「2×3」と「3×2」は同じだ、いや、違うという論争も、何だかスコラ哲学の論争みたいな話だが、現実にはその問題で被害を受けている小学生が無数にいるわけである。一番の問題点はそこにあり、それが数学的に意味があるか無いかより、「現実に自分の算数の点数が『不条理に』減点された」ということが子供にとっては大問題なのである。それによって算数や数学自体への懐疑や不信感を抱き、ひいては「勉強なんてみんなそんなもの」という小さな虚無主義に至った子供もけっこういるのではないか。
この種の問題は「分数の割り算は割る数の分子と分母を引っくり返して掛ければいい」という方式を「なぜそれでいいのか」という面倒くさい解説までやる必要があるのかどうか、それを子供が本当に理解できるのかどうか、ということや、「長方形の縦と横は同じとしていいのか、区別するべきか」など、いろいろありそうである。
なお、神学(的)論争の定義は「正解が最初から存在しえない問題について議論すること」と私は考えている。私自身は、そういう議論は「頭の体操としては」嫌いではない。議論している当人たち自体が針の頭の上で踊っている天使たちのようなものだ。踊りが楽しければそれでいいのである。だが、神学を現実に持ち込むと「中世の暗黒」のような悲惨なことが生まれてくる。
(以下引用)ドロシー・L・セイヤーズとはあの有名な推理作家なのだろうか。本業は数学者か哲学者なのか。それとも別人か。「外延」などという言葉は哲学用語かと思うが、数学用語でもありそうな気がする。
針の上で天使は何人踊れるか
「針の上で天使は何人踊れるか」(はりのうえでてんしはなんにんおどれるか)というのは、中世の天使論、特にスコラ学全般およびヨハネス・ドゥンス・スコトゥスやトマス・アクィナスのような特定の神学者の天使論において、ありがちな間違いとしてよく使われた問題である[1]。
概要[編集]
この問題は、「ピンの先に天使が何人座れるか」というように表現されることもある。
また、この問題が、ヨーロッパの中世の実際の文書や議論に歴史的な根拠を持つ話なのかどうかには、議論の余地がある。この話は、スコラ学がまだ大学教育で重要な役割を演じていた頃に、スコラ学に疑問を持たせるために使われた[2]作り話だという説もある。ジェームズ・フランクリンは、この問題を学問的に取り上げ、17世紀のウィリアム・チリングワースが「プロテスタントの宗教(Religion of Protestants)」の中で、「100万人の天使が針の先に収まるかどうか」を論ずる無名のスコラ学者を非難していることに言及している[3]。これは、1678年にラルフ・カドワースが「宇宙の真の知的体系」の中で言及するより前である。「アリストテレス「自然学」 とその中世の異本(Aristotle's Physics and its Medieval Varieties)」(1992)の作者であるH.S.ラングは、「針もしくはピンの上で天使は何人踊れるかという問題の多くは、「中世後期」の著者が残したものであり、この問題が実際にこの表現のままで発見されたことはない」(284ページ)と言っている。この表現の現代英語版(ピンでなく針が使われる)は、アイザック・ディズレーリにまで遡ることができる。
また、この話は、風刺や自虐ネタが現代まで残ったものだという説や、ディベート訓練用のテーマだったという説もある。ただし、ジョージ・マクドナルド・ロスは、14世紀の神秘主義の文献にかなりよく似た表現があることを指摘している[4] 。
解答例[編集]
ドロシー・L・セイヤーズは、この問題は「単なるディベートの練習」であって、「天使は、有限ではあるが純粋な知性であって物質ではないので、空間中に位置は持つが外延は持たない。」というのが「通常、正しいと判断される」解答であったと主張している[5]。セイヤーズは、この問題を、「特定のピンの上に同時にいくつの思考を集められるか」という問題になぞらえている。したがって、その解答は、「ピンの先には無限の天使がのることができる。なぜなら、天使はいかなる空間も占有しないから」というものになる。
セイヤーズは、次のように結論している。
この議論から引き出される実際的な教訓は、「そこ」のような単語を使うときに、「そこに位置する」と「そこの空間を占有する」のどちらを意味するかをはっきりさせずに、非科学的ないい加減な使い方をしてはならないということだ[6]。
脚注[編集]
- ^ 「聖トマスは、「針の先で天使が何人踊れるか?」という問題を論じてはいない。聖トマスは、天使が生身の肉体を持つと考えてはならないこと、そして、天使にとって、その活動範囲が針の先であろうが一大陸であろうが大差ないことを(「神学大全(Q. lii, a.2)」)、私達に思い出させてくれただけである。D.J.ケネディによる上記リンクを参照のこと。
- ^ より正確には、17世紀に使われ、ケンブリッジ・プラトン学派のカドワース、ヘンリー・モア、ゴットフリート・ライプニッツなどに論じられた。
- ^ Franklin 1993 p. 127.
- ^ G. MacDonald Ross (「天使(Angels)」): Philosophy, vol. 60, 1985, pp. 499--515 所収。
- ^ ドロシー・セイヤーズ「The Lost Tools of Learning」(http://www.gbt.org/text/sayers.html で入手可)
- ^ ドロシー・セイヤーズ「The Lost Tools of Learning」(http://www.gbt.org/text/sayers.html で入手可)
参考文献[編集]
- フランクリン、J. 「ピンの先(Heads of Pins)」(Australian Mathematical Society Gazette, vol. 20, N. 4, 1993 収録)。
- ハワード、フィリップ(1983)「Words Fail Me」(タイムズ内でのこの問題に関する往復書簡のまとめ)
- ケネディ、D.J. 「トマス主義(Thomism)」 (カトリック百科事典)
- クーツィールT.およびバーグマンL.(編纂)「Mathematics and the Divine: A Historical Study」第13章、Edith Sylla著(レビュー)