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表現の自由と「カーテン」

「ブッチニュース」というネットマガジンの山本直樹インタビュー記事の一部である。
この前、「エロチシズム」の考察をしたのだが、私は、エロとエロチシズムには違いがあるような気がする。エロは、ひどい言い方だが土方的感性というか、趣味の良くない人間が「これがエロだ」と思っていることを表現した、かなり稚拙な作品という印象で、エロチシズムは、芸術的感性がある人間の作品に現れる感覚だと思っている。単なるセックスは、エロにはなってもエロチシズムにはならない。犬の交尾を見て興奮する人間がいるだろうか。
ちなみに、オッパイが大きいからエロだ、というのが一般的な「エロ」概念だろうが、私はたとえばマリリン・モンローは「可愛い」し「いじらしい」感じはあるが、エロだとはまったく思わない。むしろ、幼女的なイメージである。「お熱いのがお好き」の彼女は、まるで「道」のジェルソミナである。さらに、モンローよりオッパイのでかいジェーン・マンスフィールドあたりになると、エロではなくグロだとすら思う。

なお、赤字にしたことで分かるように、私も「カーテンをあけなければいいだけ」論である。カーテンをぶち破れ論はやがて「街中の公衆便所をガラス張りにしろ」論になるだろう。いや、すでにそういうトイレを発表した建築家がいた気がする。



(以下引用)

「表現の自由戦士」に思うこと

――そういう闘い方で切り抜けるぞ、と。ところで、もともと表現規制に反対することって、反権力的なことだと思っていたのですが、昨今の表現の自由を叫ぶ人たちは、むしろ自民党を支持していることが多い印象です。そこについてはどうお考えですか。


 

山本 「表現の自由を狭めようとしている自民党にすり寄るんだ~」って気持ちですよね。でも、昔からいるんですよ。オタクの中でも一定数は、左翼的なものが大嫌いです。


 

――山田太郎さんは、表現の自由を守るということを打ち出して、自民党から出馬して参議院議員に当選しましたが、それについて何か思うことはありますか。


 

山本 僕、あんまり知らないんです。一度だけSF大会でお見掛けしたけど、特にお話もしてないし。自民党の憲法改正案が出たら、それに投票するんですか? とはお聞きしたいですね。


 

――『ラブひな』の漫画家・赤松健さん(今夏の参院選で反表現規制を掲げて当選)はいかがでしょうか。


 

山本 同じです。漫画も読んだことないんだよね(笑)。でもほら、最近、おっぱいの大きい可愛い女の子の絵を献血のポスターに使って叩かれたとかあったでしょう。「そりゃ叩きたい人はいるし、街角にそんな絵を貼らなくてもいいんじゃない?」と。家で楽しめばいい。


 

――表現の自由戦士たちの言い分からすると、そこを一歩譲ると、どんどん狭められていく。ゾーニングだけじゃ済まなくなる、という考えですよね。


 

山本 勝手に敵を作って勝手に戦っている印象しかないですよ。ようするに「左翼とフェミニストが、俺たちのエロを消そうとしている!」みたいな観念でしょ。


 

――そうです。一方、フェミニスト側の主張としては、世の中にある女性を性的に消費するようなコンテンツによって、実際の女性や子どもが危害を加えられていると。


 

山本 その因果関係はわからないけど、フィクションと現実をごっちゃにするなとしか。エロ漫画を読んで、エロい気持ちになって性犯罪にはしるってことをやった人がいたとしたら、その人は現実とフィクションを混同しているし、そういうのを捕まえて「お前、漫画のせいでやったんだろう」っていうのも、現実とフィクションを混同してる。どっちもバカばっかりってことになるよね。子どもの頃から溢れかえっている漫画を読んで育って大人になった人は、現実とフィクションが違うことくらいわかってるよね。それが普通の日本人じゃないですか。


 

――うっすらとした男性嫌悪や性嫌悪を抱いている女性にとっては、性表現そのものが必要ないということもあるかもしれません。


 

山本 汚らわしいという人は、別に全然いいんじゃないですか。だってふざけた行為ですよね。人前では絶対に見せないものを、見せ合い、くっつけ合い。そんなふざけた行為で子どもができるって最高だよねって思うけども。人類も継続するって面白いじゃんって。僕らはこっちの棚でやってるから、カーテンを開けなければいいだけ。けど、表現の自由戦士は「カーテンをぶち破れ!」っていうし、もう一方は「カーテンの向こうを潰せ!」って。そんな不毛な言葉だけの議論を、ツイッター上でやってるだけなんじゃないの、と思う。


 

――そこに対して山本さんは、擦っているというか、挑発的なことを呟いている印象もあります。


 

山本 「左翼はエロを取り締まろうとしてる」みたいなバカなことを言っているツイッターを見て、時にはつい反応するわけですが。エロについての自分の自由は、とりあえず自分と自分の仲間で守るのが最初だし、世の中にはもっともっと苦しめられている自由がある。メディアが委縮して、自民党に不利なことがNHKのニュースで流れなかったりとか、そっちのほうがヤバいでしょっていう話です。関東大震災の朝鮮人虐殺を描いた短編映画を、都の施設である人権プラザで上映しようとしたら、都側が難色を示した件なんて、色々理屈をつけてはいるんだけど、要するには小池百合子への忖度ですよね。従軍慰安婦とか、南京事件とかに触れないほうがいいんじゃねぇの、みたいな「空気」が蔓延している。


 

――そんな状況で、表現規制についてだけ騒いでいる表現の自由戦士たちは、歪であると。


 

山本 そう。戦前の歴史とかが好きでよく読むんだけど、大正のエログロ大流行りの時から、数年で日本が変わっていく様子、どんどんと暗くなっていく時代の歴史は興味深いですよ。時代とともにダメなものは変わっていくんですよね。『チャタレイ夫人の恋人』がダメだったり、『四畳半襖の下張』がダメだったり。今のインターネットなんて、それでいったら禁止でしょう。だって検索したら性器が丸見えなわけだから。


 

――憲法が変えられるようになってしまうと、表現の自由どころではなく、そもそもの自由の根幹が変わってきてしまう?


 

山本 言論表現の自由と、性表現問題の自由は対なんです。攻められる時は一緒くたに攻められますからね。「表現の自由戦士」とか言われる人たちは、戦う相手を間違っているんじゃないか、ってことですよ。


 

【後編記事に続く】(https://bucchinews.com/society/7041.html


取材・構成/大泉りか
撮影/武馬怜子

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日常生活での「算数」(14×15の暗算)

「はてな匿名ダイアリー」記事だが、馬鹿げた記事なので、転載は後回しにする。私の「暗算法」と比べてみるといい。

14×15=?

私の方法は、初級の算数だが、数の分解をするということだ。要点(コツ)は、そのどこかで10の倍数になる数字を作ることである。
15が5の倍数なので、簡単だ。14を7×2に分解すればいい。すると

14×15=7×2×15=7×30=210

である。7×30が暗算できない人はいないだろう。できないなら、

7×3×10と分解して、7×3にゼロをひとつつければいいだけだ。

なお、14×1.5を暗算するのは私には難しいので、1.5を3/2として、

14×1.5=14×3/2=14÷2×3=7×3=21

と計算する。書くと面倒だが、頭の中では一瞬である。




(以下引用)

14×15=210

暗算だとちょい面倒に感じるが、14×1.5だとすぐ21と分かる。


2つの計算小数点位置が違うだけだ。


しか普段15倍するより1.5倍する頻度の方が多いので最適化されているのだろうか。


ちょっと見方を変えれば計算が楽になることがあるように思う。

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人間の獣性と、「獣性の否定」

「混沌堂主人雑記(旧題)」所載の「プレジデントオンライン」記事の一部だが、非常に面白い問題提起である。私はかなり昔に「勝つってそんなにいい事か」という小論を書いて以来、何かに勝つという事自体に疑いの目を向けているのだが、そうすると人生のほとんどすべてにおいて勝利を放棄し、世捨て人になるしかないwww だが、「敗北主義」とは別だ。「勝負自体の否定」なのである。社会には、実は「協同作業」という、より重要な要素があって、そこでは勝利は関係がない。その代わり、当然「勝利の報酬」も無くなるわけだ。現代社会の9割くらいは「勝利への報酬」が行為の動機になっているわけで、そうすると「獣の世」になるのは当然である。

で、ここでは逆に「獣でなぜ悪い」という、臍曲がりな思考をしてみる。つまり、人間の獣性は完全否定していいのか、という考察だ。考えるまでもなく、人間の獣性を否定したら社会は成り立たない。スポーツやセックスは言うまでもなく、実は文学も映画も闘争と恋愛(セックス)が土台なのである。それを禁止したのが多くの宗教であり、儒教である。(儒教は宗教ではない。社会哲学である。)だから、宗教や哲学は一般人から敬遠される。恋愛やセックスが教祖や教義より大事となれば宗教は成り立たないわけだ。勝負事が元になっての争いや殺人もある。それほど勝負事というのは「血を沸かす」、つまり人間の獣性を解放するのである。
議論が面倒くさくなったので、結論を言うと、要するに、「獣性」は完全否定されるべきではなく「飼い馴らす」のが正解ではないか、という「当たり前すぎる結論」が私の主張である。「飼い馴らす」ためには、その対象の「獣性」の認識が大事で、要するに、スポーツやセックス(恋愛)やフィクション(文学・映画・漫画など)の持つ危険性を十分に世間(特に若者、特に若い女性)は認識していないのではないか、ということである。
私はフィクションが無いと生きる意味も生きがいも無い、という人間だが、フィクションで自分の獣性を解放する営み自体に或る種の危険性があることは知っているつもりである。もちろん、哲学的考察のようなものも(獣性の要素は少ないし、たいていは獣性を否定する結論になるが)フィクションへの耽溺である。そして、ニーチェが言うように、深淵を見つめる者は深淵に見つめ返されるのである。

(以下引用)

 哲学者である川谷茂樹は、スポーツは日常の倫理との緊張関係にあり、ほとんど不可避的に倫理的問題を引き起こす、危険な代物であると指摘しました。スポーツは日常生活で禁止される行為が許容される、独特のスポーツ倫理(対戦相手の弱点を攻める、対戦相手の嫌がることをする、殴る・蹴る・絞める・体当たりといった身体的攻撃をする)が存在するためです。
 日常生活で殴る等の行為によって他人に怪我を負わせれば、暴行罪や傷害罪が適用されます。しかしながら、ボクシングやラグビーでは、他人を殴ったり体当たりをしても、暴行罪や傷害罪には問われません。なぜなら、刑法第35条には「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」とあり、スポーツは「正当な業務による行為」とされるためです。つまり、日常生活で禁止されている殴る・体当たりという行為は、スポーツの世界で例外的に許容されていると言えます。
■スポーツは「えげつない行為」が求められる
 スポーツの本質は、誰(どのチーム)が優越しているかを決定する試みであり、勝利の追求が求められます。対戦相手(チーム)が敗北することによって伴う痛みや苦しみをおもんぱかっていては勝てません。
 川谷は、アスリートとして純粋に勝利を追求するためには、普通の人間としては「えげつない」行為を遂行する能力・技能が必要になると主張しました。同感です。Strandらによる調査は、川谷の主張を補強する結果になっています。




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正月は冥途の旅の一里塚

まあ、この記事を読んだ人の多くが
「あっ……(察し)」となりそうであるwww
ワクチン同様に政府がバックアップしていれば、ほぼ確実だが、単に地域的なものか。

(以下引用)


       
       
       
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スロットまとめ
1: ヒドラ(東京都) [US] 2022/12/28(水) 15:46:02.20 ID:3EJnT3TA0 BE:902666507-2BP(1500)
 新城市社会福祉協議会所属のしんしろお助け隊(小山勝由会長・会員数14人)が20日、市内の独居老人宅などに餅を無料で配布するため、同市字東沖野の同協議会敷地内で餅つきを行い、37臼(約120キロ)の餅をつきあげた。(中略)

 餅つきは例年、地区を替えながらこども園で園児とともに行っているが、新型コロナウイルス禍のため、2019年に千郷中こども園で実施以来、今年も含めて3年間園児の参加はない。

 小山会長(79)は「毎年楽しみに待っている皆さんがいるので今後も続けたい。ただ、子どもたちがいないのはやはりさみしい。来年は何とか子どもたちと一緒にやりたい」と話した。

 この日ついた餅は、約160軒の市内独居老人宅などへ協議会を通じて配布される。・・・(記事の続き・詳細は引用元にて)

引用元

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年末年始の天気

ということらしい。


穏やかな年末年始のち新春寒波

気象予報士・益山 美保 - 12 分前





 きょうは冬型の気圧配置で日本海側は北日本を中心に雪が降りますが、極端な大雪などになる心配はなさそうです。太平洋側は冬晴れとなりますが、南西諸島は雨の1日となるでしょう。

30日午前3時の天気図と衛星画像。
30日午前3時の天気図と衛星画像。© ウェザーマップ

 予想最高気温は全国的にきのうと同じくらいで、年の瀬らしい寒さとなりそうです。


 あすの大晦日と元日は冬型の気圧配置は緩み、全国的に割と穏やかな空模様となるでしょう。太平洋側を中心に、初日の出も期待が出来そうです。


 ただその後は新春寒波の影響で2日以降は、北日本を中心に大雪や猛吹雪となるおそれがあります。帰省先から戻る際など移動をする場合は、車の立ち往生や交通機関の乱れに警戒が必要です。


(気象予報士・益山 美保)




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自衛隊での「粛軍」は台湾有事の準備か

「世に倦む日々」氏のNOTE記事で、前半は海上自衛隊の人間関係に関する「推測&推測」記事なので、省略する。興味があれば元記事を読めばいい。
なお、「粛軍」は「軍紀粛清」ではなく「軍の粛清」つまり、異分子排除のようだ。ここでは米軍にとっての異分子のようである。
「世に倦む」氏は文章でのカッコつけをやめて、分かりやすく書けばいいのに。論説的文章は「言いたいことを確実に伝える」のが第一義だろう。

(以下引用)「うしろみ」は、おそらく「後見」だろう。丸山真男の独自用語らしい。


だから、私は今回の出来事を粛軍事件と見る。目的は香田洋二と井上高志の排除である。それでは、誰が香田洋二を失脚させたのか。考えるまでもなく米軍CIAという答えになる。27日付の朝日新聞1面記事に重大な事実が書かれている。



発表によると、井上1佐は2020年3月19日、神奈川県横須賀市の司令部庁舎で、自衛艦隊司令官を務めた海自OBの元将校に、周辺情報について海自が収集した情報といった特定秘密のほか、自衛隊の運用状況、自衛隊の訓練に関する情報といった秘密を故意に伝えた疑いがある。(略)元海将は「講演する機会があろ正確な情報を把握するためだった。秘密の提供は求めていない」と話しているという。防衛省関係者によると、漏洩した特定秘密は装備品の性能や部隊の能力に関するものではないが、米国に関連するものだった。



この最後の部分、要するに米軍の配備や展開、作戦計画に関する情報が「特定秘密」で、これを井上高志が漏らし、香田洋二が得ていたことになる。確かに、これは自衛隊の実務中枢にアクセスしないと、香田洋二の顔だけでは外からは取れない情報だ。そしてまた、「陰の軍令部長」たる香田洋二には喉から手が出るほど欲しい情報。問題は、3月19日にこの漏洩が行われた直後、3月中に防衛省に通報があり、事案が発覚している点である。すぐに露顕してしまっている。そして、今回、井上高志が捜査で自供し書類送検までされたということは、その時点で漏洩の証拠を誰かに掴まれたことを意味する。おそらく、香田洋二が誰か(複数)にペラペラ喋ったのだろう。で、聞いた者が「それは特定秘密のはずなのに」となり、防衛省に密告したのだろう。


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密告から今回の書類送検まで、約2年の時間が経っている。何があったのかを松本清張な思考回路と分析視角で推理しないといけない。上にも書いたとおり、香田洋二は海自のオーナー格で、現場組織に絶大な影響力があり、この程度の問題を誰かに密告されたところで、普通は握り潰されて済まされるところだ。香田洋二もそう考えていて、まさかこんな事件に発展するとは思ってなかったに違いない。また防衛省と官邸は、2年間も机の引き出しに溜めていたわけで、その気になればいつでも摘発できたのである。この謎解きは、やはり、ネットで喋々されているとおり、最近の香田洋二の発言に関わっていると思われる。「43兆円の防衛費は身の丈を超えている」とか、「砂糖の山にたかるアリ」という政府批判の発言が、黙過・容認されざるところとなったのだろう。


長い間、自衛隊の予算を増やせと言い、軍備拡張を唱えてきた右翼の香田洋二にも、現在の防衛政策の内容は不満なのであり、構想と計画が違うのだ。異議を唱えているのであり、オレの提言方向にしろと文句を言っているのである。今、台湾有事に向けての具体的計画が着々と決められている。武器の配備、艦隊の展開、部隊の運用が工程表に落とし込まれている。たぶん、その中身が香田洋二の考え方と違うのであり、香田洋二にすれば、オレの海自を勝手に動かすな、間違った作戦を組むなと言いたいのだろう。もっと言えば、オレを外すなと言いたいのかもしれない。香田洋二を外して誰が作戦を立案しているかと言えば、その主体は米軍CIAしかない。つまり、海自の戦力をフリーハンドで使いたい米軍にとって、外からあれこれ指図して口を出す香田洋二が邪魔になったのではないか。


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もともと、特定秘密保護法の制定はアメリカが日本に要求してきたもので、米軍の情報が日本から外に漏れることを防ぐことが目的の第一だった。平和憲法体制下にあった日本にはこの制度はなかった。アメリカはそれを心配し、マスコミでの世論工作の絨毯爆撃の末に安倍晋三の政権下で強行成立させたのだが、その定着にずっとナーバスでいたのだろう。日本の場合、こんな感じで、組織の実権者・最高実力者が組織の外にいて「うしろみ」(=丸山真男の『政事の構造』)の機能を果たす。リモートコントロールする。権力の根源は情報だから、外から「うしろみ」が情報にアクセスに来る。「うしろみ」がアメリカの方針に忠実に従う者ならよいが、独立に意思を持ち、別の戦略を口出しするようになると、アメリカはそれを排除しなくてはいけない。


今回、こうして香田洋二を排除することで、アメリカは海自を自由自在にコントロールでき、台湾有事の手足として誰からも妨害されず使うことができるようになった。今回の事件は、アメリカによる自衛隊の粛軍であり見せしめだ。台湾有事を前にしての軍の粛清と権力の統制一元化だ。無論、それに手を貸した日本の軍国指導者たちがいる。

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抽象語の曖昧性が悪用されること(「通俗道徳」「勤労の義務」)

「混沌堂主人雑記(旧題)」で知った記事で、「通俗道徳」という言葉の解説がある。
私自身はこの言い方が嫌いで、そのことは前に書いたことがあるし、この言葉が独り歩きをすることで道徳全体が軽視される社会になる可能性を危惧しているが、下の記事で書かれている「通俗道徳批判」は優れた指摘であり、有益な記事だと思うので転載する。
なお、「勤労の義務」という思想は「働けない人々」の存在を無視した思想ではあるが、これは「義務」というものは「それが可能な人間だけが対象である」という大前提を社会常識としていくことで解決できるかと思う。たとえば子供や赤ん坊には勤労の義務が無いのは明白である。それなら、高齢老人や病人や一部の身体障碍者も同様だ、となるはずだ。自分が親から受け継いだ資産を運用して金儲けをしている人間を「勤労者」だと思う人間はそれほどいないのではないか。しかしまた、頭脳労働も勤労である、という認識は普通だろう。つまり、憲法で使われた「勤労」という概念の曖昧性はもっと認識されていい。

(以下引用)

「獣の世」から「人間たちの社会」へ回帰!(2)

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勤労が義務である国は先進国で日本と韓国だけ

 ――そもそも、今回のテーマである「分断社会」は、どのように形成されてきたのですか。


 井手 日本国憲法第27条に「勤労の権利と義務」というのがあります。勤労とは単に働くことではなく勤勉に(industrious)働くことを意味しています。おそらく「労働や就労が義務」の国はあったとしても「勤労が義務」である国は、先進国では日本と韓国だけだと思います。このことは、なぜ日本社会は引き裂かれ、分断されているかを考えるときにとても重要になってきます。


1.すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
2.賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3.児童は、これを酷使してはならない。(日本国憲法第27条「勤労の権利と義務」)


 この「勤労」という言葉は、戦時中の国家総動員体制のもと、定着した概念であるにもかかわらず、日本人の心性に訴えかける言葉として左派にも好んで用いられています。


 1945年11月に出された日本社会党の綱領には、「わが党は勤労階層の結合体」であると最初に記され、翌月に出された日本共産党の運動綱領でも、勤労大衆、勤労者、勤労同胞など、勤労と言う言葉が8度も用いられています。

経済的な失敗者は、道徳的な敗北者になる

 歴史を遡ると、江戸時代の後期の民衆の間に広く定着していた「通俗道徳」的倫理観に注目することができます。江戸時代後期の商品経済の急速な浸透によって、民衆は商品経済に巻き込まれ、「家」まるごと没落の危機に直面しました。そうした事態に直面した民衆は、勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範を内面化し、それに従うことで家没落の危機を回避しようとしたのです。こうした勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範が「通俗道徳」と言われるものです。


 その後、この「通俗道徳」というイデオロギーが今日に至るまで、日本国民を縛り続けていくことになります。市場経済において、努力したにもかかわらず、失敗する人間は常に存在します。しかし、通俗道徳、すなわち「勤勉に働き、倹約に務め、努力するものは成功する」というイデオロギーを前提とすると、経済的な失敗者は、そのまま道徳的な敗北者になります。高度経済成長を牽引した、時の内閣総理大臣池田勇人は、「救済金を出して貧乏人を救うという考え方」を批判して、占領期の社会政策を「贅沢過ぎ」だと断罪しています。それは、経済的弱者を救うことは「濫救」「惰眠」を増加させるものだとみなされていたからです。

生き馬の目を抜く万人の万人に対する戦争

midori 通俗道徳が支配する社会とは、「努力が必ず報われる」という建前のもとで、勝者と敗者が存在する社会です。しかし、個別の人生1つひとつを取りあげてみれば、そこには多くの偶然が介在しますので、実際には努力が必ず報われるという保証はありません。それにもかかわらず、人びとは、自らが通俗道徳を実践したことを証明し、社会的な承認を勝ち取るために経済的に成功しなければなりません。


 その結果、勤勉、倹約、自己規律を求める通俗道徳は、逆説的に、生き馬の目を抜くような、「万人の万人に対する戦争状態」としてのホッブズ的世界を招き寄せてしまうのです。それが、極端な競争社会に全面化するのは、明治維新によって、江戸幕府が崩壊し、それまで人々の行動に枠をはめていた江戸時代の身分制的秩序が崩壊した後のことです。現在の「分断社会」の原型はこの明治時代に生まれています。そして、この状況を大本教の教祖である出口なおは「獣の世」(※)と呼んだのです。

通俗道徳は皇国勤労観へ変貌して延命した

 通俗道徳的な規範に立脚した社会はアジア・太平洋戦争の敗戦で最大の危機を迎えます。
しかし、通俗道徳は、この危機の時代を「勤労」や「倹約の美徳」の思想となって生き延びることになります。日本政府は1つひとつの通俗道徳の実践という従来の価値観を「家の存続と個人の立身出世」を目的とするものから「国家」を目的とするものへと変換させました。それが「皇国勤労観」です。これは後に、労働への義務意識が染み込んだ日本の「勤労国家レジーム」の成立につながっていきます。


 「勤労国家レジーム」のもとでは、勤労者への減税と勤労の機会を保障する公共投資を骨格とし、社会保障には多くの予算を組みませんでした。社会保障は就労ができない人向けの現金給付に集中し、サービスすなわち現物給付の占める割合は「限定」されることになりました。しかも、限られた資源を配ろうとすれば、低所得層や高齢者、地方部といった具合に、分配の対象を「選別」せざるを得なくなります。そして、この限定性、選別性の背景には「自分でできることは自分でしなさい」という「自己責任」の論理が徹底的に貫かれています。


 このことは、現役世代にとって、生活の必要、すなわち、住宅、教育、老後の生活等に必要な費用を、自分たちで稼得しなければならないことを意味していたのです。

しかし、バブルが崩壊後、状況は一変した

 一時は奇跡的とも言うべき高度経済成長による所得増大によって、多くの人々は自らの責任で生活の安定を確保することができました。人々は、「勤労国家レジーム」に基づき、
「倹約の美徳」を称賛し、将来に備えるため「貯蓄」に励みました。勤労を前提として、社会保障を限定する自己責任型の福祉国家を維持することができたのです。ここでは出口なおの案じた「獣の世」は、限定的にしか現れてきませんでした。


 しかし、バブルが崩壊後、状況は一変します。減税と公共事業に支えられた勤労国家の発動も虚しく、国際的な賃金下落圧力が景気回復を妨げ、巨額の政府債務が積み上がりました。また、少子高齢化が進み、専業主婦世帯と共働き世帯の地位も逆転、近代家族モデルは完全に破綻しました。さらにバブル崩壊に追い打ちをかけるように、市場原理や競争原理、自己責任論が持ち込まれました。


今、日本社会は通俗道徳の実践にエネルギーを費やした多くの敗者で溢れています。働くことは苦痛でしかなく、勤労の先に待ち構えるのは貧困のリスクなのです。まさに「獣の世」の再来と言えます。


(つづく)
【金木 亮憲】


(※)明治日本は一般的には、政治指導者から1人ひとりの国民までが一致団結して「近代化」を追い求めた、つまり「価値観が共有された時代」と言われる。しかし、その一方で、この明治日本を「獣の世」と喝破した人物がいる。大本教の教祖である出口なおである。


『外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ目が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ・・・』(出口なお 1837‐1918)


 「獣の世」(「分断社会」はその顕在化の1つ)は明治日本から始まり、一時高度経済成長の陰に隠れて見えなくなっていた。しかしバブルが崩壊、そして今、近代そして資本主義の終焉が近づくにつれて、「新自由主義」などと姿を変えて再びその牙を剥き始めている。
温かみのある、情熱や思いやりに満ちた社会、他者への配慮にあふれ、仲間のために行動することをよしとする誇りある社会、そんな日本社会はもはや昔話になった。そして、今や「貧困」や「格差」という言葉が日本社会を語る日常的なキーワードになりつつある。


<プロフィール>
ide_pr井手 英策氏(いで・えいさく)
 慶應義塾大学経済学部教授。専門は財政社会学。1972年 福岡県久留米市生まれ。東京大学大学院経済研究科博士課程単位取得退学。博士(経済学)。著書に『経済の時代の終焉』(岩波書店、大佛次郎論壇賞受賞)、共著に『分断社会を終わらせる』(筑摩選書)、共編に『分断社会・日本』(岩波ブックレット)、『Deficits and Debt in Industrialized Democracies』(Routledge)など多数。


 

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HN:
酔生夢人
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男性
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仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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