ポストされていた動画がコチラ↓
ブログがコチラ↓
日本でも経鼻型インフルエンザワクチンは既に使われています。
こちらのクリニックに分かりやすい解説がありました↓
アメリカでは48人が死亡しているようです。
フルミストは生ワクチンです。
従来の注射で打ってきたインフルエンザワクチンは不活化ワクチンです。
種類に違うワクチンですので分かった上でご検討下さいね。
気の赴くままにつれづれと。
X(旧Twitter)で経鼻型インフルワクチンで死亡した男児のことが話題になっていました。
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日本でも経鼻型インフルエンザワクチンは既に使われています。
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アメリカでは48人が死亡しているようです。
フルミストは生ワクチンです。
従来の注射で打ってきたインフルエンザワクチンは不活化ワクチンです。
種類に違うワクチンですので分かった上でご検討下さいね。
狂言師には、長寿で、健康かつ元気な人が圧倒的に多い……。そう指摘するのは、著書に『和儀 医師もみとめた狂言トレーニング』がある、狂言師の茂山千三郎氏だ。いったいなぜ、狂言師はいくつになっても元気なのか? その知られざる秘訣を明かしてくれた。
私の父「(四世)茂山千作」(享年93歳)は他界する半年前まで現役で、祖父「(三世)茂山千作」(享年89歳)も86歳まで現役でした。
能楽師として、今なお活躍している野村萬先生や、野村万作先生、(四世)山本東次郎先生も、みなさん長寿で現役です。
さらに、長寿であることはもちろん、認知症もなく、介護も不要で、健康かつ元気にしておられます。
このように、狂言師は長寿が多いのですが、それは、伝統的な狂言技法にもとづいた所作や生活習慣が影響しているからです。
まずは、現代日本人の「長生き」について考えてみましょう。
現代の日本人は、平均寿命の長さで世界的に抜きんでています。
しかし、単に平均寿命が長いだけでは「じつは日本人は長生きしていない」と考えることもできます。
「長生き」を考える際に注目すべきは「健康寿命」という概念なのです。
現代日本人は、平均寿命が延びる一方で、健康寿命はほとんど変わっていません。
健康寿命とは、日常生活を支障なく過ごせる期間を指し、これが短いことは見過ごせない問題です。
2022年の厚生労働省のデータによれば、日本人女性の平均寿命は87歳であるのに対し、健康寿命は75歳に過ぎません。
男性の場合も、平均寿命が81歳であるのに対して、健康寿命が72歳です。
つまり、男女ともに平均的に10年ほど、何らかの病気を抱えたり、介護を必要としたりしているわけです。
西洋の生活様式が入る以前の日本人は、健康寿命と実際の寿命がほぼ一致していました。
その原因は、人として生き物として、体質に合わない生活スタイルを導入した弊害によるものです。
たとえば「畳に座卓」から「テーブルと椅子」に、「和服、足袋、草履」から「洋服、靴下、靴」といった具合です。
とくに、靴文化の導入や現代的な歩行スタイルは、医学的にも人間の骨格や健康に悪影響を与えているという指摘があります。
しかし、そんな現代においても、先述したとおり、我々狂言師のように、伝統的な日本の身体技法を取り入れている人々は、健康寿命が長く、80代や90代になっても現役で活動している例が多いのです。
これは、古来の歩行法や呼吸法を実践し続けていることが、健康寿命を維持するうえで効果的であることを示しています。
要するに、現代の日本人は、たしかに寿命こそ長いものの、健康な状態で長生きすることができていません。
そのため、この状況を改善するために、昔ながらの身体の使い方や生活スタイルを見直し、健康寿命を延ばすことが大切なのです。
狂言師たちが長生きできる理由は、日々の生活や舞台で実践している伝統的な身体技法や呼吸法にあります。
狂言は日本の伝統芸能であり、670年にもわたって受け継がれてきた身体の使い方や精神の保ち方が凝縮されています。
これらの技法は、現代人にとっても非常に効果的な健康法として規範となりうるもので、狂言師たちと同じように長生きを実現できると考えています。
なかでも重要視すべきは「呼吸法」です。
酸素を効率的に体内に取り込み、血液の循環を促進することで、健康に重要な要素を活性化させます。
また、深い呼吸は副交感神経を刺激し、リラックス効果を生み出すため、精神の安定にも寄与します。
呼吸法を通じて、狂言師たちは心身のバランスを保ち、健康な状態を維持しているのです。
次に、狂言師たちの独特な動きである「摺り足」も、長生きに大きく寄与しています。
狂言の摺り足は、上半身のブレをなくし、床をなでるように足を運ぶ独特な歩行法です。
これにより、膝や腰に負担をかけることなく、体全体のバランスを保ちながら動くことができます。
このような歩行法は、じつは古くから日本人が自然におこなってきた歩き方であり、狂言師たちはこの伝統的な歩行法を現代においても実践しています。
そのおかげで体幹を強化し、身体にあった正しい姿勢を保つことができ、健康寿命を支えているのです。
さらに、狂言師たちが舞台で取り入れている「構え」にも注目してみましょう。
狂言においては、役者はつねに自分の体の「軸」を意識し「天地人(天と地と人間)」を結びつける感覚を養います。
この「軸」を保つことで、体が歪まず、エネルギーの流れがスムーズになり、全身の調和が取れた状態を維持できます。
この構えは、身体のバランスだけでなく、精神的な集中力や直感力を高める効果もあり、結果的に心身ともに健康な状態を保つことができます。
なお、狂言師たちは日常的に「感謝」の精神を大切にしています。
彼らは舞台に立つ際、つねに感謝の気持ちを持ち、それを演技や所作に反映させます。
この感謝の精神は、心の安定やポジティブな考え方を生み出し、ストレスを軽減する働きを持っています。
現代の科学でも、ポジティブな感情が健康に与える影響が指摘されており、我々、狂言師は感謝を実践することで、健康寿命に寄与していると言えるでしょう。
これらが複合的に作用し、狂言師たちは長生きをし、健康寿命を延ばすことができているのです。
彼らの身体技法や心構えは、現代の日本人にとっても学ぶべき点が多く、取り入れることで健康維持に役立つと考えられます。
世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、カントの『実践理性批判』を解説する。
『純粋理性批判』で人間の認識の限界を示したカント。ところが、それによると「自由の存在」「霊魂の不滅」「神の存在」などの哲学が全部否定されてしまう。そこで、今度は道徳哲学でこれらの回復を目指そうとしたのだが──。
カントは人間の認識の仕組みを『純粋理性批判』で説明しました。けれども、『純粋理性批判』によると、「神」「霊魂」などの人間が経験できない領域は人間は推理できないということが明らかになりました(神や霊について考えてもわからないということ)。
そこで、カントは新たにこれらを回復するために、道徳的な形而上学をうちたてようとします。その内容が『実践理性批判』です。
自然科学の世界では、ニュートンの万有引力の法則があります。そこで、カントは自然の世界と同様に、道徳の世界にも普遍的な法則があると考えました(道徳法則)。
それは、自然の因果法則とは違って、私たちの意志を規定する命令であって、「~すべし」という命令の形をとります。
また、それは幸福(快楽)を得るための条件付きの命令ではありません。たとえば、「もしお金がもらえるなら、人を助けよ」というような条件付き命令ではダメなのです。これを「仮言命令」といいます。
真に道徳的な命令は、自分の幸福を計算に入れず、行為の結果をまったく顧慮しないで、いついかなる場合でも「~せよ」と命ずる無条件的な命令です。これは「定言命令」と呼ばれます。
「もしお金がもらえるなら」のところをカットして、「人を助けよ」だけの部分にしたら「定言命令」になります。
道徳法則が命令の形をとるのは、私たち人間が理性的存在者であると同時に感性的存在者(欲望に負けてしまう存在)でもあるので、道徳法則に従って行為するとは限らないからです。
だから私たちは、いつも「無条件に~をするべし」と言い聞かせながら生活しなければなりません。ついつい寝過ごしてしまったり、食べすぎてしまったりするのは、本能のままに生きる感性的存在としての動物と同じです。
でも、理性をもった人間は自分で自分の欲望をコントロールすることができるのです。
道徳法則という人生の公式は、人間がもともともっている実践理性が自分自身に与える法則です(理性の自己立法)。
自分で自分を律するわけですから、これを「自律」といいます。カントによると人間が「自律」的存在であるということは、人間が「自由」であるということを意味します。
自分でルールに従うこと、つまり、「無条件に~せよ」という命令に従うのは自由なのです。
これは、普通に考えると不自由であるという印象をもちますが、「他のいかなる権威にも他律的に拘束されることなく、実践の原理をみずから洞察し、それによってそのつどの自己の実践生活をみずから規制していくことができる」という意味なので「自由」なのです(自分の欲望をコントロールできるということ)。
カントによると、それが人間の「尊厳」にほかなりません。
ところで、『純粋理性批判』では、人間の意志の自由の証明は認められなかったのですが、このように『実践理性批判』では、道徳的命令において意志の自由が確保されました。
同じく、霊魂の不滅も神の存在も『純粋理性批判』によれば、証明することはできませんでした。しかし、『実践理性批判』によると、「最高善」の概念を介することで、これらが実践的に要請されるのです(証明はできないけれど、「霊魂」も「神」もあるのです)。
最高善の実現は、人間が感性的存在者である限り、現実において期待できません。
だから、来世におよぶ無限の道徳的努力が、したがって「霊魂の不滅」が要請されます。また、最高善が実現されるべきであるとすれば、徳と幸福との完全な合致を保証する全能な「神の存在」が要請されなければなりません。
このようにして、実践理性は、「自由の存在」「霊魂の不滅」「神の存在」という3つの理念に対して実在性を与えることができたのです。