なお、結論を先に言えば、私は「教育勅語」は時代的制約、つまり明治政府による天皇神格化という基本方針に沿って作られたものだという時代的制約があり、現代の視点では容認しがたい部分もあるとは思うが、それが「国民の道徳性」にひとつの指針を与え、教化したという「時代的長所」をこそ評価すべきだと思っている。下のコメントは、「教育勅語」を読んでおらず、頭から否定する姿勢で書かれたものと私には感じられる。
ふたつの引用の後で考察する。
(引用1「阿修羅」より)
14. 人間になりたい[1672] kGyK1ILJgsiC6IK9gqI 2022年3月30日 00:45:33 : AwxU2zxs6c : US8xQlRtRXZ5WjY=[344] 報告 |
>日本の文化で一番大事なのは教育勅語に書いてある家族主義、家族と伝統を大事にすることだ。
自民党や低脳ネトウヨには、こういうことを言うバカが多く散見される。
だが、なぜ大事なのかを説明する人を見たことも聞いたこともない。
丸川珠代は、夫婦別姓選択制は家族の絆、一体感を強めるので、
地方議会に不当な圧力を加えてまで賛同した。
しかし、家族の絆、一体感が強いこと自体が、人間社会において良いことなのではない。
愛知県の住民投票で不正を働いた、維新の候補者は、家族ぐるみで犯罪に加担した。
これほど家族の絆、一体感の強い家族はいない。
人間社会において、正邪、善悪、公序良俗の基準は人間性である。
「家族主義」「愛国心」「嘘」「命の選別」などは、そのこと自体に良し悪しはない。
その行為が、人間性に裏打ちされていることによって、善きものになるのだ。
人間性とは、隣人愛であり、隣人愛とは、他者をおもいやり、公共に配慮すること。
社会的行動規範として隣人愛を受け入れ、行動する人のことを人間という。
教育勅語は、オレが白と言ったら、黒のものでも白とおもえという、
人間性と真逆のゴロツキの教条、経典である。
「家族主義、家族と伝統を大事にすること」自体に良し悪しはないが、
教育勅語の「家族主義、家族と伝統を大事にすること」は悪なのである。
原文 (漢字は常用漢字にあらため、現代かな遣いによるルビと句読点を付している。)
明治二十三年十月三十日
御名御璽
現代語訳(高橋陽一)
天皇である私が思うのは、私の祖先である神々や歴代天皇が、この国を始めたのは広く遠いことであり、道徳を樹立したのは深く厚いことである。我が臣民は、よく忠であり、よく孝であり、皆が心を一つにして、代々その美風をつくりあげてきたことは、これは我が国体の華々しいところであり、教育の根源もまた実にここにあるのだ。汝ら臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友人は互いに信じあい、恭しく己を保ち、博愛をみんなに施し、学問を修め実業を習い、そうして知能を発達させ道徳性を完成させ、更に進んでは公共の利益を広めて世の中の事業を興し、常に国の憲法を尊重して国の法律に従い、非常事態のときには大義に勇気をふるって国家につくし、そうして天と地とともに無限に続く皇室の運命を翼賛すべきである。こうしたことは、ただ天皇である私の忠実で順良な臣民であるだけではなく、またそうして汝らの祖先の遺した美風を顕彰することにもなるであろう。
ここに示した道徳は、実に私の祖先である神々や歴代天皇の遺した教訓であり、天皇の子孫も臣民もともに守り従うべきところであり、これを現在と過去を通して誤謬はなく、これを国の内外に適用しても間違いはない。天皇である私は、汝ら臣民とともにしっかりと体得して、みんなでその道徳を一つにすることを期待するものである。