一回に10節ずつ考察する。
(以下引用)
第一巻「表象としての世界の第一考察」[編集]
~根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学との客観~[注 4]
· 第1節 世界はわたしの表象である。
· 第2節 主観と客観は直かに境界を接している。
· 第3節 根拠の原理の一形態としての時間。 世界は夢に似て、マーヤーのヴェールに蔽われている。
· 第4節 物質とは働きであり、因果性である。 直観能力としての悟性。
· 第5節 外界の実在性に関するばかげた論争。 夢と実生活との間に明確な目じるしはあるだろうか。
· 第6節 身体は直接の客観である。すべての動物は悟性をもち、動機に基づいた運動をするが、理性をもつのは人間のみである。理性を惑わすのは誤謬、悟性を惑わすのは仮象である。とくに仮象の実例。
· 第7節 われわれの哲学は主観や客観を起点とせず、表象を起点としている。全世界の存在は最初の認識する生物の出現に依存している。シェリング批判、唯物論批判、フィヒテ批判。
· 第8節 理性は人間に思慮を与えるとともに誤謬をもたらす。人間と動物の相違。言葉、行動。
· 第9節 概念の範囲と組み合わせ。論理学について。
· 第10節 理性が知と科学を基礎づける。
(考察)
第1節 同意。ただし、「世界は」は「私の認識する世界は」が正確だろう。
第2節 同意。ついでに、私なら「主観と客観の境界は曖昧である」とする。
第3節 前文は判断不能。後文は同意。
第4節 前文は極論に見える。後文は素晴らしい。まさに私の思想と同じ。
第5節 つまり「夢と現実の間に明確な区別はない」という意見なら同意。
第6節
「身体は直接の客観である」とは、「身体は我々の悟性が直接に認識する客観的存在だ」ということかと思う。当たり前のことだが、他にこれを言った人を私はほとんど知らない。「悟性」と「理性」の区別も素晴らしい。悟性とは直感的認識であり、理性は前提と結論の間に「思考過程」という夾雑物がある。そこで誤謬が起こる。ただし、悟性も「仮象(幻惑)」で錯覚する。
第7節 前文は同意。中文は意味不明。後文は判断不能。
第8節 同感。悟性は動物にもあるが、理性(論理思考)は人間特有でプラスもマイナスもあるが、そのマイナスの面はほとんど無視されている。
第9節 判断不能。
第10節 同意。「知」は主に「知識」だろう。知と科学の誤謬性は近現代でほとんど言及されない重要な問題である。知の誤謬の中には意図的情報操作もある。科学など誤謬の歴史だが、なぜか「現在の科学は絶対的に正しい」という信仰が世界を洗脳している。
(注)「悟性」に関するウィキペディアの記述を載せておく。私はこの考えに不同意である。「悟性」を西周が訳した時には、明らかに「理解(力)」とは別のものだ、としたからこそ、それは「理」でも「解」でもなく「悟」だと考えたはずである。そして「悟性」という言葉を見る我々もそこに「悟り(悟る)」という現象を想起するに決まっている。私の使う「悟性」は、その一般的認識によるものであり、職業哲学者のくだらない勝手な用法ではない。むしろ単純に「認知」「認識」「知覚」としたほうがショーペンハウアーの使う「悟性」(直感能力としての悟性)の意味に近いのではないか。「理解」とは「整理し解剖し納得する」という作業であり「理屈という大筋」が通ったものだ。「直感能力」とはまったく別である。understandingを理性と別の経路の思考として区別するなら(そこには「理」も「解」も無いのだから)「直覚」が「理解」よりははるかに適訳だろう。つまり、対象物の正体を知るのに、論理に依らない直覚的な道が「悟性」なのである。