まあ、これは言うは易く行うは難しであり、たとえば大学受験の小論文で「地球温暖化は嘘である」とか書いて合格点が貰えるかどうか疑わしい。建前では、小論文は結論ではなく論証の過程がきちんとできているかどうかを見る、となっているが、大学側が本気でそう思っているかどうかわかったものではない。右翼的大学(けっこうある)の小論文に「右翼は悪である、愚劣である、ネトウヨは最悪である、アホである」と書いたらどうなるだろうかww
しかし、ファインマンの言葉はまったく正しいので、これを疑う必要すらないwww
なぜなら科学や社会の発展はその時代の定説や社会・政治の現状を疑い、批判することから生まれてきたのは明白であるからだ。それがなければ現在でも科学は天動説であり、政治は君主制だっただろう。
ところで、新コロ問題について、ネットでは膨大な疑義が出ているのに、表マスコミにほとんどそれが出ず、一般人もほとんどみな従順にマスクを着けているのは、どうなのか。
まあ、ナチスがユダヤ人迫害をした時もドイツの一般市民はそれを完全に容認していたのである。つまり、「下手に大勢(たいせい)に逆らうと我が身が危ない」、という気持ちは誰でもそうなのである。かくして、真実や真理は潰されていく。
しかし、ファインマンの言葉はまったく正しいので、これを疑う必要すらないwww
なぜなら科学や社会の発展はその時代の定説や社会・政治の現状を疑い、批判することから生まれてきたのは明白であるからだ。それがなければ現在でも科学は天動説であり、政治は君主制だっただろう。
ところで、新コロ問題について、ネットでは膨大な疑義が出ているのに、表マスコミにほとんどそれが出ず、一般人もほとんどみな従順にマスクを着けているのは、どうなのか。
まあ、ナチスがユダヤ人迫害をした時もドイツの一般市民はそれを完全に容認していたのである。つまり、「下手に大勢(たいせい)に逆らうと我が身が危ない」、という気持ちは誰でもそうなのである。かくして、真実や真理は潰されていく。
疑う自由こそは、科学にも、科学以外の分野にも、たいへんに重要なことだと僕は信じます。それは苦闘をとおして勝ちとられたものと言えましょう。疑いや不確かさが公然と認められるようになるには、たいへんな苦闘があったからです。僕はこの苦しみの重要さを忘れたくありません。
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