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今日、12月22日は冬至

太陽暦のカレンダーは、基本的に日付と曜日と祝日(公休日)しか書かないので、今日が冬至であることを知らない人が大多数だろうと思う。つまり、今日が一年で一番日が短く夜が長い日で、明日からはどんどん日が長くなり夜が短くなっていくわけだ。そういう意味では、それこそ祝日にしてもいいし、この日を「春の始まり」としてもいい。
ただし、寒さはこれからもっと厳しさを増し、一月二月が一番寒いというのは、誰でも思うことだろう。そういう意味でも、今日がまだ11月10日である旧暦のほうが体感的に季節感に合っている。冬の頂点(冬至)は「寒さ」の頂点ではない、というわけだ。特に雪国では雪が溶けなくなり、根雪になっていくのではないか。




22日(金)午前9時の予想天気図



22日(金)午前7時の雨雪・風の予想



22日(金)の天気と予想気温





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「味の素有害論」への疑問

「大摩邇」所載のザウルス氏の記事の一部だが、私は「味の素(化学調味料)毒物説」には、懐疑的である。化学調味料を一時に大量に摂取すれば体に悪いのは当然で、醤油を一升瓶丸ごと飲めば七転八倒し、時には死に至るだろうし、塩を1キロ、そのまま食えと言われて食える人はいない。味の素危険説は、味の素の「文化侵略」に怯えた欧米食品業界関係者の陰謀だという説があり、私はどちらかというと、その方に軍配を上げたい。
下の記事でもグルタミン酸は「記憶・学習・運動制御」に必要な栄養素とされていて、過剰摂取した場合にだけ問題が起こるようだ。で、どの程度が過剰摂取なのか、その基準も示さず、「知らないうちにいろんな食品から摂取している」というなら、外食やインスタント食品をやめて自分で料理すればいいだけだ。何も味の素を社会的に攻撃することはない。個々人が使わなければいいだけだ。
念のために言えば、私は味の素社から1銭も貰っていない。銭ではなく円やドルでも貰っていないww 「社会啓蒙家」が、たまにやる「いい加減な根拠による他者攻撃」を危惧するだけである。それは、すべての社会啓蒙家の信頼性を危うくする。少なくとも、下の記事は、比較的誠実な発信者だと思うザウルス氏にしては、私には根拠薄弱に思える。まあ、主な話題である、某料理研究家への批判と「味の素」や「電子レンジ」攻撃は別にしたほうがいい。

(以下引用)

この2冊目の著書の紹介で船瀬氏は グルタミン酸ナトリウム の危険性を強調している。



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


また別の方からの指摘もある。



 


 



買ってはいけない味の素!その理由とは?

なるほど、家庭で 「味の素」 を振らなくても、スーパーで売られている食品や外食産業で食べるものにはすでにほとんど添加済みで、われわれの食生活はすっかり 「味の素」漬け になっている? (^-^;


 


 


 


しかし、味の素社をはじめとした化学調味料の製造会社は自社のウェブサイトで、グルタミン酸ナトリウムの安全性を必死に訴えている。グルタミン酸ナトリウム有害説は根拠のない都市伝説にすぎないと。



 


さて、ケミカルに合成される化学調味料の老舗の 「味の素」 は明治時代(1909)から販売されており、今や世界的なブランドとなっている。


しかし、化学調味料は、しょせん 「手抜き調味料」 だ。


食材を使ってダシや旨味を出すのではなく、ケミカルに合成した物質を振りかけて 舌を騙しているだけである。


実際、天然の昆布や鶏ガラから出るのはグルタミン酸で無害だが、化学調味料はグルタミン酸ナトリウムで別物で有害という説がある。しかし、人間の舌はその違いがわからない。それをいいことに、人間の舌を騙す 「魔法の粉」 としてもてはやされてきた。 


以下のように、グルタミン酸ナトリウム は グルタミン酸 に ナトリウム を結合させたもの。


 



 


グルタミン酸ナトリウムの有害性、毒性がどの程度のものかはよくわからないが、一般論として、化学的に合成された物質を常習的に摂取することには潜在的なリスクがあると言えるだろう。


しかも、医薬品のように何らかの病気の治療のためにどうしても必要というのではないのだ。ただ、ダシを取る手間を省くために日常的に使うものなのだ。となると、その常習的使用を危険視せざるを得ない。


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時間を「ムダに」使うという贅沢

まあ、正論だろう。ファスト視聴で小津安二郎の映画を見たら、1秒しかかからないというか、タイトルだけ映して終わりだろうwww そして、小津安二郎の映画は世界の評論家が絶賛するものだ。世界の名作映画の第一位と長く評価されていた「市民ケーン」だと、最初の「薔薇のつぼみ」という、ケーンの臨終のつぶやきと、ケーンが両親から引き離されるシーンの遠景の橇のアップと、最後の橇が燃えるシーンで3分程度か。
私が朝の散歩が好きなのは、朝空、特に日の出前後の空の姿が好きだからだが、散歩の間に頭に浮かぶよしなし事(由無し事)を妄想するのが楽しいからで、健康のためというのは二義的三義的だ。これは、部屋の中での妄想とはまた別種のものになる。あるいは、テレビゲームをするのも読書も「時間の無駄遣い」という贅沢であり、別にコマンドを達成したり敵を倒すだけ、本の筋を追う事だけが楽しいのではない。要するに、「自分が自由である」という感覚は、そういう「時間の無駄遣い」にこそ、あるいは主に頭脳生活の中にあるのではないか。

まあ、頭の中の生活こそが本当の生活だ、という私の思想は世捨て人の思想だろうが、その世捨て人も世界の人類の遺産である歴史と伝統と文化の中で頭脳生活は送っているのである。本を読まず映画も漫画も見ない王侯や富豪がいるなら、その誰よりも贅沢だろう。彼らは50年か60年の人生、それも自分の手に入る限界の中でしか生きていないのに、本を読み映画や漫画を見れば、人類3000年(文字で記録された限り)の歴史と伝統と、偉大な人々の思想や天才たちの空想と共に生きることも、頭脳生活の中では可能なのだ。
ファスト視聴をやっている人は、たけしの「あの夏、いちばん静かな海」を見てみるといい。これは、まったく何も起こらない映画である(聾啞者、あるいは聾者か唖者の映画なので、台詞すらない)が、淀川長治も激賞した傑作である。毒舌家として売り出したたけしという人間の根底にヒューマニズムと抒情性があることがよく分かる。

(以下引用)

ビートたけし「『時間をムダに使う贅沢』を知らない若者は可哀想」「映画の見どころはシーンの『間』」


転載元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1703126659/


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1: ネギうどん ★ 2023/12/21(木) 11:44:19.67 ID:xJuovG/99
 国語辞典などを手がける出版社・三省堂が発表する、「今年の新語 2022」で大賞に選ばれた「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉。近年、ネットやスマホの普及とともに情報が流れる速度は急速に上がっている。だが、一度立ち止まって時間の使い方や生き方に余裕を持つべきではないか──そう主張するのが、映画監督・タレントのビートたけし氏(76)だ。

 新刊『ニッポンが壊れる』を上梓したたけし氏は、『週刊ポスト』の取材のなかで「ファスト映画」への見解や、11月24日に亡くなった友人・伊集院静さんの生き様について明かした。【前後編の後編。前編から読む】

 オイラはこの前、久しぶりに『首』という時代劇の映画を作った。映画の話で言えば、映画を「早送り」で観る若者が増えているんだって?

 それどころか起承転結の要所だけをつまんで繋げて、10分や15分にまとめた「ファスト映画」というのを配信する違法業者が増えているらしい。「タイパ(タイムパフォーマンス)」が何より大事で、1本の映画をじっくり観るより「早送りしてさっさと結末を知りたい」というニーズが増えたんだろう。

 こういう若者を「教養がない」「我慢ができない」と問題視してるみたいだけど、それは作品が面白くないことの言い訳だよ。そもそも映画は、ある人物の人生やらを何十倍も早回しして、「たった2時間」にまとめたものだからね。それすら「観ていられない」というのは、単純に面白くないってことでしかない。

 ただ、オイラからすると「時間をムダに使う贅沢」を知らない若者を可哀想だと思ってしまう。良い作品を観て、思考を巡らせながら時間をゆっくり浪費することは最高にリッチなことだからね。

 今は情報が溢れすぎて、「早くて効率的」であることが美徳とされるようになった。でも、“贅沢”というのは効率とは対極のところにある。

 映画で言えば「見どころ」は、大ドンデン返しや衝撃的なラストじゃない。何気ないシーンの情景やセリフのないシーンの「間」が魅力なんだよ。それはファスト映画じゃきっと飛ばされている部分だろう。そこを楽しめなければ、作品のあらすじをなぞったところでピンと来るはずがない。

 これは食事にも同じことが言えるよ。「ファストフード」なんて言葉が定着して、どこにでもハンバーガー屋や牛丼屋ができたことで、「安くて早い」ことが美徳だと考える人が増えた。浅草の旨いうなぎ屋に行けば、注文を受けてから捌き始めるから30〜40分は平気でかかる。だけど、タレの香りをアテにチビチビ酒を飲んだり、そういう「待つ時間」も含めて贅沢なんだよ。

続きはソースで
https://news.infoseek.co.jp/article/postseven_1928656/

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企業の「新製品(商品)開発」という愚行

ダイハツというひとつの会社の問題ではなく、日本の企業風土、企業モラル、勤労者(特に技術部門)への経営陣の態度や姿勢の問題として捉えるべきだろう。
そもそも、毎年のように新しい車種を出すこと自体が馬鹿げている。本当にそれで売れるか? 消費者が求めるのは「商品の信頼性」であり、それは新しい商品ではなく、長いベストセラー商品にあるのである。「消費者は馬鹿だから、宣伝に釣られて新しい物を買う」、という電通的思考に大企業の経営陣も頭と精神が浸って腐っているのである。
なぜ電通などがそういう思想を吹き込むかと言うと、新商品と新宣伝は不可分で、自分たちの利益になるからにすぎない。企業は開発費用と宣伝費用で赤字になるだけだ。まあ、その中から重役が中抜きする、あるいはキックバックを貰うのだろうが。

(以下引用)


自動車メーカーのダイハツ工業は、国の認証取得の不正問題で新たに174件の不正が見つかったと発表しました。会社は、国内外のすべての車種で出荷の停止を決めました。

■不正データ問題 ダイハツ・トヨタ会見

ダイハツ工業では、ことし4月、海外向けの乗用車の衝突試験で不正が発覚し、その後、国内向けの車種でも国の認証を不正に取得していたことが明らかになっています。

会社は20日、第三者委員会によるその後の調査で、新たに25の試験項目で174件の不正が見つかったことを公表しました。

衝突試験のほかに排ガスや燃費の試験なども含まれ、不正は1989年から確認されたということです。

生産をすでに終了したものも含めて64車種に上っています。

この中には他社ブランドで販売される車としてトヨタ自動車の22車種、SUBARUの9車種、マツダの2車種が含まれています。

ダイハツは20日、国内外のすべての車種で出荷の停止を決めました。

不正の原因について、第三者委員会は、
▽短期間での開発の推進や、
▽激しい叱責や非難が行われる組織風土などの問題を指摘しています。

ダイハツは、「責任は経営陣にあり、自動車メーカーとしての根幹を揺るがす事態だと大変重く受け止めております。企業風土の抜本的な改革に取り組んでまいります」などとするコメントを発表しました。

■第三者委「認証試験 軽視と言わざるをえない」

一連の不正について、調査にあたった第三者委員会が記者会見を開き「認証試験を軽視していたと言わざるをえない」などと厳しく指摘しました。

委員長を務める貝阿彌誠 弁護士は「不正が発生した大きな原因は、過度にタイトで硬直的な開発スケジュールの中で車両の開発が行われ、『認証試験は合格して当たり前』という強烈なプレッシャーがあったことだ。認証試験を軽視していたと言わざるをえない。まずもって責められるべきは現場の従業員ではなく経営幹部であると考える」と述べました。

報告書での指摘内容 原因や再発防止策は
第三者委員会の調査報告書によりますと、新たに見つかった不正は、衝突試験のほかに排ガスや燃費の試験なども含まれて、装置の不正な加工や交換、速度の改ざんなどがあったとしています。

【事例】
具体的には、
▽エアバッグについて衝突試験では、本来、衝突をセンサーで検知し、エアバッグを作動させる必要があるにも関わらず、タイマーによって作動させていた事例がありました。

▽衝突時の衝撃試験では、運転席側のかわりに助手席側の試験結果を使用していた事例がありました。

【原因・背景】
報告書の中では、一連の不正の原因に経営の問題があると指摘しています。

▽短期間の開発が会社の存在意義として根付き、過度にタイトで硬直的な開発スケジュールによって現場が極度のプレッシャーを受け、「認証試験は合格して当たり前」という環境にあったこと

▽現場任せで管理職が関与しない態勢で職場環境がブラックボックス化し、チェック体制が構築されていなかったこと

▽過去から踏襲されたグレーな方法として漫然と現場で繰り返されていた不正行為があり、「技術的には問題なければ法規上も問題ないはず」というような法規適合性について正確な知識や理解が不十分であること

▽開発日程に余裕がない中で認証試験を軽視し、不正確な情報を記載してはならないというごく当たり前の感覚を失うほどコンプライアンス意識が希薄化していた、などと指摘しています。

こうした現場の実情を管理職や経営幹部が把握できなかった背景には、
▽現場の実務や状況に管理職が精通しておらず、現場サイドから報告や相談ができない現場任せの対応になっていたこと

▽開発や認証のプロセスにおけるチェック体制が構築されておらず、モニタリングに問題があったことなどが指摘されています。

こうしたことから、短期開発の強烈なプレッシャーの中で追い込まれた従業員が不正行為に及んだもので、今回の問題でまず責められるべきはダイハツの経営幹部だとしています。

そのうえで、低コストで良質な自動車を提供するために短期開発を会社らしさと捉える経営方針の中で、組織内のゆがみや弊害を察知する経営幹部のリスク感度が鈍かった

以下全文はソース先で

ダイハツ

NHK 2023年12月20日
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231220/k10014293451000.html

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寒気の到来で知る「寒さと暖かさの優劣」

私が「地球温暖化論」を軽蔑する所以である。暑さより寒さのほうが生存に不適であるのは言うまでもない。地球温暖化は、それが事実なら人間の生存領域が広がる「恩恵」なのだ。
まあ、化石燃料の独占ができないDSが、世界のエネルギーを化石燃料から原子力に換えようと画策したのが「地球温暖化論」だろう。馬鹿そのものであり、愚論の極みだ。
そもそも、エネルギーとは熱なのであり、すべての生物は熱を失うことで死滅に向かうのである。固有体温がゼロ(正確には気温と同じ温度。水死体なら水と同じ温度)になれば、死体だ。人類がこれまで寒さや雪の克服にどれだけ苦労してきたことか考えれば、温暖化こそ天恵だと言えるが、残念ながら「温暖化」は無い。地球は確実に冷却に向かうのであり、それは地球の熱源である太陽そのものに寿命があるからだ。
どうでもいいことだが、今は地質学的(?)には「間氷期」であり、これから氷河期に向かうのもほぼ確実だろう。つまり、地球はこれから寒冷化していくのであり、温暖化は無い。たとえ暖かい冬があっても、そういう時は寒い夏になり、飢饉が起こるだろう。
「アシモフの雑学コレクション」に書いてあるが、「氷河時代になるのには気温の急変を要しない。例年より冬がやや寒く、夏もやや涼しい。雪が溶けずに増えてゆくことで十分」「太陽からの熱が2パーセントほど減った状態が続くと、すべての海が氷となる」らしい。
我々は温暖化よりも、寒冷化に備えるべきだろう。まあ、今すぐという話ではなく、たぶん数百年も先の話だが、江戸時代が今より寒かったらしいことを考えると、小さな寒冷化の周期は案外短いようだ。

(以下引用)




【天気・大雪情報】北海道、北陸、近畿、中国、九州で「大雪」警戒…予想降雪量「70センチ」も 九州南部の平地でも積雪か【22日にかけての各地の予想降雪量】


配信

山陰放送



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私の少しヒステリックな食糧安保論

江戸時代を賛美する連中がいるが、私は正反対である。封建時代というのは、完全に階級社会で、階級の最下層の人間(主に百姓。エタ非人は、その体制を糊塗するための存在だ)は奴隷と同じ一生だったと私は見ている。そして、その階層から抜け出すことはほぼ不可能で、百姓をやめたら無宿人や犯罪者として生きるしかなかったのである。武家社会は言うまでもなく、大商人の店や寺院の中ですら階級社会だったと私は見ている。(現代も同じだ、という意見はさておく。問題は百姓という下層階級のことだ。現実は「士農工商」ではなく「士商工農」だった。)

私が一番癪に障るのは、当時の為政者たちの無能さである。武力で支配するだけで、百姓の生産能力を向上させ、しばしば起こる飢饉から人民を守ることができていない。(「お布施米」が可能だったのは、武士階級が、少ない人数のくせに四公六民や五公五民という過度な年貢米を取り上げ、備蓄があったからだ。百姓は種籾以外は備蓄する余裕などなかったのである。)つまり、「新発見」や「改革」は体制の崩壊につながるから危険視され、科学がまったく発達しなかったわけだ。

私は現代人の健康志向からの、農薬や化学肥料の使用を犯罪視する思想を危険思想だと思っている。農薬や化学肥料によって、安定的な農業生産が可能になったのだから。
それ以前は、宮沢賢治が「雨ニモマケズ」の詩(彼の遺言と言っていい)で書いた「寒サノ夏ハオロオロ歩キ」が日本の農業の常態だったのだ。これは、日照不足による飢饉を意味している。昭和前期までそうだったのだ。第二次大戦の敗戦によって欧米から化学肥料や農薬が多量に輸入されるようになって日本は初めて安定的な農業生産が可能になったのである。
ついでに言えば、昭和前期でも飢饉のために娘を身売りさせることが頻繁に行われ、そうした世相への怒りが515や226の原因のひとつであった。
さらに遡ると、江戸時代の飢饉はもっと悲惨で、ひとつの村が全員死んだところもあり、そうした村では食料が無くなると人肉を食った。まず老人や子供という「非生産年齢」の者が食われ、最後は全員が餓死するか自殺したのである。
何が言いたいか。「食糧(食料)生産を軽視する国に存在(生存)資格はない」ということだ。アメリカやイギリス、そして現在の日本がそうなりつつある。
誰かが書いていたが、食糧とは実は「水からできている」。その生育に膨大な水を必要とするからだ。水資源大国である日本が他国から食糧を輸入するとは、他国の国民の貧しい水資源を奪っているということなのである。これはほとんど犯罪行為である。

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なぜ資本主義社会の最底辺層の人間が社会主義・共産主義を憎悪するのか

東海アマ氏の最新記事

2023年12月19日

は、思想的ゴミ溜めと評価するしかない、汚物のような記事だが、まあ、それは私の判断だから、自分で読んでみればいい。
問題は、資本主義社会の最底辺にいる、そしてネットをよく利用しているアマ氏のような人間がなぜ社会主義、あるいは共産主義をこれほど激しく憎悪するのか、ということだ。もちろん、それは氏の依拠する情報源が西側マスコミ発の(中国発と自称する「大紀元」なども含め)「加工され、捏造された情報」がほとんどだからだろうが、それだけではない、「精神分析学」的な理由がありそうだ。

実は、資本主義社会の最底辺にいる人間で、共産主義(あるいは社会主義)を激しく憎悪する人間はかなりいるようで、私の周辺でも、長い間の友人がそれであることをこの前初めて知った。
つまり、「奪われる物は鎖しかないプロレタリアート」そのものが、共産主義や社会主義を憎悪する、という例はかなり多いというか、むしろそれが普通であるようだ。それがマルキシズムの「悪影響」だというのが私の意見だが、それは置いておく。

で、その原因を私なりに考えてみると、それは「共産主義(社会主義)」は自由の無い社会だ、という思想、あるいは思い込みによるのではないだろうか。つまり、社会の最底辺の乞食であっても、自由なほうがいい、という思想である。(乞食が自由だとは私は思わないが)
「自由絶対論」は、それはそれで思想としては自然というか、人間性の本能に基づくというか、社会にはびこる思想ではあるが、果たしてロシアや中国が「奴隷社会」なのかどうか、資本主義国家の人間がどうしてわかるだろうか。西側マスコミも資本主義擁護前提の記事しか書かないし、それに反する論は「陰謀論」扱いされるのに。
ちなみに、中国もロシアも「資本主義」国家であり、社会主義でも共産主義でもない。中国の場合は共産党の一党支配という特殊な政治体制だが、経済的には資本主義であり、ただし、行き過ぎた「経済的犯罪行為」には政府からの指導や抑制がかかるというところが「社会主義的」であるだけだ。

結論を書いておく。精神分析的に言えば、「資本主義社会の最底辺層が共産主義や社会主義を憎悪する理由」は、一種のダンディズム、あるいは「酸っぱいブドウ」的な発想だろう。つまり、「俺が敗残者であるのは俺自身の責任であり、それを社会のせいにするほど俺は女々しくない。」「社会主義というブドウは酸っぱいに決まっている。それを知っている俺は賢い」というわけだ。つまり、何が何でも自分を肯定したいという自己愛のなせる業(わざ)だ。まあ、マチズモ(マッチョ主義・筋肉主義)と言ってもいい。だが、そういう虚勢が、社会の腐敗を延々と続け、あるいはほぼ永遠に腐敗社会を存続させるのではないか。





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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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