まあ、私も熟読してはいないので、下の記事「松岡正剛の何とか(千夜一夜みたいな語句)」の前半を転載しておく。
(以下引用)
ちくま学芸文庫 2003
Sigmund Freud
Der Mann Moses und die Monotheistische Religion 1939
[訳]渡辺哲夫
恐ろしい本である。引き裂かれた1冊である。
ヨーロッパ文明の遺書の試みだった。おまけにこの本は人生の最後にフロイトが全身全霊をかけて立ち向かった著作だったのである。それが「モーセ」という神の歴史に立ち会ったユダヤ者の謎をめぐるものであったことは、フロイトその人がかかえこんだ血の濃さと文明の闇の深さを感じさせる。
ぼくが最初にこの本を読んだのは、日本教文社の『フロイド選集』第8巻(吉田正己訳)だったのだが、たちまちにして“しまった”という気分になった。もっと早く読んでおけばよかったという悔いと、こんな本は知らなければよかったという気持ちが一緒くたにやってきた。そのころはまだユダヤ教やユダヤ人の歴史をろくすっぽ学んでいなかったし、多神多仏の風土に育った日本人として一神教スタイルの社会文化を眺めるということもしていなかった。だからフロイトがこの問題に立ち向かう意味がほとんど見えてはいなかった。
その後、さまざまな歴史の起源や宗教の意図や、ラカン、ドゥルーズ、ハンデルマンらが解読したフロイト思想のその後が少しずつ見えてきた。そこであらためて『モーセと一神教』を読んだのだが、今度はますます「事の重み」に身が引き締まってまたまた読まなきゃよかったと悔いた。
こういう事情があったので、書きたいことはいろいろあるけれど、それをちょっとこらえて、今夜はいくつかの感想に絞りたい。
本書はなぜ恐ろしい本なのか。モーセの謎とフロイトの謎が2000年の時空を超えて荒縄締めのように直結してしまっているのが恐ろしいのだ。直結していながら、そこに法外な捩れと断絶と計画がはたらいているのが恐ろしい。
フロイトはユダヤ人だったから、ユダヤ教にはもとより敬虔な気持ちをもっていた(フロイト自身は社会的にはカトリック教会に親近感をもっていると書いていた)。一方、モーセはユダヤ教を開闢した張本人である。モーセによって一神絶対者としてのヤハウェ(ヤーウェあるいはエホバ)が初めて語られ、初めて「十戒」が定められ、初めてユダヤの民が選ばれた。割礼も始まった。ということは、こう言ってよいのなら、それまで歴史上にはユダヤ教はなかったのだ。ユダヤ人もいなかったのだ。
ところがフロイトは本書において、モーセはユダヤ人の起源者ではなくエジプト人であり、古代エジプト第18王朝のアメンホテプ4世が名を変えてイクナートンとなったときに、ごくごく限られた宮廷集団で信仰していた「アートン教」の直系になったとみなしたのである。
アートン教はすこぶる興味深い。マート(真理と正義)に生きることを奉じた太陽神信仰なのだが、人類史上で初の純粋な一神教となった。
それまでのエジプト王朝は代々ともに死後の生活を信じる多神教だったのを、イクナートンことアメンホテプ4世が光輝に充ちたアートン神(アテン神)を奉じて一神化してしまったのである。それとともにテーベ北方の新都アマルナに遷都して、次々に神殿を建てた。古代エジプト史ではアマルナ改革とよばれる。ただしイクナートンの死とともにアートン教は廃止された。瀆神者の烙印を捺されたファラオーの王宮はあっけなく破壊され、多くのものが略奪され、第18王朝は壊滅した。紀元前1350年前後のことだった。
そんな束の間の出来事のようなアートン神による一神教の観念を、なぜモーセはこれだと感じたのか。あまつさえ、それをなぜヤハウェと言い替えて、エジプトからカナーンの方へ運び出したのか。
これまでの考証では、モーセが「出エジプト」を敢行したのは、およそ紀元前1250年前後のことだろうということになっている。おそらく50年ほどの誤差はあるだろうから(ぼくは『情報の歴史』では前1275年を出エジプトの日とした)、これは、アートン一神教が隆盛していた時期と年代的にほぼ符合する。モーセはそのアートン教を持ち出した。持ち出して、どうしたか。ユダヤ人のためのヤハウェ一神教に変じさせたのである。
宗教史的には「モーセがユダヤ教を作った」ということはあきらかだ。まさにパウロがキリスト教を作ったように、である。
けれどもパウロが作ったキリスト教は「キリスト人」とか「キリスト民族」という血の創造ではなかった。パウロはそこまでの創作はしていない。パウロがしたことは聖典のための多能な情報編集ばかりだ。ところがフロイトによれば、モーセはユダヤ教を作っただけでなく、ユダヤ人を作ったのである。モーセはアートンをヤハウェにするとともに、自身が“ユダヤ人の父”たらんとしたのだった。
それまで、ユダヤ人の母集団であるセム族とヤハウェ信仰とはまったく結びついていなかった。だいたいヤハウェという神の名もなかった。またセム族の集団や部族が割礼をするということもなかった。割礼は古代エジプト人の一部の慣習だ。モーセはこれらを一挙に創作したか、制作したか、出エジプトにあたって持ち出した。
エジプトを出たモーセはシナイ半島を渡り、特定の地に落ち着いた。今日でいうパレスチナの南のカナーンの地だ。そこで何がおこったかといえば、アブラハムやイサクたちがユダヤ人の父祖となり、初期ユダヤ教が生まれた。つまりモーセが「ユダヤという計画」を実施した。モーセはまるで遺伝子操作のようなことをしたということになる。本当にそんなことがあったのか。
フロイトの仮説はこれだけでは終わらない。モーセはそのようにして計画を実行に移し、それを新生のユダヤの民が受け入れたにもかかわらず、かれらによって殺害されたとみなしたのだ。この点についてはスーザン・ハンデルマンの快著『誰がモーセを殺したか』(法政大学出版局)があるのだが、いまはそこまでは踏みこまないことにする(最後にちょっとふれる)。