですが、よく読むとずっと深い内容だと感じました。実のところ、私は彼と同じ虚無に直面しています。


私も金儲けは大好きですが、彼ほどは執着はしません。基本的に「知性>金」だと思っているからです。金があっても知恵がなければ不幸ですし、知恵があれば金がなくても自由に楽しく生きていける。


しかし、金を追求することと知恵を追求することは本質的に違わないのだと最近考えています。私が知恵を追求するのは、大富豪が金を求めるのと同じ――それがより多くの快楽と権力を与えるからです。


私がなにか知識をたくわえようとするとき、投稿の大富豪と同じような虚無感や意味の不在を感じることがあります。読書をして新しい知識を得るときには「麻薬中毒者が注射を打つ」ような快楽を覚えるし、知的深化をすすめるときには「権力が賞品のゲーム」のように感じることがあります。


そういった意味で、私は大富豪の葛藤に共感しますし、境遇はまったく違えど、本質的に同じ類の人間であると感じます。


そもそも、人間は権力ゲームに興じるジャンキー以上でありうるのか? と……索漠とした気分になります。


自分がしていることを直視せず、自分を騙して生きている――それはビジネスマンだけではなく、ほとんどの人間に当てはまる「クソいまいましい真実」ではないでしょうか。




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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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