(以下引用)
ゲバラは日本に来て最も感動したことの一つは「工業力」とそれをささえる労働力の「勤勉さ」であったようだ。「かれのその後の文章や演説中に、しばしば日本の工業力をほめる言葉が見られる」(p.213)。
ゲバラに同行したフェルナンデス大尉は次のように述べている。
「チェは日本に行く前、日本人の精神力というか、日本の心を高く評価していた。日本人がきわめて勤勉だということも理解しており、日本を訪問国に選んだ動機のひとつにもなっていた。その面について、じっさいに日本へ行き、大阪で工場見学をしたり、東京でソニーの工場を見たりして、その考えが間違っていなかったということを認識した。……日本の若い世代が非常に進歩的だという感じもうけた。日本の前にインドに行ったときは、国自体がなにかダランとしてゆるんでいるように見えた。少しも働こうとしていなかった。日本では、すべての人が働く意欲にみちていると思った」(p.211)
ゲバラのヒロシマ訪問
しかし、なんと言ってもゲバラが来日において最も心を動かされたものの一つは、ヒロシマ訪問だったようである。
フェルナンデスの証言によれば、ゲバラは初めからヒロシマ訪問を切望していたようであるが、日本側はどうも乗り気ではなく、ゲバラ一行は急遽予定を変更してヒロシマを訪れている。もちろん「広島」ではなく「ヒロシマ」である。
陽気でおしゃべりなラテンの人たちのなかで、ゲバラは寡黙だった——日本での証言者たちに共通する内容である。そして「眼が澄んでいた」というもの共通している。
その寡黙なゲバラが広島の原爆資料館を見ている中で声をあげた。
「『きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか』
それまで見口氏〔県の案内役——引用者注〕はもっぱら大使と話すだけで、チェやフェルナンデスとは、ほとんど口をきいていなかった。それまで無口だったチェがこのとき不意に語りかけ、原爆の惨禍の凄じさに同情と怒りをみせたのである。見口氏はいう。
『眼がじつに澄んでいる人だったことが印象的です。そのことをいわれたときも、ぎくっとしたのを覚えています。のちに新聞でかれが工業相になったのを知ったとき、あの人物はなるべき人だったな、と思い、その後カストロと別れてボリビアで死んだと聞いたときも、なるほどと思ったことがあります。わたしの気持ちとしては、ゆっくり話せば、たとえば短歌などを話題にして話せる男ではないか、といったふうな感じでした』」(p.206〜207)
ゲバラと短歌!
この見口氏の感想とエピソードは、ゲバラにわれわれがよせるロマンチシズムを非常によく体現している。ゲバラは「政治」の渦中にいた男であるが、それは「統治」の側ではなく、最後まで「運動」の側にいたこと、すなわち原初的な怒りや悲しみの共有の側にいたのではないか、もっといえば「感性」の側にいたのではないか、というロマンチシズムである。
しかしこれはまあ、われわれの勝手なロマンチシズムである。
見口氏が「かれが工業相になったのを知ったとき、あの人物はなるべき人だったな、と思い」と述べているのは、ゲバラの統治への能力についても買った言葉であろうと思う。
ゲバラは帰国後「原爆から立ち直った日本」と題するレポートをカストロに提出していて(非公開)、そのタイトルから推察されるように、あるいは帰国後のテレビ番組で日本の印象について報告した際に原爆と工業力について触れたように、原爆の惨禍から出発しながらも統治の論理へと冷静につなげる視点も持っていた。
この三好の『チェ・ゲバラ伝』には、他にも広島のホテルでチェックアウトのさいの電話代の支払いについて「おれ、こんな電話かけてねーよ!」とフロントとセコく争う姿(笑)や、ゲバラが大阪の料亭に行く話、ゲイシャガールに会う話、銀座でみやげものを買う話などがあって、興味がつきない。
まぎれもなく、ゲバラは日本という日常に「実在」していたのである。
いや、誤解しないでほしいが、三好のこの本は『チェ・ゲバラの日本滞在珍道中』ではない。日本訪問の記録はごく一部であって、全体は、ゲバラという人物の生涯をわかりやすい筆致と、印象的なエピソードでつづってある格好の「ゲバラ入門書」である。