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「世界に対する信仰と希望」

別ブログに書いたものだが、大事なことだと思うので、転載して少し補足する。

「わたしたちのもとに子供が生まれた」

という言葉は、その子供は世界から「わたしたち」に贈られたものだ、というニュアンスがある。「私たちは子供を作った」ではないのである。子供は世界から自分たちへのプレゼントだ、というこれは、文明人には無い思想だろう。むしろ、子供を邪魔者、自分たち夫婦が優雅な生活を送る上での障害物と思う親が多いのではないか。子供を世界からの贈与だと思わない親は、子供を自分たちが作ったと考える。そして、子供は自分たちの所有物だと思うだろう。
子供に限らない。
人間の自己愛は、他者を低く見る思想や心性と直結している。
我々は世界を「信仰」していない。「世界」を自分たちがどうにでも自由にできるものだと思っている。自己中心主義は他者への畏敬の念を失わせるのである。
我々は確かに世界を破壊できる。だから人類は世界に優越する存在だと思っている。
だが、我々は、自分の手で木の葉一枚作り出せないのである。何かの種を撒いて木が生えてきても、それは世界が生み出したのであって、あなたが生み出したのではない。
世界への畏敬の念が失われたことと、人類の品性の下落の間には相関関係があると思う。
今の世界は子供が生まれることが本当に喜びであるような世界だろうか。その子供がきっと幸福な人生を送れるだろうという「希望」を我々は持てるだろうか。

「信仰」というものは現代からほとんど失われた心性であるが、その本当の意義は、畏敬の対象を信仰することで、人間が優れた存在や未知の(不可知の)存在に対する謙譲な心を持つことにあるのではないか。人類による世界の破壊が加速したことと信仰の喪失は軌を一にしていると思う。無限の美と富に満ちたこの世界に生まれること自体は明らかに幸福なのであり、もしもそれが悲惨に満ちているなら、人類がその傲慢さから自ら作り出したものであるのは自明だろう。


我々は「世界に対する信仰と希望」を持っているか




小谷野敦の「退屈論」の解説(野崎歓)の中に、ハンナ・アーレントの次の言葉が引用されている。


(以下引用)

「わたしたちのもとに子どもが生まれた」という言葉こそは、世界に対する信仰と希望を告げる最高の表現である。      (「人間の条件」)

(引用終わり)

「世界に対する信仰」という言葉が素晴らしい。我々は今、世界に対する信仰と、そして希望を持っているだろうか。先進国のすべてで少子化が起こっていることは、人類の多くが世界に対する信仰と希望を失ったことを示しているのではないだろうか。

世界は、挑戦し改革し支配する対象ではなく、「信仰」すべきものかもしれない。なぜなら、それは無限の神秘に満ち、無限の美に満ち、あらゆる生き物に無限の恩恵を与える存在だからだ。

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