些細な事柄が大きな意味を持つこともある。
ここに書くことは、「論語」の中では些細な事柄だが、様々な分野の「専門家のダメさ」を示すという、「大きな意味」を持っている。専門家は、蓄積された「学問の先達の定説」が固定観念となり、その受け継いだ説の馬鹿馬鹿しさや非論理性に気づきもしないのである。
さて、ここで問題になるのは「文章」という漢字熟語である。この「文」も「章」も「あや、飾り」の意味があることは、漢字の初歩的知識だろう。名前の「文子」を「あやこ」と読ませ、太陽をデザインした国旗を「日章旗」と呼ぶ類だ。つまり、おおげさに言えば、これが「デカルト流」の「分析」である。分けて考えることだ。さらに、分けたものをまとめるのが「総合」だ。
以上は前置きで、本題の「論語」の話である。「論語」公冶長篇に「夫子の文章は得て聞くべきなり。夫子の性と天道とを言うは得て聞くべからざるなり」という文章がある。(書き下しは金谷治のもの。)これを、金谷治と宮崎市定はそれぞれこう訳している。
(金谷訳)「先生の文彩は(だれにも)聞くことができるが、人の性(もちまえ)と天の道理についておっしゃることは(奥深いことだけに、ふつうには)とても聞くことはできない。」
(宮崎訳)「先生の生活の哲学は、これまでいつも教えを受けてきたが、先生の性命論と宇宙論とは、ついぞ伺ったことがない。」
問題は、それぞれの訳文の「文章」の訳である。私が赤字にした部分だ。どちらもひどい訳である。金谷の「文彩を聞く」という日本語もひどいが、宮崎の「文章=生活の哲学」もひどい。
では、どう訳するべきか。例によって漢和辞書を調べると、「文章」の説明の中に「礼楽、制度、教育など、一国の文化を形成しているもの」とある。論語のこの文章の文脈的に明らかにこれが正解だろう。とすれば、どう訳するか。「文彩」や「生活の哲学」がダメすぎるのは当然だが、私なら、「文化規範」とする。
「先生の文化規範論一般は聞くことができましたが、人の本性は何かや天道はどういうものかは聞けませんでした」となる。
これを別の言い方をすると、「孔子は形而下の説は講義したが形而上の話はしなかった」ということだ。まさに「怪力乱神を語らず」である。
ここに書くことは、「論語」の中では些細な事柄だが、様々な分野の「専門家のダメさ」を示すという、「大きな意味」を持っている。専門家は、蓄積された「学問の先達の定説」が固定観念となり、その受け継いだ説の馬鹿馬鹿しさや非論理性に気づきもしないのである。
さて、ここで問題になるのは「文章」という漢字熟語である。この「文」も「章」も「あや、飾り」の意味があることは、漢字の初歩的知識だろう。名前の「文子」を「あやこ」と読ませ、太陽をデザインした国旗を「日章旗」と呼ぶ類だ。つまり、おおげさに言えば、これが「デカルト流」の「分析」である。分けて考えることだ。さらに、分けたものをまとめるのが「総合」だ。
以上は前置きで、本題の「論語」の話である。「論語」公冶長篇に「夫子の文章は得て聞くべきなり。夫子の性と天道とを言うは得て聞くべからざるなり」という文章がある。(書き下しは金谷治のもの。)これを、金谷治と宮崎市定はそれぞれこう訳している。
(金谷訳)「先生の文彩は(だれにも)聞くことができるが、人の性(もちまえ)と天の道理についておっしゃることは(奥深いことだけに、ふつうには)とても聞くことはできない。」
(宮崎訳)「先生の生活の哲学は、これまでいつも教えを受けてきたが、先生の性命論と宇宙論とは、ついぞ伺ったことがない。」
問題は、それぞれの訳文の「文章」の訳である。私が赤字にした部分だ。どちらもひどい訳である。金谷の「文彩を聞く」という日本語もひどいが、宮崎の「文章=生活の哲学」もひどい。
では、どう訳するべきか。例によって漢和辞書を調べると、「文章」の説明の中に「礼楽、制度、教育など、一国の文化を形成しているもの」とある。論語のこの文章の文脈的に明らかにこれが正解だろう。とすれば、どう訳するか。「文彩」や「生活の哲学」がダメすぎるのは当然だが、私なら、「文化規範」とする。
「先生の文化規範論一般は聞くことができましたが、人の本性は何かや天道はどういうものかは聞けませんでした」となる。
これを別の言い方をすると、「孔子は形而下の説は講義したが形而上の話はしなかった」ということだ。まさに「怪力乱神を語らず」である。
PR