実は、前回で「生活の技術」は終わりのはずだったが、「哲学」こそが生活の技術の土台だと思うので、今思いつくことを書いておく。
第7章 哲学
人生を生きるための「心の持ち方(心術)」として一番肝心な「哲学」について書く。思考手段としての「分析と総合」については、また別の機会に論じる。
人生問題、とくに「苦」に対処する手段が「心術」だが、「苦」への対処法は大きく分けてふたつある。「哲学」と「宗教」である。これはどちらかを選ぶものであって、両方を選ぶわけにはいかない。
簡単に言えば、「哲学」とは、「神は存在しない」という前提で、人生の諸問題に対処する手法であり、「宗教」は、「神が存在する」という前提で人生に対処する手法である。(というより「来世に期待する」という、アホな生き方だ。)
私の考えでは、仏教は哲学であって宗教ではない。つまり、「仏」は愚衆を導くための方便であり、悟りのための便宜的道具であって、存在する必要のないものである。もちろん、悟った状態を「仏」と言うなら話は別だが、仏像に象徴されるような「外物としての仏」など存在しない。
そして、人生の「苦」に対する哲学的対処は、「般若心経」の最後の一句に尽きる。
すなわち「厭離一切転倒夢想 究竟涅槃」である。
すべての「思考の転倒」や「夢想(勝手な思い込み)」を克服すれば「涅槃(悟りの境地、心の平和)」に至るわけだ。
これは「神」も「仏」も不要な心術だから、宗教ではなく哲学だと言うのである。
では、どうすればすべての思考的転倒や夢想を克服できるか、と言えば、これも般若心経の前の部分にある「色即是空 空即是色」を納得すればいいのだが、別にそれを納得しなくてもいい。要するに、自分の前に現れる諸問題は、あなたがそれを「重大だ(色:意味を持った現象)」と思えばそう思えるし、「たいしたことじゃない(空:意味の無い現象)」と思えばそう思えるだけのことだ。
いつでもこの世からおさらばできる「色即是空 空即是色」の感覚を持った人間には、人生は苦の世界ではなく、素晴らしいプレゼントなのである。基本的に、人は自分で世界を「苦の世界」にしているのである。これが「転倒」であり「夢想」である。
寺田寅彦の俳句に、こういうのがある。
好きなもの 苺コーヒー花美人 懐手して宇宙見物
こういう気持ちでいれば、世界のすべては好運な贈り物だとなるだろう。我々の生は宇宙見物の素晴らしい機会を与えられたということなのだ。
第7章 哲学
人生を生きるための「心の持ち方(心術)」として一番肝心な「哲学」について書く。思考手段としての「分析と総合」については、また別の機会に論じる。
人生問題、とくに「苦」に対処する手段が「心術」だが、「苦」への対処法は大きく分けてふたつある。「哲学」と「宗教」である。これはどちらかを選ぶものであって、両方を選ぶわけにはいかない。
簡単に言えば、「哲学」とは、「神は存在しない」という前提で、人生の諸問題に対処する手法であり、「宗教」は、「神が存在する」という前提で人生に対処する手法である。(というより「来世に期待する」という、アホな生き方だ。)
私の考えでは、仏教は哲学であって宗教ではない。つまり、「仏」は愚衆を導くための方便であり、悟りのための便宜的道具であって、存在する必要のないものである。もちろん、悟った状態を「仏」と言うなら話は別だが、仏像に象徴されるような「外物としての仏」など存在しない。
そして、人生の「苦」に対する哲学的対処は、「般若心経」の最後の一句に尽きる。
すなわち「厭離一切転倒夢想 究竟涅槃」である。
すべての「思考の転倒」や「夢想(勝手な思い込み)」を克服すれば「涅槃(悟りの境地、心の平和)」に至るわけだ。
これは「神」も「仏」も不要な心術だから、宗教ではなく哲学だと言うのである。
では、どうすればすべての思考的転倒や夢想を克服できるか、と言えば、これも般若心経の前の部分にある「色即是空 空即是色」を納得すればいいのだが、別にそれを納得しなくてもいい。要するに、自分の前に現れる諸問題は、あなたがそれを「重大だ(色:意味を持った現象)」と思えばそう思えるし、「たいしたことじゃない(空:意味の無い現象)」と思えばそう思えるだけのことだ。
いつでもこの世からおさらばできる「色即是空 空即是色」の感覚を持った人間には、人生は苦の世界ではなく、素晴らしいプレゼントなのである。基本的に、人は自分で世界を「苦の世界」にしているのである。これが「転倒」であり「夢想」である。
寺田寅彦の俳句に、こういうのがある。
好きなもの 苺コーヒー花美人 懐手して宇宙見物
こういう気持ちでいれば、世界のすべては好運な贈り物だとなるだろう。我々の生は宇宙見物の素晴らしい機会を与えられたということなのだ。
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