しかし、下のツィートは言っている内容がよく分からない。
「世界は差別に満ちている。だから我々も中国人や韓国人を差別しよう」ということなのだろうか。もっとも、少し前のツィートでは西洋人の不潔さを書いていたから、西洋崇拝者というわけでもないようだ。これは、あれか。「フルメタルジャケット」の「俺はイタ公も黒ん坊もユダ公も平等に差別する」という奴か。
しかし、「ど左翼」という言葉は初耳である。
気の赴くままにつれづれと。
2020年2月12日、中国メディアの新華国際は、日本各地から中国に届けられた支援物資にさまざまな漢詩の一節が添えられていることについて、「まるで漢詩の大会のようになっている」と報じた。
記事は、日本で支援物資に漢詩の一節を添える動きの始まりとなったのは、中国語検定試験のHSKなどを行っている一般社団法人日本青少年育成協会が、湖北省内の大学などに送った物資の箱に「山川異域,風月同天」(住む場所は異なっていても、風月の営みは同じ空の下でつながっている)と書かれていたことだと紹介した。
そして、この「山川異域,風月同天」に始まり、「豈曰無衣,与子同裳」(足りない物は共有して補おうではないか)や、京都府舞鶴市が友好都市の中国・大連市に贈った物資の箱に貼られた「青山一道同雲雨,明月何曾是両郷」(風も雨も乗り越えてきた親友が、遠く離れたところに住んでいても、同じ空で同じ月を眺めている)に至るまで、中国のSNS上で大きな話題になっており、「日本の友人たちの漢詩大会状態になっている」との声まで上がっていると伝えた。(翻訳・編集/柳川)
近現代の政治論議を混乱させているのは、政治用語の定義が曖昧なままに議論をしているからではないだろうか。果たして、議論の当事者たちが使う言葉の概念はお互いの頭の中で同じものなのか。
ここで私が特に言いたいのは「社会主義」と「共産主義」の混同であるが、これは辞書ですらその明確な違いを書いていない。(すべての辞書や用語集を確認しているわけではないのは勿論だが。)手元の三省堂「新明解百科語」では、共産主義にも社会主義にもその要素を「私有財産の廃止」と書いており、それならこの両者に根本的な違いは無いことになる。そして、この部分(私有財産の否定)こそが社会主義や共産主義嫌悪や否定論の肝心かなめの部分なのである。
私有財産の否定とは、現に私有財産を持っている人々から、その「余剰」財産を強奪し、財産を持たない階級(プロレタリアート)に配分するということだ。つまり、これは「強盗の論理」である、とほとんどの人は思うだろうし、それは当然だろう。
はたして、社会主義は私有財産を否定しているのか。
マルキシズムではいざ知らず、マルクス一派によって否定された、彼ら以前の社会主義思想において、私有財産の否定を主張した人間は一部だけだと私は理解している。そのような乱暴な主張が世間に受け入れられるはずはない、とまともな頭脳の持ち主なら考えるはずである。
では、社会主義とは何か。それは「socialism」という言葉自体が示していると私は思っている。これと「communism」とを比べれば、違いは明瞭だろう。「com」は共同・共有を意味する接頭辞だ。だからこれを「共産主義」と訳すのは正しいし、共産主義が「財産の共有」つまり、「私有財産の否定」を中心理念とするのも当然だろう。
しかし、「socialism」の「social」とは「社会」の意味であって、そのどこにも財産共有とか私有財産の否定の観念は無い。単に、「個人の欲望だけに囚われず、社会全体の幸福を考えよう」という理念しかそこには無いのであり、マルクス以前の社会主義とはまさにそのような人道主義思想だったのである。だからこそ、多くの善良な人々を惹きつけたのである。
邪推するならば、社会主義と共産主義を同一視させることで、共産主義だけでなく社会主義をも否定させる風潮を作る意図が、出版物などでの社会主義と共産主義の定義のあいまいさにあるのかもしれない。
2012年08月16日
春名風花さん
ぼくは小学6年生です。タレントだけど、ふつうの女の子です。
今から書く言葉は君には届かないかもしれない。だって、いじめてる子は、自分がいじめっ子だなんて思っていないから。
いじめがばれた時、いじめっ子が口をそろえて「じぶんはいじめてない」って言うのは、大人が言う保身(ほしん)のためだけじゃなく、その子の正直な気持ちじゃないかなと思います。
ただ遊んでいるだけなんだよね。自分より弱いおもちゃで。相手を人間だと思ってたら、いじめなんてできないよね。感情のおもむくままに、醜悪(しゅうあく)なゲームで遊んでいるんだもんね。
ぼくもツイッターでよく死ねとか消えろとかブスとかウザいとか言われます。顔が見えないから体は傷つかないけど、匿名(とくめい)なぶん、言葉のナイフは鋭(するど)いです。
ぼくだけでなく、時には家族を傷つけられることもある。涙が出ないくらい苦しくて、死にたくなる日もあります。
けれどぼくは、ぼくがいくら泣こうが、本当に自殺しようが、その人たちが何も感じないことを知っている。いじめられた子が苦しんで、泣いて、死んでも、いじめた子は変わらず明日も笑ってご飯を食べる。いじめは、いじめた人には「どうでもいいこと」なんです。
いじめを止めるのは、残念ながらいじめられた子の死ではありません。その子が死んでも、また他の子でいじめは続く。いじめは、いじめる子に想像力(そうぞうりょく)を持ってもらうことでしか止まらない。
いじめゲームをしている君へ。
あのね。キモい死ねと連日ネットで言われるぼくが生まれた日、パパとママはうれしくて、命にかえても守りたいと思って、ぼくがかわいくて、すごく泣いたらしいですよ。この子に出会うために生きてきたんだって思えるくらい幸せだったんだって。それは、ぼくが生意気(なまいき)になった今でも変わらないそうですよ。
想像してください。君があざ笑った子がはじめて立った日、はじめて歩いた日、はじめて笑った日、うれしくて泣いたり笑ったりした人たちの姿を。君がキモいウザいと思った人を、世界中の誰(だれ)よりも、じぶんの命にかえても、愛している人たちのことを。
そして、その人たちと同じように笑ったり泣いたりして君を育ててきた、君のお父さんやお母さんが、今の君を見てどう思うのか。
それは、君のちっぽけな優越感(ゆうえつかん)と引き換(か)えに失ってもいいものなのか。いま一度、考えてみてください。(はるな・ふうか=タレント)
は、日本語でいうところのウイルスを指しています。
日常的には、インフルエンザウイルスやコンピュータウイルスなどという使い方をしていますね。
日本人はカタカナ英語のウイルスの認識が強いため、そのままカタカナ発音してしまいがちです。
しかし、残念ながらネイティブにウイルスと言っても通じません。
まず、英語として発音する場合は、
vはヴと読みましょう。次の文字はiですので、viとつなげてヴィと言ってしまいそうですが、ここでも注意が必要です。
viはヴァイと発音します。
〇〇ウイルスと伝えたい場合は、文字通り○○ヴァイラスと発音してください。