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「道徳」とは何か

内田樹のブログから転載。
非常に面白い内容だが、結論については賛成とも反対とも言えない。「まあ、そういう考えもあるか」程度だ。私の考える「道徳」とは違う気もするが、そもそも深く考えたこともない。いずれにせよ、私にはいい「思考ネタ」である。ちなみに、私にとっての倫理とは「行為の美」である。たとえば自己犠牲などがそれだ。逆に、醜い行為は、自己の欲望のために他人を踏みにじる行為である。つまり、自分の中の動物性や野獣性との対峙が道徳だと思う。

(以下引用)



 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 道徳の本を書くように頼まれました。
 何を書いたらよいのかわからないままに、「うん、いいよ」と引き受けてしまいました。ふつうは何を書くか決まっているから引き受けるんでしょうけれど、このときは何を書けばいいかわからないのに、引き受けてしまいました。書きながら考えてみようと思ったからです。
 この本はそういう本です。道徳について書かなければいけないのですけれど、何を書いていいかよくわからない。だから、「道徳について何を書いていいかわからないのはなぜか?」というところから書き始めることにします。
 どうして「何を書いていいかわからない」のか。それは「道徳」ということばの意味が僕にはよくわかっていないからです。いや、ある程度はわかっているのでしょうけれど、あくまで「ある程度」です。ちゃんとわかっているわけじゃない。だから、人に向かって「そもそも道徳とは・・・」というような説教ができる気がしない。
 でも、それって変ですよね。
 だって、「道徳」って、ごくごくふつうの、誰でも日常的に使うことばだからです。そういう「誰でも日常的に使うことば」の意味がよくわからないということがあるんでしょうか?
 あるんです。
 道徳ということばを僕も使います。まるで、その意味がよくわかっているかのような顔をして使います。
 でも、こうして改めて「道徳の本を書いてほしい」と言われると、自分がいったい道徳について何を知っているのか、どのようなことを言いたいのか、よくわからない。
 ふだんふつうに使っていることばなのに、改めて「それはほんとうのところ、どういう意味なんですか?」ときかれると、とっさには答えられない。
 きっとそれは、道徳というのがそれだけ手ごわいことばだからだと思います。
 簡単に扱うことを許さないこの「手ごわいことば」について、これから考えてみることにします。
 
 これからあと僕が書くのは、あらかじめ用意していた話ではありません。書きながら考えたことです。だから、あまりまとまっていないでしょうし、読み終わったあとに「なるほど、そうか」とすっきり気持ちがかたづくこともないと思います。
 でも、それでいいんじゃないですか。
 僕くらい長く生きてきた人間が、あらためて「道徳とは何か?」を考えたときに、うまく説明できないということそのものが、とてもたいせつな情報だと思うからです。


 世の中には、よく使われているのだけれど、実はそのことばのほんとうの意味をだれもよく知らないということばがあります。「あります」どころか、見渡すと、そんなことばばかりです。
 でも、意味についてみんなが合意していないと話が先に進まないということはありません
 たとえば「神さま」というのは、それがほんとうは何を意味することばなのか、誰も知りません。だって、誰も見たことがないんですから(「私は見た」という人がときどきいますけれど、それはちょっとわきに置いて)。そもそも「神さま」というのは「人知を超えたもの、人間の感覚や知力をもってしては感知することも理解することもできないもの」なんですから、「神さまというのは、これこれこういうものだよ」と人間に説明できるはずがない。
 でも、「神さま」ということばが何を意味するかよくわからないから、そういうことばは使ってはいけないということになるとむしろ困ったことになります(「『神さま』ということばって、何を意味するか、よくわからないですね」ということさえ言えなくなりますから)。
 だから、意味がよくわからないけれど、使う。意味がよくわからないけれど、教会に行ってお祈りしたり、お寺でお参りしたり、神社で柏手を打ったりすることが僕たちにはできます。そういうときには、自分がなにをしているのか、なんとなくわかっている。なんとなくわかっているなら、正確なことばの定義なんかできなくても、それでいいと思っている。
 僕もそれでいいと思います。なんとなくにしても、こどもの考える「神さま」と大人の考える「神さま」はたぶんずいぶん違うものです。いろいろなふしぎな経験をしたり、つらいことやたのしいことを経験したあとになると、大人たちは「神さま」について、ことばの意味はよくわからないままに、子どものころよりは深い考え方をするようになります。ひとによって「神さまはたしかにいる」と確信を深めたり、「神も仏もあるものか」とふてくされたり、さまざまですけれど、それらのことばには経験のうらづけがある。だから、深い実感がこめられる。
 意味は定義しがたいけれど、いろいろな経験を積んでくるうちに、「個人的にはこういうふうに理解することにした。私はこういう意味で使う」ということばがあります。ほかのひととそのまま共有することはできません。でも、ひとりひとりの個人が、自分自身の経験から引き出してきた「ことばの意味」はそれなりにずしりとした重さやたしかさがある。よく意味がわからないままに、使われることばというのは、たぶんそういうものではないかと僕は思います。


 道徳もそれと似ています。
 何を意味するのかよくわからないけれど、ひとりひとりなんとなく自分なりに「だいたいこういう意味かな」と思っているものがある。だから、ひとりひとりの個人的な経験によって、ことばの厚みや奥行きや手ざわりがずいぶん違ったものになる。
 もちろん、道徳にも辞書的な定義はあります。たとえば、手元の新明解国語辞典にはこうあります。
「社会生活の秩序を保つために、一人ひとりが守るべき、行為の規準」。
 なるほど、その通りですね。でも、ここにも書いてありますね、「一人ひとりが」って。一人ひとりが守ることであって、「みんないっしょに」守るべきものではない。ということは、僕たちの一人ひとりが、自分で、自分の責任で、その「行為の規準」を定めるわけで、どこかにいる誰かが僕たちに代わって定めてくれるものじゃないということになります。誰かが僕たちに代わって定めてくれる、一般的な「行為の規準」であるなら、それは「みんなで守る」べきものであって、「一人ひとりが守る」という限定は不要です。あえて「一人ひとりが」と書いてあるのは、決めるのも自分、守るのも自分、ということです。
「こういう考え方が道徳にかなっている。こういうふるまいが道徳的である」と自分で判断して、自分で行う。他人に判断してもらうことも、他人に押し付けることも、できない。
 もし、誰かが皆さんに「こういうふうにふるまうのが道徳的なのだから、そうしろ」と命令してきたら、(たとえ、その命令がなかなか正しそうに思えても)「そういうことは、やめてほしい。自分で決めるから」と言ってよい。そういうことです。
「道徳的であること」とはどういうことか。それは先ほどあげた「神さま」の場合と同じように、一人ひとりの経験の差によって、ずいぶん違ったものになります。
 こう言ってよければ、人によって、薄っぺらな道徳と厚みのある道徳がある底の薄い道徳と奥行きの深い道徳がある。手触りの冷たい道徳と手触りのやさしい道徳がある。軽い道徳とずしりと重たい道徳がある。でも、正しい道徳と間違った道徳があるわけではない
 どれもそれぞれの仕方で「正しい道徳」なのです。ただ、そこには程度の差がある。その程度の差をもたらすのは、こう言ってよければ、一人ひとりの成熟の差です。
 成熟した人の道徳は深く、厚みがあって、手触りがやさしくて、ずしりと重い。未熟な人の道徳は、そうではない。それだけのことです。そして、できることなら、成熟した人間になって、成熟した道徳にしたがって生きてゆきたい。僕はそう思います。


 具体的な事例をあげたほうがわかりやすいかもしれないですね。こんな場面を想定してみましょう。
 電車が満員で、座席がありません。そこに片手に赤ちゃんを抱いて大きな荷物をもった女の人が乗ってきました。誰か席を譲ってあげればいいのにと見回してみたら、高校生たちがおしゃべりに夢中になっていて席を譲る様子がありません。
 そこでひとりのおじさんがその高校生の一人に向かって、「この人に席を譲ってあげなさい。君は若いんだから」と言ったとします。
 そういうこと、ときどきありますよね。
 ところが、そしたら、席を譲りなさいと命じられた高校生が、きっと顔を上げて、「あなたはいま僕を指さして『立て』と言われたけれど、どうして僕が席を譲らないといけないんですか」と口をとがらせて反論してきました。
 さあ、大変です。
「高校生だって疲れ切っていて、あるいは外からは見えにくい身体的不調のせいで席を立ちたくないということだってあるでしょう。あなたは僕の健康状態について何をご存じなんですか?この車両にいる他のすべての座っている人たちの中からとりわけ僕に座る権利を放棄するように命じたことにあなたの側に何か合理的根拠があるのですか?」と反問してきました。まあ、ふつうの高校生はこんなしゃべり方をしませんけれど、話をわかりやすくするためです。
 たしかに、おじさんとしても、そう言われると困ります。電車の中で誰が席を譲るべきかについての一般的な基準なんかないからです。外から見ただけでは、誰が「立っても平気」な健康状態にあるのかなんてわかりゃしません。
 でも、言ったおじさんは、こういう場合は平均的にいちばん体力がありそうな高校生くらいが席を譲るべきだという彼なりの道徳的判断に従ってそう発言したわけです。
 それに対して高校生の方は「それは、あなたが勝手に作った、主観的なルールに過ぎない。誰でも納得できるような、一般性のあるルールによって裁定して頂きたい」という異議を申し立てた。さあ、どちらの言い分に従うべきでしょうか。
 たしかにいずれも言うことは正しいのです。おじさんも正しいし、高校生も正しい。でも、二つの「正しさ」がかみ合ってしまった。二人ともたしかに道徳的に考え、道徳的にふるまっているんです。にもかかわらず、当面の問題(「誰が子連れの女性に席を譲るか?」という問題)はまったく解決していない。むしろ、おじさんと高校生がにらみあっているせいで、車内は険悪な雰囲気になってしまった。子連れの女の人も、自分のせいでそんなことが起きたので、かえっていたたまれない気持ちになった。「もういいですから、私は立ってもぜんぜん平気ですから」とおじさんと高校生にむかって小さな声でつぶやくのですけれど、その声は頭に血がのぼったふたりには届きません。


 おじさんが「道徳的」にふるまい、高校生が「道徳的」に応じたことで、事態は誰も何もしなかったときより悪化してしまった。よくあるんです。こういうこと。せっかく人々がそれぞれのしかたで「道徳的」なふるまいをしたのに。
 それは先ほど書いたように、道徳の規準が「ひとりひとり」に委ねられているからです。しかたがないことなんです。
 道徳の規準を自分ひとりだけに限定的に適用している限りはこういうトラブルは起きません。道端に落ちている空き缶を拾うとか、同時にドアの前に立った時に「あ、お先にどうぞ」と道を譲るとか、雪の降った朝に早起きして家の前の道の雪かきをしておくとか、とか。
 こういうのは一人で「やろう」と決めたら、誰の許可も同意もなしに、できることです。そして、ささやかだけれど世の中の役に立ちます。
 でも、そういう「よいこと」でも、他人にも押し付けようとするとだいたいうまくゆかなくなります。見知らぬ他人から「おい、おまえ、そこのゴミ拾えよ。世の中、住みやすくなるから」と命令されると、「かちん」と来ますよね。
「道徳的な行い」は、自分ひとりで、黙ってやっている分には「社会秩序を保つ」役に立ちますが。でも、同じ行いでも、それを人に強制しようとすると、むしろ「社会秩序が乱れる」ことがある。なかなか難しいいものです。


 では、どうすればいいのか。
 車内ではおじさんと高校生のにらみあいがまだ続いております。そこにもう一人の人物が登場してきました。
 これまでのやりとりをじっと聞いていたひとりの紳士が席を立って「あ、私、次で降りますから。ここ、どうぞ」と女の人に席を譲ってくれたのです。いや、よかったです。みんなほっとしました。女の人も素直に「あ、そうですか、どうもありがとうございます」と空いた席に子どもを膝にのせて座ってくれました。高校生はまた居眠りに戻り、説教したおじさんは、いささかばつが悪そうですけれど、まあ「子連れの女性に座席を提供する」という本来のミッションは果たしたわけですのでそれなりに満足しました。
 よかったですね。
 でも、この席を譲ってくれた紳士は実は「次の駅で降りる」わけじゃなくて、もっと先まで行く予定だったのです。おじさんのやや高圧的な態度と高校生のきびしい反論のせいで車内がちょっと気まずくなったので、とっさに、緊張緩和のために「次で降ります」と嘘をついたのです。そして、その気づかいが他の人に知れないように、次の駅で降りて、ひと電車後のに乗ることにしたのでした。
 この紳士のふるまいもやはりとても道徳的だと僕は思います。でも、この人の道徳はさっきのおじさんや高校生の道徳とはちょっとレベルが違うように思われます。良し悪しではなく、ちょっと手ざわりが違う。微妙に深くて、微妙にやさしい。
 その第一の理由は、この紳士が自分の気づかいが他の人に知れないようにしたからです。
 ここが「深い」と僕は思います。
「私、次で降りますから」と言って席を譲った紳士が、駅のベンチに座って次の電車を待っている姿をもし車内の人から見られてしまったら、「あら、あの人はこの場をおさめようとして、自分の席を譲り、自分の時間を少し犠牲にしたんだ」とわかってしまいます。そうなると、おじさんも高校生も気恥ずかしくなりますし、譲られたお母さんもかなり申し訳ない気分になります。みんなちょっとずつ気持ちが落ち込んでしまいます。ですから、席を譲った紳士は「その気づかいが他の人に知られないように」します。他の客たちにまぎれて、いっしょに改札口に向かってみせるような細かい演技までしてみせました。そして、電車がホームを離れてから、「やれやれ」とベンチに戻って次の電車を待ったのでした。


 道徳的なふるまいにおいてたいせつなことは、「その気づかいが人に知られないようにする」ことです。でも、これはなかなかわかりにくい話なんですよね。
 ふつうは「いいこと」をしたら、それをできるだけみんなにアピールして、できることなら「おほめのことば」を頂きたいと思う。そうですよね。でも、「いいこと」をしても、黙って、そっと立ち去るということも時には必要なんです。「時には」どころか、できればあらゆる機会にそうである方が、世の中は暮らしやすくなるんじゃないかな・・・と僕は思います。


 例えば、こんな状況を考えてください(例えば、というのが何度も出てきますけれど、こういう問題は具体的な事例を想定しないと、なかなかぴんとこないんですよ)。
 ある人が村のはずれの川沿いの道を歩いていたら、堤防に小さな穴が開いていて、そこからちょろちょろと水が漏れているのを見つけました。そこで、小石を拾って、その穴に押し込んで、水を止めました。そのおかげで、しばらくして大雨が降った時に、その堤防は崩れず、村は水没をまぬかれました。
 でも、その人は自分が押し込んだ石が堤防の決壊を防いだことを知りませんし、村人たちもその人が村を救ったことを知りません。
 こういう人のことを指す英語があります。「アンサング・ヒーロー(unsung hero)」というのです。「その功績が歌に歌われて、称えられることのない英雄」という意味です。たいへんな功績をあげたのだけれど、人々はそのことを知らない(場合によっては、その人自身も自分がたいへんな功績をあげたことを知らない)。
 実際に、歴史上そういう人はたくさんいました。その人たちの目に見えない気づかいのおかげで、多くの人が、多くの街や、多くの文明が救われた。でも、その人を「英雄」として称える歌は誰も歌わない。知らないから。
 でも、これは僕の個人的な意見ですけれど、みんながその功績を知っていて、みんなに「称えられる英雄」よりも、「誰も(本人さえ)その功績を知らない英雄」の方が、ほんとうの英雄ではないかと思います。
 というのは「アンサング・ヒーロー」たちは、たぶん自分たちの英雄的行為を、なにげなく、とくに「こういうことをすれば、これこれの結果が導かれるかもしれない」というような予測もせずに、ごく日常的なふるまいとして行ったはずだからです。
 例えば、雪の降った日に、朝早起きして、雪かきをした人がいたとします。その人は一通り雪かきを終えると、家に入ってしまいました。あとから起き出して通勤通学する人たちは、なぜか自分の歩いている道だけは雪が凍っていないことにも気づかずに、すたすた歩いてゆきました。でも、この人が早起きして、雪かきしてくれなかったら、その中の誰かが滑って、転んで、骨折したりしたかもしれません。さいわいそういうことは「起こらなかった」。起こらなかったことについては、誰もそれについて感謝したり、それを称えたりはしません。でも、たしかに雪かきした人はこの世の中から、起こったかもしれない事故のリスクをすこしだけ減らしたのです。
 この人もまた「アンサング・ヒーロー」です。
「アンサング・ヒーロー」とはどういう人か、これで少しわかったと思います。それは誰かがしなければいけないことがあったら、それは自分の仕事だというふうに考える人のことです。誰かが余計な責任を引き受けたり、よけいな仕事をかたづけたりしないといけないなら、自分がやる。そういうふうにふだんから考えている人。そういう人は高い確率で「その功績を歌われることのない英雄」になります。


 誰かがしなければいけないことがある。それは誰がやるべきか。
 ふつうはそういうふうに問いを立てます。もちろん、その問いの立て方で正しいのです。少しも間違いではない。でも、そういう問いの立て方は道徳としては「浅い」ということです。
 繰り返しご注意申し上げますけれど、それは「間違い」ではないんですよ。ただ「浅い」「薄い」「軽い」というだけのことです。
 誰かがしなければならないことがあるなら、それは私の仕事だ。こういう考え方をする人はそれほど多くありません。そして、実際にそれほど多くの人がそういう考え方をする必要もないんです。30人に一人、いや50人に一人くらいの割合でそういうふうに考える「変な人」がいてくれたら、それだけで、もうこの世の中はじゅうぶんに住みやすいものになります。そういう人は、道に落ちている空き缶を拾ったり、席を譲ったり、雪かきをしたりというのは「誰の仕事でもないのだから自分の仕事だ」と思っている。それが当然だと思っている。
「だって、誰かがやらなくちゃいけないわけでしょう。だったら、『誰かがやらなくちゃいけない』と最初に気がついた人がやればいちばん効率がいいんじゃないですか?」
 こういう人は満員電車で席を譲るのと同じように、床に落ちているゴミを拾い、エレベーターで先を譲り、そして、たぶんふだんと同じような口調で「難破船から脱出する救命ボートの最後の席」を間にした時も「あ、お先にどうぞ」と言えるんじゃないかと僕は思います。
 というのは、「救命ボートの最後の席」を誰が譲るべきかなんてむずかしい問いは頭で考えて結論が出るものじゃないからです。いくら考えたって、納得のゆく結論なんか出るはずがない。こういうのは、「そういうときには『あ、どうぞ』と言うこと」がもうすっかり習慣になっていて、身体にしみついてしまって、自動的にそういうことを言ってしまう人にしかできません。たぶん本人も言ってしまった後になって、「あれ、今オレ、救命ボートの最後の席を譲っちゃったけど、それってオレが死ぬってことじゃん・・・」とちょっとびっくりしたんじゃないかと思います。そして、「でもまあ、言っちゃったことはいまさら取り消せないしなあ」と涼しく諦めたんじゃないかと思います(見て来たわけじゃないので、知りませんけれど)。
『タイタニック』という映画がありましたね。レオナルド・ディカプリオ君とケイト・ウィンスレットさんが主演した恋愛パニック映画です。それ以外にも、これまでもタイタニックの沈没を描いた映画はいくつもあります。生存者がずいぶんいましたから、沈没間際に何が起きたのかについては、かなり信頼性の高い証言が残されていて、それに基づいてそれらの映画は作られていたはずです。僕も何本か見ましたけれど、どれも沈没間際に、「お先にどうぞ」と救命ボートの席を譲った人たちが出てきました。そのほかにも、最後まで自分の持ち場を離れずに仕事をやりとげた人たち(『タイタニック』では管弦楽を演奏する音楽家たちが印象的でした)が描かれていました。「そういう人」が実際に少なからぬ数いたんだと思います。「お先にどうぞ」とふだんの勢いでつい言ってしまった人たちが。


 それでは、そろそろ「まとめ」に入りたいと思います。
 道徳的であるというのは、ひとことで言ってしまうと、「誰かが引き受けなければならない仕事があるとしたら、それは私の仕事だ」という考え方をすることです。というのが僕の意見です。
 それは別に合理的ではないし、フェアでもありません。でも、そういうふうに考える人が集団の中に何人か含まれていないと、人間は共同的に生きてゆくことはできません。これは断言します。でも、全員がそうである必要はない。何人かでいいんです。ほとんどの人は「誰かが引き受けなければならない仕事があるとして、それを誰がやるかは、みんなで相談して決めればいいんじゃないの」というふうに考えます。それでぜんぜん構わないのです。でも、そうやりかたは、場合によっては、それほど合理的ではない。
 だって、ものすごく簡単なこと、例えば、床に落ちているゴミを拾うとかいうことについて、それを誰がやるかについて、「みんな」で集まってもらって、「このゴミは誰が拾うべきか」について相談するなんて非効率すぎるでしょう。みんなに声をかけて、時間を調整して、会議室をおさえて、「誰がゴミを拾うべきか」会議を開くくらいなら、その暇にみつけた「私」がすいと拾って、ゴミ箱にぽいと放り込めばいい。
 あるいはものすごく難しいこと、さきほどの「タイタニック号の救命ボートの最後の一席」を誰が譲るかのような問題って、「みんなで相談」なんかしている暇なんかあるわけがない。即決しないといけない。そういうときは、いつもの調子で、エレベーターの入り口で先を譲るような口調で、「お先にどうぞ」とすぱっと言う人がいてくれないとどうにもならない。助かる命も助からない。
 そういうことです。
 
 最後にひとつだけ。それはどうしたらすぱっと「お先にどうぞ」って言えるようになるのかということです。どうしたら、そういう習慣が身につくようになるのか。
 それは別にむずかしいことではありません。
 ハッピーな人生を送っていればいいんです。
 これまでの人生、とっても楽しかったなあ。いいこといっぱいあったなあ。他の人よりもずいぶん恵まれた人生を送ってきたんじゃないかな。そういうふうに思えたら、どんなときも、自然に「あ、どうぞお先に」って言えると思うんです。自分はもう十分に幸福だったから、これ以上幸福であろうと願うのはちょっと欲張り過ぎかな・・・というふうに思えたら、人間は「お先にどうぞ」ということばを自然に口にすることができる。僕はそんなふうに思います。
 逆に、今の自分は不幸だ。これまでも不幸つづきだった。だから、こんなところで人に先を譲るほどの余裕はないぞ。そう思う人は決してよけいない「雪かき仕事」はしてくれません。しかたがないですよね。少しでも生き延びて、幸福になるチャンスを求めたいわけですから。自然な感情ですもの、そう思って当然です。
 だから、世の中を住みやすく、気分のいい場所にしようと思ったら、「お先にどうぞ」とすらっと言える人の数を増やせばいい。そして、「お先にどうぞ」と言える人になるためには幸福になればいい。簡単ですよね。
 ですから、道徳の本をここまでずらずらと書いてきて、最後にたどりついた結論は僕にとってはすとんと納得のゆくものでした。
 みなさんは「自分の人生はいいこといっぱいあったなあ。他の人たちよりもずっと恵まれ人生だったな」と思えるように生きてください。それが道徳にかんする僕からの唯一のアドバイスです。
 みなさんのご多幸を願っています。


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死が無意義な死になるかどうかは残された人次第

末尾の「以下引用」部分は、ワクチン推進派(おそらく原発推進派でもある)の某漫画家がリツィートしていたものだが、第一に、自分の知人でも何でもないサッカー選手を追悼するなら、全国で毎日死んでいる無名の人をすべて追悼するしかない。第二に、「静かに追悼」している間にもワクチン被害に遭う人は出て来るのである。生きている者としての優先順位も重要性も緊急性もまるで違う。
引用ツィートも、「自分の陣営のために他の陣営を批判している」点では死者を利用しているわけだ。そのサッカー選手が仮にワクチン接種のために死んだなら、自分の死が生きている人々への警鐘となることを望むのではないか。





Jリーグの全クラブでは、7月から全選手・全スタッフ・全職員へのコロナワクチンの職域接種を実施しています。



こういう情報もあるが、ワクチン接種者の8割は「水ワクチン」であり、また著名人は最初から「安全ワクチン」を打つという話もあるので、若い運動選手の死はむしろ珍しい。
ちなみに、ヤフーニュースのサッカー欄にはこの死亡の記事すら載っていないようだ。ネット全体で非常に軽く扱われている。そこに意図的な隠蔽すら感じる。
先に、その数少ない記事(スポーツ新聞はさすがに載せている)の一部を載せておく。

23歳現役Jリーガー急死…湘南MFオリベイラ選手21日は元気だった…陽気な親日家


配信

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スポーツ報知

5月、ルヴァン杯の横浜FC戦に出場した湘南・オリベイラさん




(以下引用)

若いサッカー選手が急性うっ血性心不全で急死という気の毒なニュース、案の定というか勝手なことを言い出している層が出現している。十年前、有名人の死は放射能の影響とされたが、今はワクチンの影響にされる。人の死を自説のために都合よく使うのは昔も今も品性に欠ける。まずは静かに追悼を


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組んで離れてまた組んで、賽の河原の石積みかwww

議会制(政党制)民主主義というのは、これが本来の姿かもしれない。連立政権で、連立を組む党が政策(予算編成など)に同意しないなら、連立は不可能なのが当然であるわけだ。
まったく別の話だが、北欧の人名は読み方が面白い。「アンデション」って変な名前だな、と思ったが、綴りを見ると、英語圏なら「アンダーソン」だろうし、同じ北欧でも「アンデルセン」(これはドイツ語圏かもしれない)というのも同じ綴りなのではないか。
ちなみに、グレタ・トゥンベリの姓(トゥンベリ)は北欧以外では「サンバーグ」だろう。「何とかバーグ」はドイツ系かユダヤ系だと思われる、というのは前に書いたことがある。

 
 
 
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スウェーデン議会で、次期首相に選出されたマグダレナ・アンデション財務相(右下)に拍手を送る議員(2021年11月24日撮影)。© Erik SIMANDER / TT NEWS AGENCY / AFP スウェーデン議会で、次期首相に選出されたマグダレナ・アンデション財務相(右下)に拍手を送る議員(2021年11月24日撮影)。

【11月25日 AFP=時事】スウェーデン議会により次期首相に選出された社会民主労働党のマグダレナ・アンデション(Magdalena Andersson)党首(54)が24日、予算案の否決と緑の党の連立政権離脱を受け、選出からわずか数時間後に辞任した。








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孔徳秋水氏の「マジックワード」論

孔徳秋水氏のブログから転載。
「マジックワード論」というのは昔私も書いたことがあるが、要するに「人間の理性を眠らせる魔術的な言葉」である。孔徳秋水氏の別記事の中にも、氏自身がそのマジックワード(あるいは自分の「信念」「思い込み」)に理性を歪められているように見受けられる場合も多い(www)が、下の記事で書かれた内容には完全に同意する。

今思いついたのだが、「偏見」という言葉自体が既に(マイナスイメージの)マジックワードで、実は偏見を持った状態こそが常態、つまり自然な状態なのではないだろうかwww いや、だから偏見を大いに持つべし、などと主張はしないが、偏見を批判している自分自身が偏見に支配されている可能性というのを常に意識するのは悪くはないと思う。



2021-11-18 19:16:19
テーマ:

「環境保護」というのであれば、貿易や市場経済は、あまり自由にやってはいけない…


 


だから、「規制緩和」なんて、もってのほかなわけ。


 


それを「脱炭素」と掲げるだけで、


 


これまで通りの環境破壊経済がいくらでもできてしまう。


 


グレタは、そういう環境破壊経済を後押しする運動をやっているのである。


 


 


まったく、「バカ丸出し」でしかない「地球を守れ」運動である。


 


 


わたしは、ウソツキがきらいなだけで、


 


辻褄が合っていれば、相互尊重、多様性尊重で、こだわらないほうである。


 


 


自分に看過できない実害が生じないかぎりはね…


 


 


それで、サタニストの手口について、指摘しておこうと思うわけである。


 


「脱炭素」と掲げるだけで、環境破壊経済が「地球を守る」かのような幻想をかもしだす。


 


 


これ、一種の魔術であり、有象無象の連中が面白いように引っかかっているのである。


 


 


怪異ものの先駆者である西尾維新の作品のなかのネタで、


 


「ネガティヴなことばの最後に


 


「勇気」ということばを付け加えると、とてもポジティヴに聞こえるようになる」


 


…というのがある。


 


 


「学校をサボる」⇒「学校をサボる勇気」


 


「親友を裏切る」⇒「親友を裏切る勇気」


 



 


いろいろやっても、みごとにろくでもない行為がかっこよく聞こえてしまうのである。


 


 


政治でも、商売でも、こうしたトリックがいっぱい使われており、


 


ザコブタ君たちは、片っ端から引っかかってしまっている。


 


 


そして、「奴隷として生きる勇気」や「クズとして生きる勇気」をもって日々を過ごし、


 


「頑張っている自分は、かっこいい!(あるいは、エライ!)」とイメージして過ごしているのである。


 


 


ある意味、「庶民」とか「民草」というのも、その手のことばかもしれないと疑うべきである。


 


 


「ジェンダー」問題の本来の核心は、「思い込み」から自由になることであるが…


 


(…というのも、「偏見」や「思い込み」は、差別の始まりだから)


 


 


「偏見」から「思い込み」から自由になるということは、「悟りを開く」ということであり、


 


一般凡夫の有象無象の出来損ないどもに、ほぼ半永久的に無理なことなのである。


 


 


それが、どうして「運動」で、「できる」と思うのだろうか?


 


 


結局、活動家たちは「ジェンダー論・バイアス」という偏見で世の中を見て、


 


「あいつはいいやつ。こいつはわるいやつ」と「区別」して、裁いているだけである。


 


 


つまり、彼らのやっていること自体が、すでに「差別」である。


 


 


「悟りを開く」というのは、当ブログのテーマのひとつであるから、


 


それすら読んで理解できない連中に、まともなことができるはずはないのである。


 


 


彼らの運動は、当ブログによって縦横に斬られてしまっているのだが…


 


「怪異」を斬る斬撃というのは、斬られた側はほとんど斬られたこと自体に気づかないものなのである。


 


 


だから、出来損ないどもは、斬られても斬られても、同じ間違いを永遠に繰り返す。


 


 


これが…「神仏に見捨てられている」状態なのである。


 


 


ま…鬼畜外道のクズどもが、どうなろうと知ったことではない。


 


興味はない。


 


モノ好きな観音や阿弥陀や弥勒に「救い」を求めればよかろう。


 


ま…ムリだと思うケド…


 


 


 


それは、ともかく…


 


サタニストたちは、「脱炭素」というマジックワードで、ボンクラどもを惑わして、踊らせているわけだが…


 


ジェンダーにおいても、彼らは同じようなトリックを駆使している。


 


 


さすがは、「悪魔」…魔術をそれなりに使ってくるわけである。


 


「マジックワード」のひとつが、「性の多様性」である。


 


ただのヘンタイ運動が、すごく人道的な運動であるかのように聞こえてしまう。


 


 


たとえば、「血液型の多様性」などと言ってみた場合、それはなにを意味するのだろうか?


 


 


単純に「OAB&AB」の4種類だけではないよってことくらいである。


 


そうしたことを知らないと、あるいは認めないと「差別」だったりするのだろうか?


 


 


「性の多様性」なんてことばに、ほとんど何の意味もない。


 


そういうことで悩んでいる人だけに言ってやればよい。


 


 


どうして、その他大勢までいちいち巻き込まれなければいけないのか?


 


 


「LBGTの権利」なんてのは、そうしたトリックワードのひとつにすぎない。


 


そんな「権利」など存在しない。


 


 


念のために言っておくが、「LBGTに権利はない」と言っているわけではないので…


 


 


なぜ、サタニストたちは、わざわざ「LBGTの権利」などという表現を使うのだろうか?


 


 


もちろん、人類家畜化のためである。


 


中国の皇帝は、宦官に側近のしごとをさせたが、それに通じるところがある。


 


 


そうでなくても、ペットでも…


 


イヌやネコが、どんどん子どもを作って増えてしまうと飼い主は困るわけである。


 


やはり、「去勢」、「不妊手術」が必要になる。


 


 


われわれは、魚を食べたり、肉を食べたりするときに、いちいち「オスかメスか」とか考えない。


 


食べ物に「性別」なんぞ、ふつう必要ない。


 


 


また、「労働力」も、あまり「男性性」、「女性性」が目立つと仕事をさせにくい。


 


きちんと労働をこなしてくれるのであれば、男であろうと女であろうとカンケーないことである。


 


 


だから…「ジェンダー・フリー」ではなく、彼らは「ジェンダー・レス」をもちこんでくる。


 


「自由」とか「平等」ということばも、ネガティヴをポジティヴに反転させるマジックワードである。


 


 


ポンコツ連中ほど、そのマジックワードに、ホイホイ引っかかる。


 


 


 


前回記事で述べたとおり…


 


奴隷労働は家族労働を駆逐する。(=ゲゼルシャフトはゲマインシャフトを駆逐する)


 


機能集団、組織は、地縁の自然の人間ネットワークより「効率的」なのである。


 


 


競合すれば、奴隷社会が必ず勝つ。


 


自由競争だの自由貿易だのとやれば、ますますそうなる。


 


 


そして、いまAI の時代を迎えた。


 


組織の「上司」は、これからAI が務めるのである。


 


 


 


AI が部下を使役する際に問題になるのが、「男性性」や「女性性」である。


 


人間もロボットのように感情を持たずに、合理的にはたらいてもらわなければならない。


 


 


さて、こうした将来がみえてきたときに…


 


はたして、「ジェンダーの平等」は、人権的、人道的なものだったと言えるだろうか?


 


 


そして、


 


だから、もういちど言っておく…


 


この程度の魔術に引っかかってしまうクソ凡夫どもが、


 


当ブログの発動した呪術から逃げられるものだろうかと…


 


 


まあ、ムリだよな…


 




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「2021年衆院選のスットコ」を野党は反省しているか

「カマヤンの燻る日記」から転載。
書かれている内容にほぼ全面的に同意である。しかし、そういうアホ戦略を取ったのが立憲民主党の枝野であり、首脳陣だ。まあ、その「首脳陣」というのが誰々なのかすら外部の人間には分からないというのが、野党全体に共通する、政治基盤としての「好意的マスコミ」を持たない弱みだ。
毎度言うが、マスコミを支配する者が政治を支配するのであり、商業マスコミを支配するのは「スポンサー」、つまり経済界なのである。そのスポンサーが自分たちの政治支配の手駒である自民党や維新を応援するのは当然だろう。要は、野党やその応援者があれこれ文句を言っても、それらの言葉は「ほとんど誰にも届かない」ということである。野党やその支持者は「既成マスコミや既成メディア」を使って政治改革をすることは不可能だ、ということを認識し、自前のマスコミやメディアを作ることを真剣に考えたほうがいい。
その問題に比べたら、ここに書かれた「ラジカルフェミニズムによる野党乗っ取り」問題など小さな問題である。ついでに言えば、ラジカルフェミニズムは「性嫌悪」や「性憎悪」ではなく「男性嫌悪」であり「男性憎悪」だろう。つまり、世の中の半数を最初から敵にしているのである。それに協力して選挙で勝とうという野党首脳陣はアホの極みである。

(以下引用)

2021年衆院選のスットコ


ツイッターアカウントがバンされているので、ツイッターに記述できない(というか、できるけど、ツイートするとバン解除が遠のく)。ので、やむなくブログに記述する。
2021年の選挙は、1970年ごろ社会党議席を伸ばしていながら、マスコミから「敗北だ敗北だ」と煽られた選挙に似ている(雑な記憶では、石川真澄の記述があるはず。後日確認したい。政治学徒諸姉諸兄は確認してほしい)*1。立憲は議席を伸ばした。が、マスコミから「敗北だ敗北だ、枝野の責任問題だ」と煽られている。背景に似た構造が想像できる。日米安保的な何か。
立憲はたしかに2021年の選挙戦はおかしかった。コロナ第6波が予想できるのに、争点をコロナにしなかった。「ジェンダー」を無理くり争点にし、立憲の言う「ジェンダー」とは大衆的広がりを持つ常識的なリベラルフェミニズムではなく、偏屈で狭量で「性嫌悪」「性憎悪」なラジカルフェミニズムだった。「性憎悪」なラジカルフェミニズムは過激思想であり、つまり乱暴に言うと、思想として間違っている。
ラジカルフェミニズムはムダに憎悪を煽り、ムダに敵対者を増やし、ムダに立憲から本多平直を追放し、宮崎タケシを追放し、ムダにオタクに敵対し、ムダに票を減らした。
ラジカルフェミニズムは大衆的共感を持たない運動であり、戦術として野党共闘のキーである少数勢力「市民連合」に食い込み、常識的なリベラルフェミニズムを排撃し、「ジェンダー」という「よくわからない外来語」「よくわからない外来思想」を、ラジカルフェミニズムで席巻した。手法として、現在批判的に評される部落解放運動の手法に似ている。手法の類似性は無視しないほうが良いと思う。「リベラル」の獅子身中の虫となった「ラジカルフェミニズム」の手法の乱暴さ・雑さにより、「(ラジカルフェミニズムを内包する独裁的)リベラル」は広がりを欠き、その排斥運動的手法が嫌われ、野党共闘は競り負けた。
上記が「理性的な」結論だと思う。
この「理性的」結論から遠い所へ結論を誘導しようとするあたりが、1970年頃、社会党議席を伸ばしたのに「敗北」だと評された時の政治情勢を再演していると思われる。
上記、取り急ぎ記す。


*1:ざっと調べた。1963年11月の衆院選がそれだ。石川真澄『データ戦後政治史』岩波新書1984年、48p 以上2021/11/14付追記


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外の音に耳を傾けること

「心」という漢字は面白い。左右対称でもないし、上下対称でもない。つまり、「偏りがあるのが当たり前」だ。そして、直線が使われていない。自然界には直線は存在しないという。直線とは合理性の極みだろう。
なお、英語のheartの中にはhearが入っている。hearを外界からの刺激の受容と考えれば、「徒然草」の「心は縁によって起こる」を想起させる。

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上役の権限は、部下の私生活には及ばない

私もこの事件での女性教師に非常な同情を感じたのだが、東海アマ氏が実に明確に論じてくれたので自分の代弁者として載せておく。
仮に、この女性教師が私生活で同僚や父兄と相手かまわずにセックスしまくりだったとしても、この処分は無いはずだ。では、「セックスでカネを得たのが悪い」のだろうか。それなら、性風俗の店はすべて取り締まられて当然だろう。性風俗店でなくマクドナルドでバイトしたならどうなるのか。
まあ、教師として「生徒に悪影響を与える」というなら、当人に注意してその仕事(バイト)を辞めさせればいいだけの話で、本職の上で何か失敗をしたわけでもないのに、「免職」というのは「越権行為」だと私は思う。会社の上司が部下を休日に呼び出して自分の家の引っ越しの手伝いをさせるようなものだ。校長の仕事は「学校内」での権限であり、教師が学校の外でする事を(それが大きく法規に違反しないかぎり)あれこれ言う権限は無い。
人権団体や弁護士会はこの女性教員の「人権」のために立ち上がるべきだろう。むしろ、この校長や教育委員会や東京都を告訴して多額の慰謝料を払わせるべきである。


(以下引用)


 女性教師が風俗店でバイトすると懲戒免職

カテゴリ : 未分類

  風俗店勤務の28歳女性養護教諭が懲戒免職処分 現役教師から「厳しすぎる」と同情の声 11/20
https://news.yahoo.co.jp/articles/7fcccbc510b8d44a8ec77991f8a442cee5370e1f?page=1

  報道によると、女性養護教諭は公立中学校や多摩地域の小学校に勤務しながら、風俗店で今年4月まで約1年間働いていたことが匿名の情報提供で発覚した。都の聞き取りに対して、女性養護教諭は「実家を離れて都内で暮らすお金を貯めたかった」と話しているという。

 都内の小学校に勤務する30代の男性教諭は複雑な表情を浮かべる。

「副業がダメなのか、教育に携わる人間として風俗店で働いていたのがダメだったのか理由は分からないが、懲戒免職は厳しすぎると個人的に感じました。注意勧告、停職処分で良かったのではないかと。懲戒免職だと教員免許が失効する。性犯罪ではなく、経済的な事情があったのだろうし、犯した過ちはそこまで重いのかと…。次の仕事を探すのも大変でしょう。女性の今後の人生が心配です」
*******************************************************************
 一部引用以上

 麻薬や買春と異なり、社会的に認知されている風俗店でアルバイトをしただけで女性教師が懲戒免職処分を受けた。
 これは、記事にあるように、担当した教育委員の身勝手な道徳意識による裁量だが、半世紀以上も前の封建的な価値観で、昔と違って、臨時採用に近い不安定な低賃金労働者である女性教員を倫理的に束縛することが許されるはずがない。
 もしも、昔のように日教組が強ければ、たぶん処分はできなかっただろう。

 そもそも、性的な倫理問題は、いつでも行為者の双方に等分の責任が問われる問題であって、風俗産業で仕事をすることの問題は、風俗産業を利用する側の問題でもあるはずだ。
 つまり春を売る側だけでなく、買う側がいなければ成立しない問題である。
 もし、風俗店でバイトする女性教師を懲戒免職にするならば、風俗店を利用する、すべての教師も懲戒免職にしなければアンフェアである。

 以下のように、教育委員が性犯罪を行っているケースも珍しくない。
 
有名小学校トップを歴任したエロ校長が仰天の逮捕 児童買春、“もも”と名乗ってポルノ販売  2021/04/04
 https://dot.asahi.com/dot/2021040400001.html?page=1

 上の記事のように、実は社会全体では、「道徳倫理」などと称する虚構とは無縁の一般人に、性倫理問題が起きる事は極めて希であり、むしろ取り締まる側である、警察官や教員、教育委員などが、性倫理逸脱に強い興味や快感を抱き、盗撮や性犯罪を実行してしまうケースが実に多い。
 これは、人間性を権力の都合によってねじ曲げる社会がもたらした矛盾であろう。

 一般の会社員が、バイトで性風俗産業にいても、ほとんど何の問題も起きない。どうして教員だけが、バイトで懲戒免職処分を受けなければならないのか?
 公務員には兼業禁止規定があるが、以下の通りだ。
 https://studying.jp/komuin/about-more/fukugyo.html

 https://tihoukoumuin.com/kaisetu/hukugyou-seigen/

 これによれば、
第三十八条 職員は、任命権者の許可を受けなければ、商業、工業又は金融業その他営利を目的とする私企業(以下この項及び次条第一項において「営利企業」という。)を営むことを目的とする会社その他の団体の役員その他人事委員会規則(人事委員会を置かない地方公共団体においては、地方公共団体の規則)で定める地位を兼ね、若しくは自ら営利企業を営み、又は報酬を得ていかなる事業若しくは事務にも従事してはならない。
 ただし、非常勤職員(短時間勤務の職を占める職員及び第二十二条の二第一項第二号に掲げる職員を除く。)については、この限りでない。

処分された女性教師が、正規の教職員として採用されていた場合は、地方公務員法38条に抵触する可能性もあるが、もしも非常勤ならば許される可能性が強い。
 それ以上に、竹中平蔵が導入した、正規職員の労働法上の地位が、脅かされ、非常勤や臨時採用に貶められている現状では、そうした雇用形態では、賃金も労働条件もまともに保障されておらず、やむにやまれずアルバイトをしなければ生きていけない教員は、全国に無数にいると考えられる。

 今回の東京都教育委員会の裁定は、そうした立場の弱い雇用形態の教職員の生存権を脅かすものである。
 連合は、経団連など経営側の支配する組織であり、労働者を守らないことで知られているので、立場の弱い教職労働者は、自由労組を結成して、封建的な圧政を強いる教育委員会に対抗するしかないだろう。

  <はたらく>不安定さ際立つ臨時教員 40~50代で「雇い止め」多数
 https://www.job.chunichi.co.jp/m/news/?nid=1964&ts=1339786017&PHPSESSID=1e94091d46e061cbb801a4190d077f86

 教育現場の不安定雇用「臨時的任用教員」とは  2019年6月12日
 http://jcp-saitama-pref.jp/mirai/2019/06/12/rinjitekininyoukyouin/

 使い捨てられる教師たち 「非正規教員」制度の構造的課題
  https://www.jiji.com/jc/v4?id=202012hksk0001

 今回の女性教師懲戒免職問題は、教育委員会が古い封建主義を持ち出して、立場の弱い教員に対して権力的な支配を宣言した悪質性の強い恫喝処分といえよう。
 もしも教員が、道徳や倫理的規制を持ち出される前に、手厚い待遇・身分保障・保護を受けていたならば、保護政策に応じた責任を問われても仕方ないが、薄給・高負担の教員待遇で、やむにやまれず風俗産業で働かざるをえなかったとすれば、我々は女性教員を支援する必要がある。

 女性教員は、非合法の産業で非合法職務を行っていたわけではない。社会的に認知された風俗産業で相応のアルバイトをしていたにすぎない。
 それが、なぜ密告されて懲戒免職処分を受けなければならないのか?
 強い憤りを感じる。風俗に従事すれば、子供の教育に悪影響を及ぼすなどとは誰が決めたのか? どのような根拠があるのか?
 
 そんなことを言い出したなら、この資本主義社会の空気を吸っている人間すべてが、道徳・倫理破綻者ではないのか?
 そもそも、他の非適切行動処分者と比較して、どれほど罪が大きいのか? 懲戒免職という最悪の処分が適切なのか? 教育委員会に、そんな処分を下す資格があるのか?
 徹底的に追求しなければならない。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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