還付金でも出るんか
せや
なんなら補助金もよこせ
ワイ結構イケメンだから多分これガチやったら長州されとると思うわww
いくら払えばいいんだ?
現代社会の歪みは顔にある
歪んでるのはお前の顔やろ
気の赴くままにつれづれと。
第二章 財産形成について
「人生問題のほとんどは経済問題である」、というのは清水幾太郎の名言だが、金持ちの親を持って生まれなかった貧しい若者にとって、いかに財産を形成するかは、人生の最大問題の一つである。これに比べれば、恋愛など、幻想的な問題にすぎない。つまり、人生の基本問題は二つ。一つは、いかにして健康な状態を維持するか。もう一つが、いかにして財産を形成するかである。その後者について述べよう。
まず、犯罪的手段で財産を形成することは、避けたほうがいい。犯罪を行うには犯罪者としての性格と才能(平気で嘘をつく能力など)が必要なのであり、犯罪者的素質の無い人間は犯罪者としての成功はまず不可能なのである。これを良く示しているのが、ドストエフスキーの『罪と罰』である。あれは、犯罪者の資質の無い善人が、自らの超人思想に取り憑かれ、柄にも無い犯罪を実行してしまった一部始終の記録である。ただし、犯罪者的資質は養成することも可能であり、少年院や刑務所が、その種の「教育機関」であることは一部では良く知られている。大企業にも似た面はあり、企業の利益になることなら何でもやる人間こそが出世するのが資本主義のシステムであるため、大企業の上層部は、たいていは非人間的な怪物になる。これはマイケル・ムーアの「シッコ(シック・コーポレーションの意味か?)」などに如実に顕れている。軍隊が殺人者の訓練所であることなども言うまでもない。
そうした華やかな修羅の道を選ぶのも一つの生き方ではあるが、あまり冴えなくても「人間らしく」生きたいなら、堅実な人生設計をする必要があるだろう。
まず、人生の生き方には大別して二つある。一つは個人事業主として生きることであり、もう一つは組織の中で生きることである。芸術家やスポーツマンは前者である。個人商店の店主なども前者だろう。後者の中には、親しい仲間だけでチームを作って小さな組織の中で生きる方法もあり、これは両者の中間的形態である。大組織に比べて自由度は高く、個人事業主の孤独からは免れているのだから、理想的形態かもしれない。だが、交友関係に恵まれていないとできないことだから、ここでは考察しない。個人事業主の中でも、才能が前提となる芸術家やスポーツマンの人生も無視することにする。
たいていの人間は、学校を出ると会社に入り、社会人生活を始める。最初の頃は給料も安く、仕事はきついが、会社の仕事に慣れてくると、仕事は楽になり、給料も少しずつ上がってくる。
さて、ここで問題は、多くの若者は、貰った給料のほとんどを使い切ってしまうことである。もともと給料が低いのは分かるが、しかし、その金の使い方は、はたして意味のある使い方だろうか。若い男性なら、酒や女に使うだろうし、若い女性でも化粧品や洋服、音楽や娯楽に過度の浪費をしていることが多いのではないだろうか。その中でも書籍の購入に使うのは、ましな使い方だが、実は、私から見れば、これも無駄遣いである。なぜなら、文明国には、公立図書館というものがあるからだ。自宅に数千冊の書籍を保存していることを誇るのもいいが、図書館の数万冊の書籍をすべて読破した人間のほうが、はるかに高レベルな知識人だろう。もちろん、読んだ本が身についているかどうかはまた別の問題だ。要するに、教養を身につけるにも、知的娯楽を得るのにも、実は金などいらないということである。現在はインターネットもあるから、中古品のパソコンを安く手に入れれば、意欲さえあれば、インターネットを通じて何の勉強でもできる。まあ、これは無料とはいかないから、やはり公立図書館ほどの貧乏人の友はないが。
酒や女も含めた、遊興娯楽に使う金については、幾分かは若い頃の思い出にはなるだろうが、やはりほとんどは無駄金と言うべきだろう。まったく使わないのも無理だろうから、できるなら、使う金を自分でセーブするのがいいだろう。
さて、ここで本題に入ろう。いかにして財産形成をするかである。ギャンブルや犯罪以外の方法で、ある程度の資産を作るには、時間がかかるのは当然だ。しかし、真面目な人間なら、何の才能が無くても、ある程度の資産形成はできるのである。
あなたが、ある程度しっかりした会社に入社したなら、まず、そこで10年は勤めることである。そうすれば、銀行はあなたが住宅取得をするための貸付に応じてくれる。現在の世の中は、大不況の時代であるから、かつて作られた豪華な住宅が、格安の値段で売りに出されていることがある。そうした物件を根気よく探すのである。新築をしてはいけない。現在のような不況の時代の建築は、建築費を安く上げるための安普請で作るに決まっているからである。中古住宅ならば、かつては3000万円くらいしていたものが、1000万円程度で手に入る例もある。築20年だろうが、しっかりした物件なら、新築当時とほとんど変わらない状態であることもあるのだ。ところが、中古住宅販売は、築年数で値段が大きく下落していくから、物件の内容に比べて、格安の値段で売られる住宅が多いのである。つまり、あなたは、本来なら3000万円の住宅を、1000万円そこそこで手に入れることになる。
もちろん、銀行の融資を受ければ、それからはローンの返済が始まる。だが、1000万円程度のローンなら、利息も含めて、10年もあれば返済できるはずである。20歳で入社して、10年後に住宅を取得したなら、あなたはわずか30歳で一国一城の主である。そして、この家は、あなたに金が必要になった時には担保にもなってくれるのである。
借金が気になる? 借金も財産のうちである。あなたが借金をしているということは、あなたにそれだけの社会的信用があることの証明なのである。信頼性の無い人間に金を貸す人はいない。
そして、さらに十年後には、ローンも完済して、あなたは借金も無くなる。だが、ここで、もうワンランクアップをしてみよう。今度は、自分が住むための住宅ではなく、投資のための住宅を取得するのである。40歳なら、定年もまだまだ先だ。前と同様に、中古物件の掘り出し物を探し、それを見つけたら、思い切って勝負に出よう。前のローンを完済したことで、あなたの信用度は上がっているから、今回も銀行は快く融資してくれるはずである。もし、融資を渋るなら、他の金融機関を試してみよう。銀行よりも審査がゆるやかで、条件も有利な金融機関もあるはずだ。
だが、現在の不況の中では、今勤めている会社がいつ倒産するかもわからない。ローンを抱えたまま職を失ったら大変ではないか、と考える人もいるだろう。確かにそうだが、借金は、払える限度以上に払うということはない。払えなくなれば残りはチャラである。それが資本主義のシステムなのである。ローンの途中で失職したなら、今住んでいる家を売って、借金の返済に当て、また一からスタートするだけである。もともと裸で生まれた人間ではないか。裸でやり直すのに、何の文句があろうか。
こうして二つ目の不動産を手に入れれば、その新しく取得した住宅は他人に貸して家賃が稼げる。場合によっては、その家賃がローンの支払いを上回ることもあるだろう。ローン以下であっても、いずれにしてもあなたはそれほどの負担無しにローンの返済を続けていけるのである。そして、ローン期間が終われば、あなたはまったく借金は無く、二軒の家の所有者になっているわけである。
人間の苦労は、毎日の生活費をどうして手に入れるかということである。そのために、いやな宮仕えもしなければならない。だが、家賃不要の住宅があり、毎月の食費程度を稼ぎ出すもう一軒の家があれば、人生の主要問題は、もう解決したのである。
これは地味な生き方であり、才能のある人間にとってはお笑いぐさかもしれない。だが、世間の大半の人間は平凡人である。平凡な人間でも真面目に生きていけば、人生の末期には経済問題から解放された晩年が期待できるというのは、大きな希望ではないだろうか。
たとえば、太宰治という人は、頭の良さや文学的才能は抜群の人間である。だが、彼の人生と私の人生を取り替えたいとは、私はまったく思わない。いや、現在自分を恵まれていない運命だと思っている人間でも、主観的生活としては、太宰治よりもはるかに幸福だろう。それは、太宰治が自分で自分の不幸を選び取るような生き方をしてきたからである。平凡人の人生は、けっして不幸な人生ではないのである。案外と華やかな生活を送る有名人のほうが、精神的には不幸な生き方をしているかもしれない。
財産形成は、何千万人もの人間が毎日頭を悩ませている問題であり、確実な方法など無いが、その要点を言えば、「資本蓄積」「投資」を適切に行うことだろう。貯蓄だけでは、大きな財産の形成はできない。資本主義の社会においては、「投資」は財産形成の必要条件だと言えるだろう。それはもちろん、ギャンブルではある。馬券を買おうが証券を買おうが、宝くじを買おうが、すべてギャンブルなのである。しかし、そうした勝負を避けてばかりいては、満足な老後資金程度も残らないだろう。というのは、この社会は貧乏人のわずかな金を搾り取ろうとする金持ちでいっぱいだからである。つまり、広く薄く、カオス階級全体から金を取り上げて、上の人間に配分するようにこの社会の仕組みは作られているのである。聖書ではないが、「持っている者はさらに与えられ、持たない者は持っているわずかな物も奪われる」というのが、この社会なのだ。
2 遊び
遊びにおける能力開発という点では、私には本当は発言資格は無い。何しろ、生まれつきの運動音痴で、運動会の徒競走ではいつもビリだった人間である。なまじ顔が良かったものだから(これは私の主観ではなく、たいていの人はそう言ったのだが)、そのみっともなさは私の主観では言語に絶していた。学生時代の遊び事は、たいていはスポーツだから、私が遊び下手なのは言うまでもない。トランプや麻雀などの頭脳ゲームも、あまり強くはなかったから、頭もたいしたことは無かったのだろう。
私が言えることは、遊びが上手になる必要は無いが、どんな遊びでも参加できる程度には知っていたほうがいいということである。碁も将棋も麻雀も知っていたほうがいいし、スキーもスケートもゴルフも野球もできたほうがいいということである。そうすれば、メンバーが足りない時に、参加できる。もちろん、こちらは下手クソなのだから、その遊びで活躍することは無いが、その代わりに、他の人間に活躍の機会を与えて、彼もしくは彼女に幸せな時間を贈ることができる。これも陰徳というものである。
下手だろうが何だろうが、機嫌良く、楽しく遊び、他人を良い気持ちにさせることができるなら、たかが遊びでまで勝利至上主義を振り回して他人を不愉快にする「遊び上手連中」よりも、はるかに価値ある存在だろう。
音楽という遊びもあるが、これも私は音痴に近いので、発言できない。音痴でも聞いて楽しむことはできるから、そうした遊びは鑑賞する立場にとどまっているだけでいいだろう。ついでながら、苦手なスポーツでも、私は見るのは好きである。「スポーツは見るものじゃなく、するものだ」という傲慢な発言をするスポーツ強者もいるが、見るだけでも十分に楽しいのだから、わざわざ自分でするまでもないのである。
絵を描くのも遊びの一つになることがある。これも私には才能が無いから、発言資格は無いが、才能があろうがなかろうが、絵を見たり描いたりすることが楽しければ、それはそれで結構である。俳句や短歌などを趣味とするのもいいし、書道などもいい。
だが、遊びが肯定されるのは、「本業」がきちんとうまくいっている場合である。遊びに淫して、本業が疎かになっている素人画伯の類は多い。多少上手な絵が描けようが、個性的な絵が描けようが、本業が半端な人間は偉くもなんともない、というのが私の考えだ。相撲取りが絵が上手だろうが歌が上手だろうが、相撲が弱ければ、価値は無い。芸人が多少上手に日本画を描けるというので、タレント業をやめて「画伯」ぶっているのなども嫌みなものである。
もちろん、遊びが遊びの範疇にとどまっていれば、結構な話である。
「独楽」という漢字は「こま」のことだが、独楽の回転が落ち着いて「澄んだ」状態になっているのは、まさしく「独りを楽しむ」という状態に見える。このように、他者の目とは無関係に、物事に夢中になっている状態は、まさしく「遊び」の状態である。この境地になれば、それが仕事でも、それは遊びと同じなのである。
3 身体能力
前の「遊び」の項目から分かるように、私は、身体能力は著しく劣っている。要するに、運動神経がゼロに近い。ボーリングなどでは、100点も出せないし、2回に1回は溝にボールを落っことす人間である。
これは、小さい頃に運動をしなかった結果ではないかと思っているのだが、ただの遺伝かもしれない。しかし、後で「健康」の項目を長々と書くつもりだが、現代人にとって(あるいはいつの時代の人間にとっても)、大事なのは運動能力ではなく、健康だというのが私の信念なのである。人より少し速く走れようが、少し高く跳べようが、どれほどの意味があるのか。走り高跳びで1メートルしか跳べない人間と、1メートル50センチ跳べる人間とで、生きていく上で何の違いがあるのか。それらは、すべて「スポーツ」という土俵においての意味しか無いのである。確かにスポーツが学校生活の中で持つ意味は大きい。スポーツマンは学校の王侯貴族なのである。だが、社会に出たら、スポーツマンの存在価値など、アフターファイブの遊び事の場にしかない。仕事でも家庭でも、運動能力など不要なのである。
まあ、しかし、人生の一時期だけでも輝く時期があった連中は幸せかもしれない。
とりあえず、ここで私が言いたいのは、人間、健康でありさえすればそれ以上言うことは無いのであり、身体能力も運動能力も、実社会ではほとんど無用の能力だということである。したがって、それを向上させる必要などないし、そのノウハウが知りたければ、図書館で運動関係の本を探せばよいということだ。
4 対人関係能力
対人関係能力を大別すればA 無意識的部分と、B意識的部分に分かれる。Bの意識的部分とは、「計算と演技力(弁舌能力を含む)」である。Aの無意識的部分とは、「自然な人間的魅力」である。Aに恵まれている人間なら生きていくのに苦労は無い。だが、通常はBの修練を通して、それがAに移行していく例が多いかと思われる。ここでは、Bを中心に述べるが、その前に、一般的に人間的魅力とは何か、あるいはどういう人間が魅力的な人間かを見ておこう。
まず、外貌は大事ではあるが、それはここでは論じない。私が考える魅力的な人間の条件・資質は次のようなものだ。
① 善良さ
② 他者への愛情(優しさ・思いやり)
③ 正義感
④ 勇気
⑤ ユーモア感覚
⑥ 謙虚さ
⑦ 本質的な賢さ
実は、これは私がフィクションの主人公で一番好きな、「未来少年コナン」の性格・資質と思われるものを列挙したものである。フィクションの主人公なら誰でも魅力があるわけではない。特に、最近のフィクションの主人公は「面白いけど厭な奴」が主流だから、ここで挙げた資質は、昔風のヒーローの特徴と言えるかもしれない。
フィクションの主人公なら、上に挙げた以外に、何かの特殊能力が必要だろうが、現実人生の人間は上に挙げただけで十分以上である。問題は、①、③あたりと⑦が一致しづらいところである。つまり、賢い人間なら、この世が善良では生きていけないことにすぐに気づいて、自分の善良さを棄てて、社会に対応していくはずだからである。しかし、これらの資質が現実でも共存できると仮定して話を進めよう。
「善良さ」がなぜ魅力的か。これは言葉の定義次第だ。「善良」とは「良い」ことなのだから、悪いはずがない。周囲の人間がその人に接して「良さ」の影響を蒙るなら、その人を悪く思うはずはないのである。ただし、「退屈な人間」と思うことはありうる。刺激的かどうかならば、悪人のほうが刺激的には決まっているのだから。
「他者への愛情・優しさ・思いやり」が魅力的なのは論証不要だろう。我々は自分に愛情を向ける存在を愛するものである。愛されない人間は、たいていはその本人が自分しか愛していない人間であることが多い。
「正義感」があることも、魅力の条件である。我々の生きるこの世界は、様々な不正に満ちている。弱者を虐げる人間への怒り、すなわち正義感は人間として当然の資質だ。
「勇気」は、悪と戦うための条件である。
「ユーモア感覚」とは何か。それは高揚しすぎて足が地上から離れそうになった心を地上に引き戻すことである。自分の人間的な弱さを自覚し、笑うことだ。そうしたバランス感覚の無い「シリアス型・緊張型」の人間は魅力が無いものだ。
「謙虚さ」は「ユーモア感覚」と同様に、バランス感覚である。傲慢さとは自己の過大評価であり、その本人の本質的な頭の悪さを示してもいるが、それはまた、他人への思いやりの無さの現れでもある。
「本質的な賢さ」とは、学校の成績などとは無関係な賢さであり、現実人生の様々な問題に正解を与える能力を持っていることである。東大出の官僚のほとんどは、そういう意味では賢くないようだ。
善良で、謙虚で、ユーモア感覚があるだけでも、この世界では十分に魅力的な人間だろう。その上に、正義感と勇気があれば、ヒーローにもなれる素材である。ただし、「ユーモア感覚」には微妙な部分があり、「意識的に自ら笑いを作る」人間と、「見ていて何となく楽しい人間」のうち、魅力的なのは、実は後者である。前者はただのお笑いタレントであり、彼の作る笑い自体は魅力があっても、その当人が魅力的なわけではない。
では、以上に述べた性質や能力は、意識的な努力で身に付くものだろうか。半分はそうだろうし、半分は、意識的な努力とは無関係に身に付くものだろう。しかし、たとえば、善良さなどというものは、無意識に身に付くものではあるだろうが、幼い頃の読書の影響や、身近な人間の影響が大きいのではないだろうか。つまり、無意識的ではあっても、そうなるだけの原因はあったと思われる。だが、人間は、家族を選んで生まれるわけにはいかないから、幼児期の周囲の人間の影響をここで論じても仕方がない。
ここでは、前にも書いたように、人間の性格や行動は、その人間の生活信条の現れであるという観点から、対人的能力をいかにして養成するかを論じてみる。
前にあげた「人間の魅力」を大きくまとめると、
1 善良さ
2 賢さ
3 ユーモア
の三点に絞れそうである。
このうち、個人的な努力が効果があるのは2と3だろう。特に、ユーモアは修練による習得が可能な能力だと思われる。
しかし、賢さの養成とか、ユーモア能力の養成については、ここではなく、「心術」の項目で扱うことにする。
「君たちはどう生きるか」宮崎駿監督が、新作映画について語っていたこと。そして吉野源三郎のこと|好書好日
(中略)
そんな話を聞いた上で映画を見ると、今作の主人公の牧眞人(まき・まひと)少年は、宮崎監督の少年時代をモデルにしたのだと理解が行く。
時は太平洋戦争中の1944年、東京を襲った空襲で入院中の母を亡くし、父が経営する戦闘機工場とともに、一家は郊外へ疎開する。出迎えたのは父の再婚相手となった母の妹。お腹に新たな命が宿っている新しい母を、眞人は受け入れられず、転校先でも孤立する。そんなある日、疎開先の屋敷で眞人は偶然、1冊の本を見つける。
屋敷の庭の森には、廃屋となった洋館が建っている。眞人の「大おじ」にあたる伝説の人物が建てたという。やがて眞人の前に「母があなたを待っている。死んでなんかいませんぜ」と人間の言葉を喋る青いサギが現れ、導かれるように、眞人は洋館の中へと進んでいく――。
ここから先は「宮崎アニメの集大成」のような不思議ワールドの冒険が描かれるのだが、
全文はこちら
https://book.asahi.com/article/14953353