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気の赴くままにつれづれと。
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この「真の極移動」とは、地球の外殻と呼ばれる表面が以下のように移動する現象です。
過去の地球で起きた「真の極移動」の状況
earthsky.org
軸が「50度以上も変化してしまう」のだそうです。
赤ちゃんや小さな子どもが発熱した場合は、やはり親は不安です。
私の子どもが赤ちゃんのときも、突発性発疹とかを含めて、たまに40℃くらいの熱を出すことがありましたけれど、やっぱりオロオロしましたもの。
ただ、私は赤ちゃんに解熱剤を飲ませたことはなかったです。
当時は薬のことなんて何も知らなかったですが、「高熱を薬効で下げるような刺激物質が赤ちゃんの体に入っていいのだろうか」とは漠然と思っていました。
自分の赤ちゃんが発熱し、当時住んでいた東京西荻窪にある近所の小児科のおじいちゃん先生のところに行った時に、
「熱が出ててもこんなに元気なら問題ないし、そもそも熱は無理に下げてはダメ」
と先生はおっしゃっていまして、ぐったりしていないのなら自然に下がるのを待つほうがいいと。
考えてみれば、私自身が小さな時から体が弱く、40℃なんて日常でしたが(高校くらいまで、下手すれば週に 1度くらい 40℃出してました)、それだけに「熱が出たから薬を飲む」という習慣が自分自身にないことを思い出したりしていました。
それでも、自分の子どもとなると、やはり 40℃などになると心配で「冷やす」ということはやっていました。首筋や脇とか太もものつけ根などの動脈の走っているところをタオルなどで冷やすというものです。
ただ、この「冷やす」ということ自体も、場合によってはよくないのかもしれないということは、以前、発熱に関しての記事を書いたことがありまして、
「人間の体は 38.5℃以上になって初めて治癒のために免疫細胞が活性化されるシステムが発動する」
ということが、中国科学院・上海生化学細胞生物学研究所の研究でわかったことを以下の記事でご紹介したことがあります。
[記事] 熱を下げてはいけない : 感染症の治癒メカニズムが人体で発動するのは「体温が《38.5℃以上》に上がったときのみ」であることが中国科学院の研究で判明
In Deep 2019年1月19日
これは、38.5℃以上の発熱が Tリンパ球における「熱ショックタンパク質 90」というものの発現を増加させることにより、リンパ球の血管への接着を促進させ、そこではじめて病気が治癒に向かう、ということがわかったのです。つまり、38.5℃を超えないと、発熱に対抗する免疫システムが作動しないのです。
マウスの実験では、このメカニズムを阻害させたマウスたちは「急速に死亡していった」とあります。発熱が伴わないと助からない場合もあるということのようです。
ですので、39℃くらいまでの発熱は「その病気を治すためには必要な熱」だとも言えるのかもしれまません。
人間は、基本的には、生き残るために発熱しています。
さきほどの記事にルドルフ・シュタイナーの 1908年の講義を載せていますが、シュタイナーは、
> 熱は、人間のなかの治癒力の呼び声なのです。熱は病気ではありません。損傷を直すために、人間が自分の生体全体から力を呼び集めているのです。病気において、熱は最も慈善的で、最も治療的です。
とさえ述べています。
他にも、ヒポクラテスとかナイチンゲールさんとか、ノグッチ(野口晴哉さん)なども同じようなことを言っていたことを書いています。
ヒッポーなんて、「患者に発熱するチャンスを与えよ。そうすればどんな病気でも治してみせる」とまで言っていますからね。
それだけに、「発熱を薬などで無理に止める」ということは、どこかに悪い跡を残してしまうものなのかもしれません。
最近の研究で次々と明らかになってきた解熱鎮痛剤の功罪、特に「罪」については、こういう人間の本来の治癒システムを「邪魔している」ことにより起きるものであるのかもしれません。
今は、アセトアミノフェンの使用は、まあ多くがコロナということになっているようですが、他にも、すでに乳幼児の RSウイルスだとかインフルエンザなどが時期外れの流行を見せていると報じられていて、今後、秋冬に向かえば、さらにそのような発熱を伴う子どもの病気は増えていくと思います。
その際どうするべきかについて専門家ではない私には何も言うことはできないですが、カロナールに人々が殺到しているような状況は冷静になって眺めたほうがいいとは思います。
『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……石井光太が語る〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状
2022年7月30日 11時0分
文春オンライン
少年犯罪から虐待家庭、不登校、引きこもりまで、現代の子供たちが直面する様々な問題を取材してきた石井光太氏が、教育問題の最深部に迫った『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を上梓した。いま、子供たちの〈言葉と思考力〉に何が起こっているのか?
国語力をめぐる現場の先生たちの強い危機感
――なぜいま〈国語力〉が問題なのでしょうか?
石井 長年、不登校や虐待の問題など、子供たちが抱えた生きづらさをめぐって、当事者や関係者に多くの話を聞いてきました。取材を通して感じたすべての子に共通する問題点は、「言葉の脆弱性」でした。
あらゆることを「ヤバイ」「エグイ」「死ね」で表現する子供たちを想像してみてください。彼らはボキャブラリーが乏しいことによって、自分の感情をうまく言語化できない、論理的な思考ができない、双方向の話し合いができない――極端な場合には、困ったことが起きた瞬間にフリーズ(思考停止)してしまうんですね。これでは、より問題がこじれ、生きづらさが増すのは明らかです。
以前はこうした実情を、〈うまくいっていない子〉に共通の課題だと認識していました。ところが数年前から、各地の公立学校に講演会や取材でうかがうことが増えるなかで、平均的なレベルとされる小・中学校、高校でも、現場の先生たちが子供たちの国語力に対して強い危機感をもっていることがわかりました。言葉によってものを考えたり、社会との関係をとらえる基本的な思考力が著しく弱い状態にあるという。
そしてあるとき僕自身、都内の小学4年生の授業で、新美南吉の『ごんぎつね』を子供たちがとんでもない読み方をしているのを見て、衝撃を受けました。
社会常識や人間的な感情への想像力が欠如
――どんな授業だったんでしょうか。
石井 この童話の内容は、狐のごんはいたずら好きで、兵十という男の獲ったうなぎや魚を逃してしまっていた。でも後日、ごんは兵十の家で母の葬儀が行われているのを目にして、魚が病気の母のためのものだったことを知って反省し、罪滅ぼしに毎日栗や松茸を届けるというストーリーです。
兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。
――「死体」を煮ているとは、あまりに突飛な誤読ですね!
石井 これは一例に過ぎませんが、もう誤読以前の問題なわけで、お葬式はなんのためにやるものなのか、母を亡くして兵十はどれほどの悲しみを抱えているかといった、社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている。
単なる文章の読み間違えは、国語の練習問題と同じで、訂正すれば正しく読めます。でも、人の心情へのごく基本的な理解が欠如していると、本来間違えようのない箇所で珍解釈が出てきてしまうし、物語のテーマ性や情感をまったく把握できないんですね。
様々な要因で広がる家庭格差
――近年、PISA(国際学習到達度調査)の学力テストで、OECD諸国のなかで日本は読解力が15位だったことが大きな話題になりました。
石井 PISAの読解力テストはテクニック的な側面も大きいと思います。たしかに文脈をロジカルに読み解く力自体も弱まっているのでしょうが、それ以上に深刻なのは、他者の気持ちを想像したり、物事を社会のなかで位置づけて考えたりする本質的な国語力――つまり生きる力と密接に結びついた思考力や共感性の乏しい子が増えている現実です。現場の先生たちが強く憂慮しているのもその点です。
こうした国語力は自然と身につけている家庭環境の子にとっては何の問題にもなりませんが、様々な要因で家庭格差が広がるなか、「できない子」にとっては著しい困難を伴います。本質的な国語力の衰退がいまや一部の子に限った話ではないことを認識しなければ、いくら教育政策で「読解力」向上に力を入れても上滑りしてしまうでしょう。
交際相手の行為を“恐喝”と思わない女子高生
――従来から言われている「読解力低下」問題とは違う次元の深刻さを感じますね。
石井 象徴的なのは、ある女子高生に起きた恐喝事件です。その子は、わりと無気力なタイプで、学校も来たり来なかったりデートの途中で黙って帰ってしまうようなルーズな面がありました。こうした態度に怒った交際相手の男子生徒が、非常識なことをしたら「罰金1万円」というルールを決めます。それでも女子生徒は反省せずルールを破り、毎月のバイト代のほとんどを彼氏に払い、しまいには親の財布から金を盗んで支払いにあて続け、発覚したときは100万円以上も払ったあとでした。
ところがとうの本人は、自分の被害を全く認識できず、「言われたから」「ルールで決めたから」と相手の行為を“恐喝”とすら思っていないんです。男子生徒のほうも「同意あったし。金は二人で遊びに使ったし」と平然としている。
当人のなかでは「ルールを決めた→同意した→実行した、何が間違っているの?」というプログラミング的な理屈で完結しているのですが、社会の一般常識や人間関係を考えたら明らかにおかしいわけです。搾取されているゆがんだ関係や親の金を盗んで渡していることに疑問すら持たない。
教師がいくら指導しても、彼女のなかには言葉がなく、自分の状況を客観的に捉えたり、なぜそれがいけないかも全く理解できていなかった。当然彼女がそのまま大人になれば生きる困難さを強く抱えますし、親になれば社会常識が欠如したまま子育てをして、負の再生産が起こります。
「地雷復」=日本の復活。安部の死で、日本は健全化の道を進むだろう(補足あり)
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