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「罪と罰」の「罪」と「罰」は何か

昨日の「『実践理性批判』批判」の前書き末尾に私はこう書いた。

さらに言えば、下のカントの説は、それ自体「証明不可能な断定」そのものなので、それを信じるのは、宗教信仰と同じになる。つまり、それは哲学としてはダメダメだ、と私は思う。

しかし、それは宗教が無意味だということを意味しないのはもちろんだ。私はこの世界からフィクションが消えたら地獄以下だ、ということすら書いているのである。宗教がフィクションだとしても、その効用が素晴らしい(ただし、その悪用の危険性も物凄い)ことを私は当然認めている。カントの説への批判は、「世界の真理を追求するのが使命である『哲学』としてはダメダメだ」、ということだ。

で、昨日だったか、たまたま読んだ小林秀雄の対談集にこういう一節(小林発言)がある。

「罪と罰」は純粋心理批判だよ。心理記述じゃないのだ。カントの意味の批判なのだ。

「カントの意味の批判」とは「分析と考察」くらいに解すればいいかと思う。で、「罪と罰」が「心理記述ではなく心理批判だ」という小林の説は、分かるような分からないような言葉である。「罪と罰」の中にはラスコリニコフの「心理記述」はたくさんあるが、「心理批判」はほとんど無かったように私はうろ覚えで記憶しているからだ。特に最後のラスコリニコフの「回心」あるいは「改心」の内容はまったく記述すらされていないのである。とすると、この作品の最大の問題(謎)は実は「罪と罰」という題名そのものにあると思う。
まあ、私も含めてたいていの人は、

「真の罪とは法的な罪ではなく、『神への罪』であり、その罰も罪びと自体の心に起こる後悔と反省である」

と考えるかと思う。この問題を私はこれまで考えたことすらなかったが、あの作品の末尾(ラスコリニコフがソーニャの前に膝をつき、彼女の足に接吻する行動)を見ると、そうとしか思えないわけだ。つまり、ソーニャこそは彼の回心を告げるべき「神の代理」であるわけだろう。

ということで、いずれまた「罪と罰」を再読する必要性が出てきたわけだが、それまでは生きていたいものである。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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