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「表現の自由」問題が紛糾する理由

別ブログに書いた文章だが、アップされないかもしれないので、ここにも載せておく。
割と重要な内容だと思う。

(追記)下の長々しい文章を一言で言えば、「日本社会は表現者にまともなカネを払え」ということである。


(以下自己引用)



「表現の自由」問題というのは、敵と味方をはっきり分けてしまうようなところがあり、表現者に属する人々は、ほんの少しでも表現の自由を制限する話になると、「一歩でも譲ると、その制限はどんどん拡大して、表現の自由が大きく侵害されるから、絶対に譲ってはならない」と団結する。自分で表現しない人間は、「短歌や俳句のように、自分で自分を制限の中に閉じ込めて表現を探るジャンルさえあるのだし、多少の制限による不自由より公序良俗を害さないほうがいいんじゃね(ぶっちゃけて言えば、なぜあんな不快なものを公衆の前に出すのか、理解できない。)」と思うわけだろう。この両者の争いは、お互いにまったく譲らない点ではほとんど宗教上の争いに近い。後者は突き詰めれば自分の個人的な美意識にしか議論の基盤は無いから、だいたいの場合にこの論争は後者があきらめて話は終わることになる。だが、膨大な大衆に「発言権」があるSNSの時代には、この問題は何度でも繰り返されるだろう。
それは、実は、「表現の自由」問題が常に「公開の自由」とセットになっているからだ、というのが私の考えである。
確かに、ある時代の観点からは不道徳であっても、「人類の精神的範囲を広げる」ことに寄与した表現はたくさんあるだろう。マルキ・ド・サドもニーチェもそうであり、ソクラテスですらその思想(当時の知識層への批判)が青少年に悪影響を与えたとして毒死させられたわけだ。
つまり、道徳や美意識は時代や場所で変わる、というのは事実であり、その社会の基準に反する思想でも貴重なものはあるわけだ。そして、その思想が犯罪であるとされるのは、それが「公開されたからだ」というのは誰でも認めるだろう。(サドの場合は、著作自体が問題にされたかどうかは知らない。別の「犯罪」で投獄されたような気がする。)

で、ここで「公開の自由」について下品な話をするが、排便や排尿には公開の自由はあるだろうか。当人にとっては、やむにやまれない衝動による行為であり、それを我慢することが一瞬もできないなら、無数の人の目の前でも排便していい、という法律を決めている社会はほとんど無いと思う。つまり、「表現の自由」というのは、それほどの切実さを持ったものであり、それができないと死ぬ苦しみを持つようなものなのか。そして、それは、是が非でも公開しなければならないものなのか。
私にはそうは思えない。一般論として、カネのためにこそ表現はするのであり、「お前の作品を封印する代わりに一億円やろう」と言えば、この問題は即座に解決する、というのはあまりにシニカルだろうか。つまり、表現者への報酬があまりに安く、あまりに安定性が無いから、表現者たちはほんの僅かな「表現の機会」でも失ったり制限されたくないわけで、そこで大同団結して戦うのだ、というのが私の考えだ。
そういう経済的側面から「表現の自由」問題を捉えた論考を私は見たことがないので、一石を投じてみたのである。
なお、私は無数の表現者によって自分の人生に多くの幸福と喜びを与えられてきた人間であり、表現の才能を持ち、努力する人間を世界の何より尊敬する者である。

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煙草の害と煙草の利益

実は、「生物兵器として作られた新型ウィルスで人類の半分か九割くらいが死滅し、庶民の中では喫煙習慣のある人間だけが助かる」、という小説を構想していたのだが、こういう話は書くのが面倒くさいので、ホッタラカシにしていた。まあ、被差別種族である喫煙者だけが助かる、というところが当然ミソである。私は「不定期喫煙者」でしかないが、全世界的な喫煙者弾圧に義憤と公憤を感じているのである。喫煙で寿命が縮まるのは当人の勝手であり、「表現の自由」などと同様の、「人権」であると私は思っている。
下の話は、「徽宗皇帝のブログ」に書いた、中国でのコロナウィルス死亡者数の多さは、抗生物質の使い過ぎで咽喉や肺が「ウィルスに対し抵抗力がなく脆弱すぎるから」ではないか、というのに似ている。
まあ、コロナウィルスでは死ななくても、肺癌で死ぬなら同じようなものではあるが、自分の覚悟の上でリスクを引き受けるのと、何となく巻き込まれて死ぬのでは大違いだ。
煙草にはそれなりの害があることは私も身をもって知ってはいる。だが、煙草を吸うメリット(私の場合は平和で瞑想的な気分になる)もあるのである。一本吸うごとに寿命が一日縮まる程度なら、喫煙を選択するのも馬鹿な選択だとは思わない。



(以下「ネットゲリラ」から転載)


煙草吸いはコロナに強い

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コロナで朗報なんだが、喫煙者は罹りにくく、死ににくいというのだそうで、武漢での統計ではそういう結果が出ているそうだ。死んだ人の85パーセントが煙草を吸わない人で、中国の武漢あたりだと喫煙率が高いので、そういう結果になるらしい。多分、煙草吸いは普段から呼吸器系の粘膜を鍛えているから丈夫なようだw で、ちょっぴり安心した今日このごろw

 共同通信社は17日、新型コロナウイルスへの感染が16日に確認された60歳代のハイヤー運転手の男性が1月末~2月初めの4日間、同社の業務に従事していたと、首相官邸の記者クラブ・内閣記者会の加盟各社などに対して明らかにした。
 男性のハイヤーに乗車した同社職員は計10人で、17日から自宅待機の措置をとっており、現段階で発熱などの症状はないという。

新型コロナの魔の手が官邸に迫る、というんだが、ハイヤー運転手→記者といったルートで着々と侵攻中w

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Sorry we missed you

別ブログに書いた記事だが、自己引用しておく。私はこの「I miss you」のパターン化した日本語訳が嫌いなのである。そうした、世間に叩き込まれた「常識」による「脳内ロボット作業」が嫌いと言ってもいい。(現代人の私的生活の「ロボット化」はコリン・ウィルソンがかなり昔に指摘している。)
なお、「家族を想うとき」は見ていないが、非常に社会的問題意識に溢れた良作らしい。しかし、題名の邦訳は糞である。「不在通知」のほうが遥かにいい。非情さがあり、象徴性がある。




「I miss you」の正しい訳は本当に「君がいなくて寂しい」か

どういうわけか、「I miss you」は必ず「君がいなくて寂しい」と訳すのが正しい、というのが定説になっているが、「僕は君を失った」でなぜ悪いのか、説明できる人がいるだろうか。
下のツィートにある不在票は、訳すなら「我々はあなたがいなくて寂しい」ではなく、「残念ながら、ご不在のためにお会いできませんでした(配送できませんでした)」だろう。そのどこにも「寂しい」などという概念は含まれていない。



さんがリツイート

映画の原題は、宅配便の不在票の文句「Sorry We Missed You」とのことだけど、この言葉には「見落とされた人々」「見捨てられた人々」という意味がかかっているのでは。 > 町山智浩 ケン・ローチ監督作品『家族を想うとき』を語る




(追記)某英語サイトより

「I miss you」:あなたがいなくて寂しい

「I miss you」の意味は「あなたがいなくて寂しい」になります。 動詞「miss」は少し和訳しづらいのですが、「...がいないことを寂しく思う」という意味です。 「miss...」=「feel sad without...」と覚えておきましょう。 「miss」は「会いたい」「悲しい」「恋しい」「寂しい」などの様々な感情がすべて内包されています。 恋人、配偶者、家族、友人などあなたにとって大切な人が遠くへいってしまって、会いたいけど会えないときに使うのが「I miss you」になります。例えば、遠距離恋愛をしている恋人同士でSkypeなどをやると「I miss you.」を連発します... 異性に対して使うときは少し注意が必要で、ただの友人に対して使う場合は問題ありませんが、好意を寄せる人や元恋人に対して「I miss you」と言ってしまうと、誤解を招く可能性があるので注意しましょう。 また、アメリカでは通常の友人間(クラスメートなど)で「寂しいな」「また会おうね」くらいのカジュアルなニュアンスで使いますが、イギリスでは家族や本当に親しい友人の間で使うのが主です。イギリス人の感覚からいくと、「I miss you」には、「I love you」と同じくらい深い愛情をも意味するフレーズになっています。国によって「miss」のニュアンスの重さが違うのでここにも注意が必要です。










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人間が孤島化する未来

別ブログに載せた「in deep」記事の一部だが、アメリカの今は十年後の日本の姿と言われているのでご用心。まあ、いずれ人類は他者との肉体的接触などまったくせず、VR(仮想現実)だけで人生を送るようになるだろう。ウェルズが「タイムマシン」で描いた未来人(のうちのハイソ人類)はそれに近い。凄い洞察力である。


(以下引用)




あと、先ほどの中に、肛門ガンとか口腔ガンとかの、本来なら稀少なガンが増加していることが挙げられていますが、最初は意味がよくわからなかったのですが、これはすべて、先ほどの項目の中の以下と関連することのようです。



#11 アメリカ疾病予防管理センターのデータによると、アメリカには現在、1億1000万件の STD(性行為感染症)症例がある。



先ほどの「アメリカで生まれる赤ちゃんのうちの約 40%が未婚の女性から生まれている」などにしてもそうなのかもしれないですが、先ほどのいくつかのデータを見ていますと「性に関してのモラル」が崩壊しつつあるようなイメージがあります。



ある程度、性についての行動を人が起こすのは当たり前だとしても、いくら何でも、性行為感染症の症例が 1億1000万件は多すぎ。



最初は数字を見間違えたかと思いましたが、何度見ても「 110 million 」とあり、1億1000万のようなのです。アメリカの成人の人口は 2億3000万人ですので、約半数が…。

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シラミやダニや、ちょいヤダ、爺や

別ブログに書いた昔の記事の一部を載せておく。こういう、くだらないことを考えるのが私の趣味であることは何度か書いている。ただし、私の耳の「解像度」が悪いのは子供のころからである。「映像研」のeasy breezyなど、歌は好きだが歌詞はほとんど聞き取れない。最初は「ありゃまた、こりゃまた」とでも言っているのだろうか。まあ、ラップというのは河内音頭の発展形と言うか、現代形だろうが、聴覚障碍者泣かせだ。


(以下引用)


まあ、こういうのは案外昔の人のほうが凄いのを作っていたりする。
落語の「ジュゲムジュゲムゴコウノスリキレ……」などというのからしてそうであり、歌の方なら、森山加代子の

「ジンジロゲヤジンジロゲ、ホーレツラッパノツーレツ、マージョリ、マージンガラチョイチョイ、ヒッカリコマタキワーイワイ、シラミヤパミヤ、チョイナダジーヤ、チョイナダジーヤ、チョイナーダジーヤ」

という、最初から最後まで意味不明の歌詞がある。なお、上の歌詞は、私の記憶で書いたもので、正確さの保証はしない。子供のうろ覚えでもこれだけ記憶させるところが凄いと思う。

後で、ネットで正確な歌詞を調べてみようと思う。


(追記)ネット質問箱の回答から一部転載。私の記憶は「ドレドンガラガッタ」が抜けていて、「ヒラミヤパミヤ」がなぜか「シラミヤパミヤ」となっていた。これを「シラミやダニや」とすれば殺虫剤のCMソングに転用できそうだwww  「しっかり○○焚きわーいわい♪」とかね。


【ジンジロゲ ヤ ジンジロゲ ドレドンガラガッタ ホーレツラッパノツーレツ マージョリン マージンガラ チョイチョイ
ヒッカリコマタキ ワイワイ 】の部分

日本ボーイスカウトの創始者久留島秀三郎が、知り合ったインド人に、酒を飲ませた時に酔って歌いだした「ヒラミルパニア」を
聞き覚えてボーイスカウトに持ち込み歌われてきた、大正5~6(1916~17)年頃から三高で流行「ジンジロゲヤジンジロゲ、ドーレードンガラカッタ、ホーレツラッパノツエツ、マージョリジョーヤ、シッカリカマタリワイワイワイ」の部分もついて【ヂンヂロゲの歌】と命名され以来「三高寮歌」として定着したそうです。













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コロナウィルスと人類の戦いwww

一応、「コロナウィルスは無害だ」と私が言った(そこまで言ってもいないが)という責任を取りたくない(www)ので、「コロナウィルスは大きな危険である」という説も載せておく。
中国での死者は確か千人を超えていたかと思うので、もちろんある程度の危険性はあるだろうが、毎年のインフルエンザでもそれくらいの死者は出ているだろう。しかも、今回は「都市封鎖」によってかえって武漢内での罹患者数は激増したと思われる。ダイヤモンドプリンセス号に閉じ込められるのと同じことで、病人の傍に四六時中いれば、ほとんどの人間が罹患するのは当然である。武漢はその巨大な実験場みたいなものだ。
下の記事は、ほとんどすべてが推測で書かれているように私には読めるが、巨大災害の影響を過小評価していると、後で災害が巨大化した時に責任を問われるから、と見るのは邪推だろうか。
その意味では、「コロナウィルスはたいしたことはない」と言う方が勇気はいるだろう。


(以下引用)


新型コロナウイルスに我々はどう対峙したらいいのか(No.2)

新たな段階に入っている新型コロナウイルスと人類の戦い



image
2020年2月12日
医学系研究科 微生物学分野

押谷 仁 教授

日本ではこの1週間新型コロナウイルスの話題はクルーズ船の話でもちきりだった印象がある。ウイルスは「見えない」存在である。今回のコロナウイルスも直径100-200ナノメートルという小さな粒子であり、肉眼ではもちろん普通の光学顕微鏡でも見ることができず、ウイルス粒子を見るためには電子顕微鏡が必要である。今回の新型コロナウイルスはウイルス粒子が見えないということと同時に、このウイルスの拡がりが見えないという特徴があり、そのことがこのウイルスとの戦いを難しいものにしている。


 クルーズ船の乗客から重症者が発生したということが今日厚生労働省から発表された。クルーズ船の乗客では高齢者が多かったこと、SARSでも発症後1週間ぐらいで急激に症状の悪化する例が多かったことを考えても十分に起こることが想定されていた事態である。


 クルーズ船の流行はいろいろな偶然が重なりたまたま、ウイルスの拡がりを見ることができたものと考えるべきである。そこから見えてきていることはやはりこのウイルスは相当程度ヒトからヒトへの感染力が高いという事実である。武漢では、流行が始まったとされているマーケットの周辺で「見えていた」流行を追いかけているうちに、その陰で「見えない」感染拡大が急速に進んで手の付けられない状態になっていたと考えられる。


 シンガポールでは現在、感染連鎖を可視化しようとして全力を挙げて取り組んでいて、地域内での流行の実態が少しずつわかってきている。これは2003年のSARSの流行の後、このような事態に対応できる体制を整備してきたからこそできていることである。シンガポールではほとんどすべての病院でこのウイルスの検査をする体制が整備されていて1日2000検体以上を検査することが可能である。日本においても検査体制は急速に整備されていくと考えられるが、現時点では日本には感染連鎖を可視化するすべは限られている。そのような中でどうしたら最も効率よく感染連鎖を可視化できるのを考えないといけない。


 たまたま「見えた」クルーズ船の流行にのみに目を奪われて、全体像を見失ってはいけない。むしろ、クルーズ船の流行は日本国内でもシンガポールと同様に地域内での感染連鎖が進行している可能性を強く示唆するものであり、地域内の流行が起きるという前提で、それぞれの地域で医療体制を考えるなどの準備をすることが必要である。武漢の失敗の教訓を我々は学ばないといけない。


 我々は今、非常に厄介なウイルスを相手に戦っている。「過度に恐れずにインフルエンザと同じような対応を」というメッセージを伝えるだけでこのウイルスにたち向かうことができるとは私は考えていない。そもそも、このウイルスは明らかに季節性インフルエンザと同じではない。日本でも、毎年高齢者を中心に多くの人が季節性インフルエンザで亡くなっている。しかしその死亡のほとんどはインフルエンザ感染の後に起こる細菌性肺炎やインフルエンザ感染をきっかけに寝たきりの高齢者などが心筋梗塞など別の原因で亡くなるインフルエンザ関連死と呼ばれる死亡を含んだものである。このため、インフルエンザは高齢者の最後の命の灯を消す病気と言われている。


 しかし、この新型コロナウイルスはまったく違う。重症化する人の割合は低いが、重症化した人ではウイルスそのものが肺の中で増えるウイルス性肺炎を起こす。重症のウイルス性肺炎は治療が困難で、日本でも救命できない例が出てくる可能性は十分に考えられる。寝たきりの高齢者などにとってもこのウイルスはもちろん危険なウイルスであるが、中国では50-60代の人も多く亡くなっており、30-40代の人の死亡も報告されている。多くの人にとっては、季節性インフルエンザと同じ程度の病気しか起こさないウイルスだからといって、決して侮ってはいけないウイルスである。


 このウイルスは、急速な勢いで世界に拡がっている。このウイルスとのここまでの戦いは人類の側の完敗に終わっている。そのウイルスの拡散するスピードに人類はまったく追いつけておらず、すべての対応が後手に回っている。それは中国だけではなく日本やWHOを含めたすべての国際社会がそのスピードについていけていない。しかし、このウイルスに我々の想像を超えるようなスピードを与えたのは人類なのだということも忘れてはいけない。


 同じようなウイルスが50年前に出現しても中国の一つの地域で謎の肺炎で多くの人が亡くなったという程度のもので終わったはずである。SARSの起きた2003年とも我々はまったく違う時代を生きている。SARSは広東省の広州で最初の感染拡大が起きて、ウイルスが香港を経由して世界に拡散することで世界的な流行となった。SARSは幸いにして日本で流行を起こすことはなかったが、今は広州と日本の間に毎日多く直行便が飛んでいる。今、広州で同じことが起きたら日本は真っ先に流行を起こす国になっている可能性は高い。このウイルスを世界中に運んでいるのは動物ではなく、人である。中国国内、さらに中国と日本を含む多くの国との人の行き来が急速に増大したことがこのウイルスに人類に制御できないようなスピードを与えてしまったことは明らかである。


 新型コロナウイルスの流行は収束に向かっているのではないかという楽観論が広がっている。このような大規模な流行が同じ地域で1年以上にわたって続くことはあり得ないので、当然どこかの時点で流行は収束に向かっていく。武漢での流行がすでにピークを迎えているかの判断は慎重にすべきだが、おそらく武漢の流行は遠くない時期に収束に向かっていくことになると考えられる。しかし武漢での流行が収束に向かうことがこのウイルスとの戦いの終わりを意味しない。中国各都市は武漢から少なくても2-3週間遅れて流行が始まっているので、他の都市での流行がどう推移するのかは慎重に見極める必要がある。しかし、少なくても現時点で初期の武漢のような状態になっている場所はおそらくないというのはいい徴候だと考えられる。


 しかし、もはや中国の疫学状況と日本の国内の状況は必ずしもリンクしない。今、我々が最も懸念しないといけないのは渡航者からの感染連鎖がすでに国内で成立している可能性である。国内で成立しているかもしれない感染連鎖は、当然中国の疫学状況にまったく影響をうけない。我々はまだ国内の流行の始まりさえ検知できていないのである。楽観的な情報に流されて安心できる状況には到底ない。


 もし中国政府の取っている対策のいくつかが有効で武漢のような状況になることを防げているのだとすると、その情報は日本にも、世界にとっても非常に重要である。何が有効で何が有効でなかったのかという中国での教訓を生かすことが次の段階のこのウイルスとの戦いには絶対に必要である。2003年のSARSの流行の際、中国は少なくても2003年2月上旬までにSARSコロナウイルスに対処する方法がわかっていたはずである。実際に2月中旬以降、広州の流行は収束方向に向かっていた。その情報を国際社会と共有しなかったことで国際的な流行につながったのではないかということで、中国は国際社会から強く非難された。中国はその轍を踏んではならない。


 SARSはヒトからヒトへの感染連鎖をすべて断ち切ることができ、グローバルな封じ込めに成功することができた。しかし、このウイルスについては中国で流行が収束傾向に向かうとしても、これだけ広範に広がってしまい、かつ感染連鎖の非常に見えにくいこのウイルスの感染連鎖があと半年ですべて断ち切れるとは考えられない。当初の最悪のシナリオは世界のすべての場所が武漢のような状況になってインフルエンザパンデミックのような状況になることだったが、その可能性はかなり低くなっている。日本で武漢のような非常に大規模な流行が起こることも考えにくくなっている。しかし、医療や公衆衛生体制が脆弱な国の都市が「第2の武漢」になってしまう危険性は残っている。そういった新たな感染源ができてしまうと、そこを起点としてまた世界中にウイルスが拡散していくことになる。東南アジアやアフリカなどの国の都市が「第2の武漢」になる可能性は残っている。国際社会が協力して「第2の武漢」が出現することを阻止していく必要がある。


 このウイルスとの戦いの第1ラウンドは人類の完敗だったが、流行は新たな局面に入り、人類は急速にこのウイルスに対抗するすべを見つけつつある。その意味でも、「過度に恐れずインフルエンザと同じ対応」をしていれば十分というような感染症ではないと私は考えている。インフルエンザに対してはワクチンや抗インフルエンザ薬、さらには迅速診断キットというツールがあるが、このウイルスには現時点ではそういったツールはない。我々がこのウイルスに対抗するために持っているツールは限られている。現時点では、残念ながらすべての感染連鎖を可視化することはできず、日本で「見えない」感染連鎖が進行している蓋然性も相当程度高くなっている。しかし、我々が持っている限られたツールを駆使して「見えない」感染連鎖の一部を可視化できる可能性は出てきている。抗ウイルス薬やワクチンについても希望の光が見えてきている。このウイルスに対抗できるツールを最大限生かして、このウイルスとの第2ラウンドを戦っていく必要があると私は考えている。
 


 


医学系研究科微生物学分野 教授


押谷 仁






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「我々が恐れるべきは、恐怖そのものである」

安倍政権の無能無策や政権による政治犯罪はいくらでも批判されていいが、今回のコロナウィルス問題では、あまり危機感を煽り立てるのはどうだろうか。たとえば、マスクの買い占めで、病院で使用するマスクさえ不足している、というのは一種のパニックと言っていい。ネット言説が巡り巡って、そうしたパニックの原因になっていないか。
講談社のネットサイトに、山根一眞が専門家にインタビューした記事が載っているが、コロナウィルスというのは通常のインフルエンザウィルスとは異なり、空気中に長時間浮遊することは無く、体外に出たら短時間で死滅するらしい。つまり、「飛沫感染」はするが、「空気感染」はほとんど無いらしいのである。
まあ、人混みに出れば、眼前でクシャミや咳をした人間から飛沫感染することはあるだろうが、要するに、「現に罹患している人が、他人に感染させないためにマスクをする」だけでいいのであって、健康な人間が「コロナウィルス予防のために」マスクをするのはほぼ無意味である、と言えるのではないか。まして、マスクの買い占めなど言語道断横断歩道というものだろう。
下の記事の中には、「驚いたことに30%は感染しなかった。また感染した人の50%は上気道感染のみで肺炎には至らず、症状も軽い」のように、素人が読むと首を傾げたくなる部分もある(30パーセントが感染しなかったということは、70パーセントが感染したということで、これは大きな数字ではないのか。また、50パーセントが上気道感染ということは、残り50パーセントは重篤な肺炎になったということだろう。)が、全体としては耳を傾ける価値のある内容だと思う。


(以下引用)




コロナ「感染拡大のおそれはとても小さい」大御所がパニックを叱る!

過剰反応を広めた「2つの誤算」とは
山根 一眞 プロフィール

根路銘 コロナウイルスは咳や痰で飛び出しても1メートルを超えれば死滅します。感染者の近くで咳や痰を受ければ、小さな粒子となった飛沫(飛沫核と呼ぶ)を受けて感染するおそれはありますが、インフルエンザのように1回の咳で1万個以上のウイルスが死ぬことなく長時間浮遊し続け10メートル以内のほとんどの人を感染させる「空気感染」は起こらないんですよ。


新型インフルエンザでは、1人の発病者が搭乗した航空機内で40人が感染し、重度の肺炎になったケースがありました。CDC(米疾病対策センター)が報告している有名な「航空機事件」ですが、これも「空気感染」ゆえです。


一方のコロナウイルスは「飛沫核感染」しかしないので、感染者がしっかりとマスクをしていれば感染拡大のおそれはとても小さい。これがコロナウイルスというものなんですよ。

コロナウイルス羽田空港では中国便の搭乗客の体温チェックも実施されている Photo by Getty Images

米国では、SARSのコロナウイルスの感染力を調べるため、ボランティアによる人体実験を行ったことがあるんですが、驚いたことに30%は感染しなかった。また感染した人の50%は上気道感染のみで肺炎には至らず、症状も軽いことが確かめられています。


つまり、呼吸器感染症では、インフルエンザウイルスは横綱級、コロナウイルスは関脇以下程度だと私は言っているんです。


強い危機宣言をしないWHOに対して、トップの辞任要求の動きが広がっていて、それに乗じた著名人すら出ていますが、WHOの認識は正しいんです。


観光バス内で運転手さんとガイドさんが感染したと報じられましたね。もし、インフルエンザウイルスのような強い「空気感染力」があれば、バスの乗客の大半も感染したはずです。2人だけだったのは「弱い」コロナウイルスゆえなんですよ。






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酔生夢人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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