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キリスト教と奴隷制度

ウィキペディアより転載。


奴隷制度に対するキリスト教徒の見解

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

旧約聖書[ソースを編集]

キリスト教徒の奴隷制度廃止論は旧約聖書解釈からも派生している。ニュッサのグレゴリオス(335年頃 - 394年以降)はコヘレトの言葉の解釈から、神のものであるものを私有財産とすることを人間の驕りとし、奴隷の所有を傲慢だと非難した。さらに自由と自律を本性とする人間を奴隷にすることを否定し、奴隷制度を批判した[7][注釈 5]


紀元前2世紀、ユダヤ教エッセネ派は奴隷制度を不当と考え、拒否したとの報告があるが、詳しい資料が残されておらず経緯は知られていない[19]


旧約聖書にはヘブライ人奴隷(または年季奉公人)の法的権利を定める聖句がある。

2 あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。3 彼がもし独身できたならば、独身で去らなければならない。もし妻を持っていたならば、その妻は彼と共に去らなければならない。— 出エジプト記(口語訳)21:3

奴隷が危害を加えられたなら、負傷した奴隷は代償として解放された。

26 もし人が自分の男奴隷の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。27 また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。— 出エジプト記(口語訳)21:26-27

一定期間の奉公後に解放が定められている。

12 もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。13 彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。14 群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。— 申命記(口語訳)15:12-14

奴隷とするために誘拐を行う者に対しては厳しい罰が与えられた。

7 イスラエルの人々のうちの同胞のひとりをかどわかして、これを奴隷のようにあしらい、またはこれを売る者を見つけたならば、そのかどわかした者を殺して、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。— 申命記(口語訳)#第24章

新約聖書[ソースを編集]

ローマ帝国にとってキリスト教の存在は未知の脅威であり、キリスト教は予断を許さない危険な状況にあった。パウロは難しい立場におかれており、キリスト教徒が善良な市民として、古代ローマの伝統的な社会規範、家庭内の秩序、つまり妻、子供、奴隷の服従を支持することを証明しなければならなかった[20][21]


古代ローマでは奴隷制度は一般的であり全人口の3分の1が奴隷だったと主張する学者もいる[22][23][24]。紀元一世期のキリスト教徒の多くが奴隷または、奴隷の所有者、自由市民であり、彼らが集まって最初の教会を形成した[25]パウロは人種、民族、宗教、地位、経済格差、ジェンダー等の分断について述べている[25]

3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。— ガラテヤ人への手紙(口語訳)#3:27

パウロは古代ローマの伝統的社会規範に忠実であることを示そうとするために、古代ギリシャの哲学者等が家事における社会的序列を定めた指針を継承した[26][21]。しかし奉仕の背後にある心的動機、下位者に対する思いやりが、神のために行われるという独特の視点を付加した[27]

主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです— エフェソの信徒への手紙 6 新共同訳

この他にも類似した句が存在し、キリスト教徒の主人は当時のローマの社会的慣習に反して妻、子供、奴隷に対して法律上の絶対権力を行使できなくなったことが示唆されている[28][21]


パウロは奴隷所有者であるピレモンに対して、何らかの犯罪をして逃亡していた奴隷のオネシモを霊的な兄弟として迎え、解放するよう懇願している。またオネシモによって生じた損害の返済を申し出ている。ピレモンに社会制度に反して関係を見直すよう促しつつ、自ら何をすべきかを考えさせた[29]

1:16 しかも、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてである。とりわけ、わたしにとってそうであるが、ましてあなたにとっては、肉においても、主にあっても、それ以上であろう。1:17そこで、もしわたしをあなたの信仰の友と思ってくれるなら、わたし同様に彼を受けいれてほしい。— ピレモンへの手紙(口語訳)#1:16

ピレモンへの手紙は、二人のキリスト教徒の対立関係に対処せざるをえない困難な判断をせまられる状況から、自らの力で変えることができない社会的現実の中で最善を尽くし生きていかなければならないことをキリスト教徒に思い起こさせ、自分にとって何が可能かを信者一人ひとりの決定にゆだねることにした[25][29]


新約聖書の句には奴隷制度廃止論者と奴隷制度推進論者の双方によって使われたものがある[11]

7:21 召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。7:22 主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。7:23あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。— コリント人への第一の手紙(口語訳)#7:21

奴隷制度廃止論者はこの節を、逃げ出す機会があれば能動的に自由を手にいれ、現状を変えられない場合は所有者に忍耐強く耐えて順調にやっていくようパウロが述べたと解釈したが、奴隷制度推進論者は法的に解放されるまで、奴隷の身分にとどまるべきと解釈した。この節の解釈を巡る論争がアメリカを南北戦争に追い込んだと考える学者もいる[30]


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