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飛行機(ヘリ含む)操縦に多い「空間識失調」事故

まあ、別記事に書いた「米軍機による撃墜か」は当然冗談だが、下の記事にある「空間識失調」が一番可能性が高いだろう。普通は飛ばない低空飛行をしたために、操縦士が「空間識失調」を起こしたわけだ。海面との距離は、慣れていないと視覚での認識は困難だろう。民間機だと決まったコースや高さしか飛ばないので事故は少ないが、軍用機だと突然の高度変更を上から命令されると逆らえなかったのだろう。

(以下引用)

陸自ヘリ不明、過去に同型機でも 後を絶たない自衛隊機の事故


配信

毎日新聞

過去に起きた自衛隊機の主な事故



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道教とは何か

森鴎外の「魚玄機」を読んでいて、その中の道教についての或る記述が、性行為であるように思えたので、ネットで調べようと思ったが、或る文学的論文しか見当たらず、しかも探していた事項の説明がない。それは、「四目四鼻孔云々の法」というのである。で、その法を履修した結果、「玄機は真に女子となって、李の林亭にいた日に知らなかった事を知った」と書かれている。「真に女子となって」とは、性行為による快感を知ったということだろうが、「四目四鼻孔の法」というのは、まあ、一人の人間に目が四つ、鼻孔が四つあるわけはないから、これは接吻を意味するのだろうが、もちろん、それだけで終わるものではないだろう。
私が興味を持ったのは、道教にそのような性的な部分があったのかどうかだ。仏教には左道密教とかいうものがあったようだし、東南アジアの宗教には性的な象徴が多く彫刻されているようだが、道教というと、老子を祖とするという説が道家で言われているようだから、老子と性的宗教はまったく似合わない気がするのである。
まあ、そもそも道教の教えのエッセンスが何か、分からないのが私には気になるわけだ。中国の説話などでは「道術」という、魔法のような術もあるらしく描かれ、「白蛇伝」では道教の坊主というか、道術士の道術によってヒロイン(白蛇の化身)が苦しめられるのである。

(注:左道密教について)

インド密教の一派。 人間の煩悩愛欲は尊重されるべきであるという思想を背景として,ヒンドゥー教の性的結合を絶対視するタントラ教の影響を受けて成立した (8世紀) 。 その創始者はインドラブーティといわれているが,9世紀以後特に盛んになった。

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「通俗道徳批判」への批判

毎度言うが、私は「通俗道徳」という言葉が蔓延することに危機感を抱いている。道徳という概念に「通俗」という蔑称をつけることで、「道徳」概念そのものがどんどん失われる可能性を危惧するからである。それに、「通俗」という言葉を使う事自体の危険性も大きい。通俗でなぜ悪いのか、という反省もなく、「通俗」の一言でその価値が暴力的に失わされるのは、かつての「大衆小説」や漫画やアニメや大衆歌謡が低俗視された歴史で分かるだろう。通俗と低俗はほぼ同じ、軽蔑語だ。
私の考えでは、道徳は通俗であるからこそ意味がある。通俗とは「俗に通う」つまり、一般大衆に行き渡るという意味だからだ。社会の一部の人間しか守らない「高尚な」道徳に何の意味があるのだろうか。そして、現代の日本では(西洋は既にそうだが)宗教の価値が最低限に落ちたことで、道徳という言葉自体、無意味化しつつあるのである。だから、新興宗教のような詐欺商法が罷り通るのだ。

なお、下の記事のような「社会の下層への福祉」を論じるなら、精神論ではなく、社会システムを論じるべきであって、精神論こそ議論の本質を捻じ曲げるものだと思う。社会システムは政治の議題になるが、精神論は物好きな連中の馬鹿議論の種にしかならないから、為政者が喜ぶだけだろう。

(以下引用)

その人が貧しいのは努力不足だから? 通俗道徳のわなから抜け出す


有料記事


聞き手 編集委員・塩倉裕 田中聡子
吹き出しアイコン常見陽平さんなど2件のコメント
常見陽平さんおおたとしまささん
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 8月に著名人が生活困窮者を差別し、後に「頑張ってる人もいる」と謝罪しました。貧困と「努力」とが結びつけて語られることで、何が起きているのでしょうか。(聞き手 編集委員・塩倉裕、田中聡子)

はまりがちな「努力のわな」 歴史学者の松沢裕作さん

 努力は必ず報われるとは限らない。その事実をみんな実はよく知っています。では、報われるかどうかを努力と結びつけて考える傾向はどこから来たのでしょう。歴史学の研究成果では、江戸期に発生した「通俗道徳」が参考になると思います。故・安丸良夫氏が主張した学説です。


 通俗道徳とは「人が人生で失敗したり貧困に陥ったりするのは、その人の努力が足りないからだ」とする考え方です。江戸時代の後期に生まれたものとされます。大事にされたのは、勤勉に働くことや倹約をすることでした。


 努力する人が報われる社会が大事だとされる今の状況は、「通俗道徳のわな」にはまった状態に見えます。


 「貧困と努力」を結びつける思想は、どう捉えたらよいのでしょう。記事後半ではジャーナリストの藤田和恵さんが政治家やメディアの責任を指摘。弁護士の竹下義樹さんは「貧しい人はなまくら」という先入観について語ります。


 江戸後期は、様々な商品が売…


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黒岩知事の「愚直」な猥褻メールwww

面白いから載せておく。


(以下引用)

「戦慄する」「気持ち悪い」“11年不倫”神奈川県・黒岩知事の超卑猥メールにネット震撼


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女性自身

(写真:アフロ)



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超訳「踊るドワーフ」#65


結局、ドワーフは正しかった。国中の警官が今は私を探している。私が踊っているのを見た誰かがーーたぶん、あの老人だと思うがーーあのドワーフが私の体の中で踊ったのだと当局に密告したのだろう。警察は私を監視し始め、私を知っている者は皆、聞き取り調査をされた。私のパートナーは、私が一度彼に踊るドワーフのことを話したことを証言した。私の逮捕のための令状も出された。警察は工場を取り囲んだ。ステージ8のあの少女はこっそりとやってきて私に警告した。私は作業場を抜け出して、完成品の象が格納された倉庫に身を潜めた。その象の一体の後ろに隠れ、途中で数名の警官を粉砕して道を開き、私は森の中に紛れ込んだ。
それからひと月近く経つが、私は森から森、山から山へと走り続け、草の実や虫を食べ、川から水を飲んで生きながらえている。だが、あまりにも警官が多すぎる。遅かれ早かれ彼らは私を捕まえるだろう。そうしたら、彼らは私をウィンチに縛り付け、私をばらばらにするだろう。でなくてもそれに近いことをすると私は聞いた。
ドワーフは毎夜私の夢の中に出てきて、自分を私の体の中に入れろと命令する。
「そうすれば、少なくとも、君は逮捕されないし、警察に追われることもなくなるだろう」彼は言う。
「嫌だ。そうすると私は永遠に森の中で踊ることになるだろう」
「その通りだ」ドワーフは言う。「だが、君はその選択をしなければならない唯一の人間なのだ」
彼はくつくつ笑ってそう言ったが、私はその選択はできない。
犬たちの吠える声が聞こえる。彼らはすぐそこまで迫っている。



「踊るドワーフ」完


(訳者注:いろいろと解釈のできそうな作品だが、ドワーフを体の中に入れて踊り続ける、というのは、作家という仕事自体の象徴にも見える。虚構と虚構内の現実、虚構内の夢と虚構内の現実、夢よりも嘘みたいな虚構内の現実という骨組みの多層性が見事なバランスを取って、笑い話でもありほら話でもあり、ホラー小説でもあり象徴小説でもある、という傑作だと思う。)

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大衆小説雑談

古本屋で買った文庫本で宮部みゆきの「過ぎ去りし王国の城」を読了したのだが、途中までは、これはいったいファンタジー小説なのか社会派ミステリーなのか、判別ができず、どう着地させるのかと思いながら読んだのだが、最後まで読むと、さすがに上手く着地させている。それで思ったのは、これはSF小説だということだ。
ファンタジー小説とSF小説の違いは、次のようなものである。ファンタジー小説はその小説世界そのものが現実とは別次元であり、合理性は顧慮しなくてもいい。あるいは、その世界での合理性があればいいのであり、現実世界の合理性とは別だ、ということだ。それに対してSFは、小説の鍵になる非現実的なアイデアだけは許容されるが、それ以外では現実世界の合理性で話は進行するというものだ。代表的な例で言えば「不思議の国のアリス」はファンタジー小説で、「夏への扉」はSF小説である。これは明白だろう。同様に「指輪物語」は明らかにSFではなくファンタジー小説である。妖精が出るからファンタジー、出ないから違うというわけではない。現実世界とはまったく異なることの記号として妖精などが出て来るだけだ。妖精の代わりに怪物でもいいが、現実世界にも怪物的な存在はいるので、現実世界には存在しない怪物を出すのである。ところが、ゴジラは現実世界に怪物を出すわけで、ゴジラ以外はすべて現実だという設定だ。だからSFなのである。

ついでながら、最近うんざりするほど作られる「異世界転生物」のラノベやそれに準拠したアニメが恐ろしくつまらないのは、その異世界の造形がじつにいい加減だからである。まったく頭を使っておらず、異世界に行く意味がほとんどない。単に、現代人の「ここではないどこかへ」行きたい願望に媚びただけの作品群である。

最初に書いた「宮部みゆき」の本だが、例によって「上手だが、読む楽しさはない」作品であり、これはもちろん私にとっては、ということだ。登場人物に好感が持てないし、本質的にユーモアが無い。作者の昔のブログなどを読むとエッセイではユーモアを発揮するのだが、小説ではそれがまったく陰をひそめるのである。登場人物に好感が持てないのも、作者が合理主義者だからだろう。「ありそうな人間」は書けるが、「ありそうにない人間」を書くのをためらってしまうのではないか。つまり、底抜けの善人などは脇役としては書けるが、中心人物だと、ついついその深層心理まで深堀りしてしまい、結果的に好感の持てない人物になるのだろう。この作者には「ドン・キホーテ」や「白痴」のような主人公は書けないと思う。藤沢周平なども同様だ。
山本周五郎などは、作者の人格は別として、それが書ける大衆作家だった。良い意味での馬鹿が書けるというのは、つまり馬鹿を愛し、その人格に敬意を持つことができたわけだ。

ついでに言えば、ユーモアとは「無邪気な幸福感を伴う笑い」である。そこが冷笑や嘲笑とは異なる。

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超訳「踊るドワーフ」#64

君の勝ちだ、気力を無くしたような声でドワーフが言った。彼女は君のものだ。私はもう君の体から離れる。そして彼はそうした。
「だが、君は私の最期を見ていない」彼は続けた。「君は何度でも私に勝つことができる。だが、君は一度しか負けることはできない。それが君の最期だ。そして君はすべてを失う。その日はいつか来るだろう。それがどんなにかかろうと私は待っているよ」
「なぜそれが僕でなければならないんだ?」私は叫んだ。「なぜほかの誰かであってはいけないんだ?」
だがドワーフは何も言わなかった。彼は笑っただけだった。その笑い声は、風がそれを吹き去るまで空中に漂った。


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HN:
酔生夢人
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仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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