[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
気の赴くままにつれづれと。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
· 第71節 いかなる無もなにか他のあるものとの関係において考えられる欠如的無であり、記号の交換が可能である。 意志の完全な否定に到達した人にとっては、われわれが 存在すると考えているものがじつは無であり、かの無こそじつは存在するものである。彼はいっさいの認識を超えて、主観も客観も存在しない地点に立つ。
· 生きようとする意志は、おのれを自由に肯定したり、あるいは自由に否定すると言われる。第三部までに考察されてきたような、意志が肯定された場合においては、この世界で「ある」ものが生ずる。これに対し、意志が否定された場合における、この世界で「ない」ものについては、最終的には哲学者は沈黙する他ないものといわれている。
· 抽象的知性は格律を与えることによって、その人間の行為を首尾一貫させるものではあっても、首尾一貫した悪人も存在しうるのであり、あくまでも意志の転換を成し遂げるのは、「汝はそれなり」という直覚的な知のみであるといわれる。この知に達して、マーヤーのヴェールを切断して、自他の区別(個体化の原理)を捨てた者は、同情 (Mitleid) ないし同苦(Mitleid)の段階に達する。このとき自由なもの(物自体)としての意志は自発的に再生を絶つのであり、ショーペンハウアーの聖者は、利己心・種族繁殖の否定に徹し、清貧・純潔・粗食に甘んじ、個体の死とともに解脱するとされている。
· 最終第71節では意志の無への転換が説かれている。意志の完全な消失は、意志に満たされている者にとっては無であるも、すでにこれを否定し、意志を転換し終えている者にとっては、これほどに現実的なわれわれの世界が、そのあらゆる太陽、銀河をふくめて無であるとし、これらのことが仏教徒における般若波羅蜜多、「一切の認識を超えた世界」であると結んである。
· 第61節 意志は自分の内面においてのみ発見され、一方自分以外のすべては表象のうちにのみある。意志と表象のこの規定から人間のエゴイズムの根拠が説明できる。
· 第62節 正義と不正について。国家ならびに法の起源。刑法について。
· 第63節 マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き破って見ている者は、加害者と被害者との差異を超越したところに「永遠の正義」を見出す。それはヴェーダのウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻の神話に通じるものがある。
· 第64節 並外れた精神力をそなえた悪人と、巨大な国家的不正に抗して刑死する反逆者と、――人間本性の二つの注目すべき特徴。
· 第65節 真、善、美という単なる言葉の背後に身を隠してはならないこと。善は相対概念である。
· 第66節 徳は教えられるものではなく、学んで得られるものでもない。徳の証しはひとえに行為にのみある。通例「個体化の原理」に仕切られ、自分と他人との間には溝がある。 エゴイストの場合この溝は大きく、自発的な正義はこれから解放され、さらに積極的な好意、慈善、人類愛へ向かう。
· 第67節 他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。 愛はしたがって共苦、すなわち同情である。人間が泣くのは苦痛のせいではなく、苦痛の想像力のせいである。 喪にある人が泣くのは人類の運命に対する想像力、すなわち同情(慈悲)である。
· 第68節 真の認識に達した者は禁欲、苦行を通じて生きんとする意志を否定し、内心の平安と明澄を獲得する。キリスト教の聖徒もインドの聖者も教義においては異なるが、行状振舞いにおいて、内的な回心において唯一同一である。 普通人は認識によってではなく、苦悩の実際経験を通じ て解脱に近づく。すべての苦悩には人を神聖にする力がある。
· 第69節 意志を廃絶するのは認識によってしかなし得ず、自殺は意志の肯定の一現象である。自殺は個別の現象を破壊するのみで、意志の否定にはならず、真の救いから人を遠ざける。ただし禁欲による自発的な餓死という一種特別の例外がある。
· 第70節 完全に必然性に支配されている現象界の中へ意志の自由が出現するという矛盾を解く鍵は、自由が意志から生じるのではなしに、認識の転換に由来することにある。キリスト教の恩寵の働きもまたここにある。アウグスティヌスからルターを経たキリスト教の純粋な精神は、わたしの教説とも内的に一致している。
正義にかなった社会が満たすべき条件は何か。本書は、この問いに正面から答えようとした。正義の制度は二つの原理を満たさなくてはならない、と。
第一原理。基本的自由(言論・集会の自由、思想の自由等)に関して人々は平等でなくてはならない。第二原理は二項から成る。まず機会均等の原理。性別や家柄等によって特定の地位に就けない、ということは許されない。ついで格差原理。不平等な措置は、最も貧しい人に最大の便益をもたらすときだけ正当化される。所得に比例した累進課税などを思うとよい。
わりと普通だ。しかし本書の最も興味深い部分は、この結論ではない。これらの原理を導くときにロールズが用いた論法である。この二原理がどうして正義であると言えるのか。それは、ある仮説的な社会契約を考えたときに、人々はこれらの原理を満たすルールを選択するはずだ、と推測できるからだ。
どんな社会契約か。全員が、「無知のヴェール」の背後に隠れる。この魔法のヴェールの背後では、誰もが、自分がこの社会の中で何者であるのか、を忘れてしまう。自分の国籍も性別も資産も才能もわからなくなる。こういう状況で、人々はどんなルールに合意するだろうか。
例えば自分が裕福なら、格差原理には賛成しないだろう。しかしそれは格差原理が正義に反しているからではなく、その人の利益に反するからだ。正義かどうかは、自分が裕福か貧乏かわからない人が、何に合意するかで決まる。
ロールズのこの論法は後に、批判された。私が何者でもないとすれば、有意味な選択などできない。選択は何かのためになされる。選択が可能なためには、私がどこに所属しているか分かっていなくてはならない。
もっともな批判だ。それでも私は、ロールズの論理の方により深い真実を感じる。人は自分が所属する共同体を超える普遍性を求める。人類にとって何がよいのかを考えずにはいられないのが人間だ。(社会学者)=朝日新聞2018年10月13日掲載
· 第51節 詩について。詩と歴史。昔の偉大な歴史家は詩人である。伝記、ことに自伝は歴史書よりも価値がある。自伝と手紙とではどちらが多く嘘を含んでいるか。伝記と国民史との関係。抒情詩ないしは歌謡について。小説、叙事詩、戯曲をめぐって。詩芸術の最高峰としての悲劇。悲劇の3つの分類。
· 第52節 音楽について。
· ショーペンハウアーは、イデア (Idee) について、表象において範型として表現された意志であると位置づけている。イデアは模倣の対象として憧れを呼び覚まし未来をはらむものであることから、概念は死んでいるのに対してイデアは生きているといわれる。
· このイデアは段階的に表現されるものであり、これにあたるのは、無機界では自然力、有機界では動植物の種族、部分的には人間の個性であるといわれる。存在を求める闘争においては勝利したイデアは、その占拠した物質が別のイデアに奪取されるまでは、己自身を個体として表現するものとされる。ここでは個体は変遷するものであるが、イデアはあくまでも不変であるとされる。
· 矛盾が支配している未完成な現実の世界に対しては、完成したイデアの世界には調和がある。そこでイデアの世界において芸術に沈潜した人は、意志なき、苦痛なき喜びを少なくとも一時的には得るであろうといわれる。
第四巻「意志としての世界の第二考察」[編集]
~自己認識に達したときの生きんとする意志の肯定ならびに否定~
· 第53節 哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではないし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきものでもない。
· 第54節 死と生殖はともに生きんとする意志に属し、個体は滅びても全自然の意志は不滅である。現在のみが生きることの形式であり、過去や未来は概念であり、幻影にすぎない。死の恐怖は錯覚である。
· 第55節 人間の個々の行為、すなわち経験的性格に自由はなく、経験的性格は自由なる意志、すなわち叡智的性格によって決定づけられている。
· 第56節 意志は究極の目的を欠いた無限の努力であるから、すべての生は限界を知らない苦悩である。意識が向上するに従って苦悩も増し、人間に至って苦悩は最高度に達する。
· 第57節 人間の生は苦悩と退屈の間を往復している。苦悩の量は確定されているというのに、人間は外的原因のうちに苦悩の言い逃れを見つけようとしたがる。
· 第58節 われわれに与えられているものは欠乏や困窮だけで、幸福とは一時の満足にすぎない。幸福それ自体を描いた文学は存在しない。最大多数の人間の一生はあわれなほど内容空虚で、気晴らしのため彼らは信仰という各種の迷信を作り出した。
· 第59節 人間界は偶然と誤謬の国であり、個々の生涯は苦難の歴史である。しかし神に救いを求めるのは無駄であり、地上に救いがないというこのことこそが常態である。人間はつねに自分みずからに立ち還るよりほか仕方がない。
· 第60節 性行為とは生きんとする意志を個体の生死を超えて肯定することであり、ここではじめて個体は全自然の生命に所有される。
· ショーペンハウアーは、イデア (Idee) について、表象において範型として表現された意志であると位置づけている。イデアは模倣の対象として憧れを呼び覚まし未来をはらむものであることから、概念は死んでいるのに対してイデアは生きているといわれる。
「イデアとは表象において範型として表現された意志である」とは、「イデアとは概念である」と単純化できそうだが、それは続く文章で否定される。しかし、その否定の論拠である「イデアは模倣の対象として憧れを呼び覚まし未来をはらむもの」である、という説明は「イデアとは理想である」とこれまた単純化されそうである。この考えも、続く(・)で否定されるので、意味不明となる。ショーペンハウアー自身、イデアを明確に把握していたかどうか疑わしい。
· このイデアは段階的に表現されるものであり、これにあたるのは、無機界では自然力、有機界では動植物の種族、部分的には人間の個性であるといわれる。存在を求める闘争においては勝利したイデアは、その占拠した物質が別のイデアに奪取されるまでは、己自身を個体として表現するものとされる。ここでは個体は変遷するものであるが、イデアはあくまでも不変であるとされる。
「無機界の自然力」「有機界の、動植物の種族」「(部分的には)人間の個性」が「イデア」であるという説明は私には理解不能。なぜそれが「模倣の対象として憧れを呼び覚まし未来をはらむもの」だと言えるのか。私は無機物が憧れを持ち、未来を夢見るとは思えないし、動植物も同じである。人間だけが「憧れを持ち未来を夢見る」ものだろう。つまり、「イデア」というものを全宇宙に概念として広げることは大きな無理があると思う。イデアとイデアが「存在を求める闘争」をするということも、思考遊戯であるとしか思えない。つまり、「意志と表象として」世界を見ることにおいて、プラトンのイデア論を持ち込んだのは大きな誤りだったと思う。
· 矛盾が支配している未完成な現実の世界に対しては、完成したイデアの世界には調和がある。そこでイデアの世界において芸術に沈潜した人は、意志なき、苦痛なき喜びを少なくとも一時的には得るであろうといわれる。
人間の個々の行為、すなわち経験的性格:「人間の個々の行為=経験的性格」が日本語になっていない。「人間の個々の行為=経験」なら理解可能。あるいは「人間の個々の行為=経験的性格の行為」でもいい。
· 第41節 美と崇高との区別。人間がもっとも美しく、人間の本質の顕現が芸術の最高目標であるが、いかなる事物にも、 無形なものにも、無機的なものにも、人工物にさえ美はある。自然物と人工物のイデアに関するプラトンの見解。
· 第42節 イデア把握の主観的側面から客観的側面へしだいに順を追って、以下各芸術を検討していきたい。
· 第43節 建築美術と水道美術について。
· 第44節 造園美術、風景画、静物画、動物画、動物彫刻について。
· 第45節 人間の美しさと自然の模倣について。優美さをめぐって。
· 第46節 ラオコーン論。
· 第47節 美と優美とは彫刻の主たる対象である。
· 第48節 歴史画について。
· 第49節 イデアと概念との相違。芸術家の眼の前に浮かんでいるのは概念ではなく、イデアである。不純な芸術家たちは概念を起点とする。
· 第50節 造形芸術における概念、すなわち寓意について。象徴、標章について。詩文芸における寓意について。
· 第31節 カントとプラトンの教えの内的意味と目標とは完全に一致している。
· 第32節 プラトンのイデアは表象の形式下にあるという一点においてカントの物自体と相違する。
· 第33節 認識は通常、意志に奉仕しているが、頭が身体の上にのっている人間の場合だけ、認識が意志への奉仕から脱却する特別の事例がありうる。
· 第34節 永遠の形相たるイデアを認識するには、人は個体であることをやめ、ただひたすら直観し、意志を脱した純粋な認識主観であらねばならない。
· 第35節 イデアのみが本質的で、現象は見せかけの夢幻的存在でしかない。それゆえ歴史や時代が究極の目的をそなえ、計画と発展を蔵しているというような考え方はそもそも間違いである。
· 第36節 イデアを認識する方法は芸術であり、天才の業である。 天才性とは客観性であり、純粋な観照の能力である。 天才性と想像力。天才と普通人。インスピレーションについて。天才的な人は数学を嫌悪する。天才的な人は怜悧ではなく、とかく無分別である。天才と狂気。 狂気の本質に関する諸考察。
· 第37節 普通人は天才の眼を借りてイデアを認識する。
· 第38節 対象がイデアにまで高められるという客観的要素と、人間が意志をもたない純粋な認識主観にまで高められるという主観的要素と、この二つの美的要素が同時に出現したときにはじめてイデアは把握される。十七世紀オランダ絵画の静物画。ロイスダールの風景画。回想の中の個物の直観。光はもっとも喜ばしいものであり、直観的認識のための条件である。ものが水に映ったときの美しさ。
· 第39節 崇高感について。
· 第40節 魅惑的なものについて。
· 第21節 身体を介して知られている意志は、全自然の内奥の本質を認識する鍵である。意志は物自体であり、盲目的に作用するすべての自然力のうちに現象する。
· 第22節 従来意志という概念は力という概念に包括されていたが、 われわれはこれを逆にして、自然の中のあらゆる力を意志と考える。
· 第23節 意志は現象の形式から自由である。意志は動物の本能、植物の運動、無機的自然界のあらゆる力のうちに盲目的に活動している。意志の活動に動機や認識は必要ではない。
· 第24節 どんなに究明しても自然の根源力は「隠れた特性」として残り、究明不可能である。しかしわれわれの哲学はこの根源力のうちに人間や動物の意志と同じものを類推する。スピノザ、アウグスティヌス、オイラーの自然観。
· 第25節 意志はいかなる微小な個物の中にも分割されずに全体として存在している。小さな一個物の研究を通じ宇宙全体を知ることができる。意志の客観化の段階はプラトンのイデアにあたる。
· 第26節 合法則的な無機的自然界から、法則を欠いた人間の個性に至るまで、意志の客観化には段階がある。自然の根源諸力が発動する仕方と条件は、自然法則のうちに言いつくされるが、根源諸力そのものは、原因と結果の鎖の外にある。マルブランシュの機会因説。
· 第27節 元来意志は一つであるから、意志の現象と現象の間にも親和性や同族性が認められる。しかし意志は高い客観化を目指して努力するので、現象界はいたるところ意志が低位のイデアを征服し、物質を奪取しようとする闘争の場となる。有機体は半ばは死んでいるとするヤーコブ・ベーメの説。認識は動物において個体保存の道具として現われる。認識の出現とともに表象としての世界が現われ、本能の確実性は休止し、人間における理性の出現とともに、この確実性は完全に失われる。
· 第28節 意志の現象は段階系列をなし、「自然の合意」によって 無意識のうちに相互に一致し合う合目的性をそなえている。叡智的性格と経験的性格からの類比。意志は時間の規定の外にあるから、時間的に早いイデアが後から出現する遅いイデアに自分を合わせるという自然の先慮さえ成り立つ。自然の合目的性を証明する昆虫や動物の本能の実例。
· 第29節 意志はいかなる目標も限界もない。 意志は終わるところを知らぬ努力である。
· 世界は、主観によって制約された客観としてはわたしの表象である。しかしそればかりでなく、ショーペンハウアーは、世界はわたしの意志であるともいう。われわれ自身は、表象においては身体の動作として知られているが、そのものが自己意識においては生きんとする意志 (Wille zum Leben) として知られる。いわば身体は表象において表現されたところの意志である。ここで独我論を避けるには、自己から類推 (analogie) して、世界の他の本質も意志とみなすべきであるとして、「あらゆる表象、すなわちあらゆる客観は現象である。しかしひとり意志のみは物自体である」とショーペンハウアーは説く。
· こうして把握された意志は盲目であって、最終の目標を有してはおらず、その努力には完成はないものとされる。そのような意志においては、障害を克服して得られた満足は一時的であって、しかも無為は退屈にすぎないのであり、あくまでも積極的なのは欠乏であるといわれる。
第三巻「表象としての世界の第二考察」[編集]
~根拠の原理に依存しない表象、すなわちプラトンのイデア、芸術の客観~
· 第30節 意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。 個別の事物はイデアの模像であり、無数に存在し、たえず生滅しているが、イデアはいかなる数多性も、いかなる変化も知らない。
プラトン哲学の中心は「イデア論」であり、プラトンは生涯イデア論を発展させました。イデアとは、「かたち」「形相」ともいわれ、人が知覚する事象は単なる仮の姿であり、真実の世界は非物質のイデアの世界であるとしました。
つまり、人間が感覚で捉える世界は常に変化し続けるが、精神が捉える普遍的な世界は、変化しない永遠の真理であるということです。
そして、イデアの世界には序列があり、低次のものからより純粋な抽象的イデアへと上昇するといい、その頂点を「善のイデア」としました。そのことでプラトンは精神を理性的なものへ上昇させなければならないと啓蒙したのです。
『国家』の中に書かれる「洞窟の中の囚人たち」の比喩は、哲学史上もっとも有名な比喩とされています。プラトンは、学ぼうとしない人々を「洞窟の奥に繋がれて、影絵しか見ることができない囚人」とソクラテスに例えさせます。
囚人たちは、洞窟の後方の壁しか見ることができないように縛られています。囚人の背後には火が灯され、その後ろにある通路に彫像や人形が運ばれてゆきます。これらの物体の影は、囚人たちの見ている壁に投影され、囚人たちはその影を実在だと認識します。
縄を解かれた囚人は、振り向いて人形そのものや火を目にし、そのとき洞窟からの上昇が始まります。解放された囚人は、光の世界に連れ出され、見慣れない世界に圧倒されますが、徐々に太陽そのものを見分けることができるようになります。これが善のイデアそのものの知であるとするのです。
この比喩は「常識」からの転換を示し、また、真実を認識するには段階を追わなければならず、「現実の世界は影絵である」ということを理解するには長い訓練が必要であることを示しています。
· 第11節 感情について。
· 第12節 理性は認識を確実にし、伝達を可能にするが、理性は悟性の直観的な活動の障害にあることがある。
· 第13節 笑いについて。
· 第14節 一般に科学は推論や証明ではなしに、直観的な明証を土台にしている。
· 第15節 数学も論理的な証明にではなく、直観的な明証に基づく。ユークリッド批判。理性を惑わす誤謬の実例。哲学とは世界の忠実な模写であるというベーコンの言葉。
· 第16節 カントの実践理性への疑問。理性は善に結びつくだけではなく悪にも結びつく。ストアの倫理学吟味。
· ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。
· ショーペンハウアーが本書の序論とみなしている博士論文「根拠律の四つの根について」においては以下の4類に分かたれている。
1. 先天的な時間空間、ないしは「存在 (essendi) の根拠(充足理由律)」
2. 原因と結果の法則、あるいは「生成 (fiendi) の根拠」
3. 概念論理的判断、ないしは「認識 (cognoscendi) の根拠」
4. 行為の動機づけの法則、ないしは「行為 (agendi) の根拠」
第二巻「意志としての世界の第一考察」[編集]
~すなわち意志の客観化~
· 第17節 事物の本質には外から近づくことはできない。すなわち原因論的な説明の及びうる範囲。
· 第18節 身体と意志とは一体であり、意志の認識はどこまでも身体を媒介として行われる。
· 第19節 身体は他のあらゆる客観と違って、表象でありかつ意志でもあるとして二重に意識されている。
· 第20節 人間や動物の身体は意志の現象であり、身体の活動は意志の働きに対応している。それゆえ身体の諸器官は欲望や性格に対応している。
08 | 2025/09 | 10 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 | 29 | 30 |