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手紙配達者(文づかい)5


私とメエルハイムはひとつ部屋で、部屋は東向きである。ムルデの河波は窓のすぐ下の礎石(いしずえ)を洗って、向こうの岸の草むらは緑がまだ色褪(あ)せず、その後ろの柏(かしわ)の林に夕靄(もや)がかかっている。流れは右手の方で折れ、こちらの陸が膝頭のように出ているところに田舎家が二、三軒あり、真っ黒い粉挽き車の輪(注:水車の輪か)が中空に聳(そび)え、左手には水に臨(のぞ)んで突き出した高殿の一間があり、このバルコニーめいたところの窓が、眺めているうちに開いて、少女の頭が三つ四つ、おり畳(かさ)なってこちらを覗いていたが、白い馬に騎(の)っていた人はいなかった。軍服を脱いで丸テーブルの傍へ寄ろうとしたメエルハイムは、「あちらは若い婦人たちの部屋である。失礼ながら、その窓の戸を早く閉ざしてはもらえないか」と私に頼んだ。

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因果応報思想の凶悪性

「神戸だいすき」記事の一部で、途中省略。批判的意味での引用である。
神戸だいすきさんがどういう教団に入っているのか、これまで分からなかったが、もしかしたら、文中にある「桐山靖雄」の教団だろうか。昔、マスコミにかなり登場していた(宣伝が多かった)教団である。まあ、私の目からはかなりいかがわしい人物であるが、その護摩行だとか何だとかには信奉者が多いようで、プロ野球の金本とか新井などがやっていたのではないか。
下の記事内容についてはいちいち書かないが、一番まずいのは、現世での不幸を「自分もしくは先祖の悪行の報い」としていることだ。とすると、病人や精神異常者、あるいは事故の被害者は「お前、もしくはお前の親が悪行をした結果だ」となる。これは最悪の思想だろう。

(以下引用)

神も仏もないものか!というけど、「神」は、「慈悲」ではなく、私情なんかありません。
悪人は悪の報いを受ける。
ひどいことをしたら、ひどい報いを受ける。それは自然の摂理であって、変更してはいけない。

私は、奈良の春日大社の葉室宮司のお話をわざわざ聴きに行ったけど、まあ、切るわ斬るわ、「悪人は死ねばいい。死んでくれ!」と、連呼してた。

仏教をやる私としては「これが神道なのだ」と、思った。

すべて自業自得、すっきりしたもんじゃないか。

正直、悪人が罰に当たって、滅びるのは、そりゃあ、いいことだけど、見てると、正直者ばかりが馬鹿を見てる気がするものね。

正直者とはいえ、何の悪業も起こさない人間はいないから、小さなごみみたいな罪を、小さく償っているんだろうね。
大悪人は、そうはいかない。悪人のくせに栄えると、のちの報いは恐ろしい。
なかなか、短期間では見届けられないけどね。

私みたいに、120年続いた暖簾を降ろした家に生まれると、商売がうまくいかなくなると期を同じくして、子孫の不幸がのきなみ。

まさに桐山靖雄氏の言う通り、まず、家族間の不和がおこり、病気が追い打ちをかけ、最後、精神異常者だらけになる。
でも、まだ、うちは、商売における犯罪とか、大事故を経験しなかっただけでも幸福だったと思う。

(中略)

私なんかは、生きるも死ぬもすべて預けた神仏があるから、

だから、無事だとか、免れるというのではありません.
でも、大難は小難に、小難は無難に、

見えない存在には、不思議なパワーがあります。

あれを、どう説明したらいいのかわからない。
同行二人っていう感じかな。
見えない何かが、そばにいる感じ。

よく「教団には属さないけど、信仰心はあります」という人るでしょう。

では教団に所属すると、どう違うかというとね。
教団には、指導者がいるよね。
この指導者の教義や、行い、徳力に応じて、見えない世界が応援する。つまり、神々は「争わない」(正義かどうかより、争わない方が好きなのよね)「正直」「自分より他を先にする」(そもそも自分と他人は、実はひとつだから)「清浄」「ほほえみ」「明るさ」

そういうのが好きだから、そういうことをちゃんと、教える人を助ける。徳がおおきければ大きいほど、助ける神々の数が多い。
そして、教団の守護霊団が、所属教徒を助けてくれる。

これは、響きあいだから、なかなか守護霊団とつながるのも簡単じゃないよ。

けど、つながることができるとね、守られる。

日々、守られていることを実感する。

まあ、もう、これ以上、生身の人間としては、できることはないと、私は思っている。

それでも、災いはゼロではないよ。

生きるのは険しい道を行くことで、その険しさは、自分を磨いてくれるから。必要な苦労なのよ。

地図もない道を歩いていると思うだろうけど、みんな何らかの守護神を持っているから、それなりに導かれているよ。

問題は、よくない教団にはいっちゃったときよね。守護霊団そのものが、邪神だったりする。入信して教団施設に入るなり、気が狂った人もいたらしいから。教団は選ばないとね。

でも、それもまた因縁だから。

ま、死んでも命はあるんだから、いいじゃん。

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心が繊細なばかりに僕はすべてをふいにした(ランボー)

私は男で恋愛音痴なので、前に書いた(「アイズ・ワイド・シャット」に関して書いた)恋愛論がアホ極まるものだろうとは思うが、男と女で恋愛に対する姿勢がまったく違うのは断言していいと思う。
下の記事は映画評論ブログを書いているfragileさんの「500日のサマー」評の一部だが、私はもちろんこの映画を見ていない。恋愛を遊戯視する女性はまったく趣味に合わないからである。そして、原題「500days of Summer」を映画配給会社が「500日のサマー」という日本語題にしたのは愚の骨頂だと思う。これは明らかに「サマーの500日」とすべきである。サマーが人名であることが明瞭になるし、原文の英語の正確な訳でもある。あるいは意訳だが「サマーとの500日」と、男性の立場から訳すのもいい。下のfragileさんの恋愛観には私は男への絶望とニヒリズムを感じる。

注:fragile(壊れやすい、繊細な)

(以下引用)


私はよく恋愛をパフェに例えます。


私は恋愛をパフェのようなものだと思っていて、上の方の、キラキラして華やかで果物がきれいに乗っている、おいしいところだけを食べているのが一番良いと思っている。パフェは下の方もまあおいしいが、だんだん色んなものが混じってしまってコーンフレークでごまかされた気もしてしまう。(略)これはもうどうしようもないことだ。パフェの上の方だけ食べて生きていくことはできない。


花束みたいな恋をした/私のような貴方との恋 | 映画感想 * FRAGILE


サマーは私と同じで、恋愛のキラキラした美味しいところだけ食べていたいんだと思います。関係に名前がつき、第三者から恋人同士と認識され、次第に将来のことを考えたりしていくうち、それが破綻してしまうのを嫌がっているのではないのかなと。そうだとしたら、彼女が思わせぶりな態度ばかりとって、キスやセックスやちょっとした「好き」という言葉でトムを束縛していくことに不思議はないんです。深入りせず、美味しいところだけ楽しむ。享楽的と思えますが、そうすることで自分を守っているんだとも思うんですよね。


最後のほう、「サマーが他の人と結婚したことをわざわざ改めて報告する理由がわからない」と言われたことがあります。これは私はよく分かる話で、この場合の私の立場はトム側なんですよね。


一時期、男性の友人が結婚する直前に私に会いたがって、食事をしたひとが2〜3人いました。そういうふうに会った人の中で、今も良好な友人関係を続けていられている人はいません。このことについて「RPGをやっているとき、ラスボス戦直前に『そういえば、最初の村にあった宝箱には何が入っていたんだろう』って思って開けに行くようなものですよ」と言われ、爆笑しながら納得したことがあります。私が男性の気持ちを慮ることがなかったように、一部の男性は私の気持ちを慮ることがなかった。お互い様だと思いますね。

(夢人追記:今回のブログタイトルはもちろんfragileにかけたものだが、その元ネタはランボーの「最高の塔の歌」である。下の壺斎氏の訳は今ひとつだが、借用しておく。)


 至高の塔の歌:ランボーの恍惚

  俺は爛堕な小僧
  何にでも夢中になり
  余りにナイーブだったせいで
  人生を無駄に使い果たした
  おお!時よ来い
  恍惚の時よ来い

  あるがままであろう
  誰にも見られずにいよう
  約束などせずに
  きままに行動しよう
  何者にも邪魔されず
  堂々と振舞おう

  辛抱ばかりしたために
  何もかも忘れてしまった
  恐れも痛みも
  空の彼方に吹き飛んだ
  得体の知れぬ渇きが
  血の流れを鈍くする

  かくて草原は
  忘却に引き渡され
  かの地で花開く
  乳香やエンドウの花を
  おびただしいハエたちが
  群がって飛び回る

  千の死別も
  貧乏人たちには
  聖母の像のほかには
  見守るものもない
  処女マリアのために
  人は祈りうるだろうか

  俺は爛堕な小僧
  何にでも夢中になり
  余りにナイーブだったせいで
  人生を無駄に使い果たした
  おお!時よ来い
  恍惚の時よ来い

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手紙配達者(文づかい)4


 四方の壁と丸天井には、鬼神竜蛇さまざまの形を描き、長櫃(ながびつ)めいたものをところどころに据え、柱には獣の首を刻み、古代の盾や剣槍などを掛け並べた部屋をいくつも過ぎて、階上に導かれた。
 ビュロウ伯は普段着と思われる黒の上着の寛(ゆる)やかなものに着かえて、伯爵夫人とともにここに居り、以前から相識の仲なので大隊長と心良さそうに握手し、私をも引き合わせて、胸の底から出るような声で自ら名乗り、メエルハイムには、「よくいらっしゃった」と軽く会釈した。夫人は伯爵より老いているかのように起居(たちい)が重かったが、心の優しさが目の色に出ている。メエルハイムを傍に呼んで、何であろうか、しばしささやくうちに、伯爵は「今日の疲れがさぞあるだろう。退出してお休みなさい」と、人を使って我々を部屋に案内させた。


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男の子と女の子

「隠居爺の世迷言」から記事を全文転載。まあ、部分転載でもいいが、どこもカットしにくい。新コロ関連の部分をカットしてもいいかな、とは思う。それこそ耳タコの話題だからだ。しかし、恋愛や男女関係に関する男の子と女の子の違いはかなり重要だと思う。
昔、郷ひろみが「男の子女の子」という歌を歌ったが、そこでの男の子は女の子との違いが無かった気がする。要するに、男と女の区別なく仲良く遊ぼう、という幼稚園みたいな世界だったというかすかな記憶があるが、真面目に聞いたことがないので、怪しい記憶である。
問題は、セックスである。セックスは女性には妊娠につながる重要問題なので、早い年齢から真剣に恋愛とセックスについて考えるのではないか。そこが女性の早熟性の土台だと思う。ところが、男の子の場合、セックスとは早い話が「穴があったら入りたい」、いや、「穴があったら入れたい」だけで、射精したら性欲は一時に冷める。つまり、生殖や妊娠への責任感というのはほぼゼロなのである。頭で知っていても現実感は無い。そこが恋愛やセックスにおける男の子の幼稚さになるのだろう。
下の記事で隠居爺氏が最初に「シェーン」を見た時、まったく理解できなかったというのはよく分かる。「男の子」でそれが理解できるほうが異常だろう。私なども、シェーンが居候先の奥さんに恋愛感情を持ち、奥さんも同様であるのを見て「汚らわしい」としか思わなかった。まあ、「汚らわしい」と思うだけ、(フィクションに接することで)恋愛について少しは知識らしきものがあったのだろう。「シェーン」が恋愛映画である、あるいは「精神的よろめきドラマ」である、というのはこの映画の本質を突いている。だが、たいていの「男の子」は酒場での乱闘や最後のジャック・パランスとアラン・ラッドの決闘シーンにしか面白さは感じないのである。(たいていの「男の子」にとって娯楽作品での「女の子(ヒロイン)」は、まったく邪魔な存在であり、むしろ映画をつまらなくする存在だったのだ。「エバンゲリオン」など恋愛や男女関係が重要な要素であるアニメは、作ったのももてはやしたのも「大人」世代だったのである。)

(以下引用)

 人間は人それぞれで、見えているもの、見えていないものが違っている。ある人には見えているものが、別の人には見えていない。ある人には見えていないものが、別の人には見えている。厄介といえば大変に厄介だけれども、そのせいで面白いことも生じる。

 男女関係などというものは、私にはさっぱり見えない。多分、"男の子"には男女関係などという概念が存在していない。まあ、少なくとも私の場合はそうだった。

 例えば、高校1年生の時の英語の副読本が「シェーン」(
Shane:1953年のアメリカ合衆国の西部劇映画)だった。その時の英語の先生が津田塾を出てそれほどたっていない若い女の先生で、とても熱心に「シェーン」を解説してくれた。映画も見ていて、それをもとに情景描写をいろいろしてくれた。女の人だから、男女関係の機微などは若くても分かっている。

 しばらくたって私も「シェーン」を映画館で見たけれども、これがまあ、今思い出しても笑ってしまうくらい意味を理解できなかった。見てはいても、一つ一つのシーンに意味を見いだせないんだよねえ。「ずいぶんつまらない地味な西部劇」というのがその時の感想の全て。まあ、知的障害レベルだったと思う。

 そんな私も、結婚して、子供もできて、そんな経過の中で鍛えられるというか、指導されるというか、いじめられるというか。知的障害なりに男女関係が見えてくる。30歳も過ぎてからテレビで放映されたシェーンを見てぶったまげた。「え〜っ、これってよろめきドラマなの??」

 何年か前にチラ見したところ、その他にも、開拓、農民、男同士、権力、武力、戦い、そんなものもいろいろ描かれていることが見えたような気がする。

 私は夏目漱石が好きなのだけれど、夏目漱石に関しても同じだった。高校生の頃からずいぶん熱心に読んでいたのだけれど、全く意味が理解できていなかった。ここが夏目漱石の素晴らしいところで、全く意味の理解できない高校生が読んでも、何かしら引かれるところがあって読みふけったのだから。

 おそらく夏目漱石も元来は何も分かっていない男の子であって、その男の子が"男の子言葉"で男女関係を表現するとどうなるのか、そんなチャレンジをしていたのではないかと思う。未知のものを意識化できるように言葉に置き換えるというのは、題材が男女関係であっても純文学になる。

 まあ、そのようなことは、ごく平和な小市民的な生活を送っていた、ごく平凡な男である私に訪れて何の不思議もないことだけれども、3年半ほど前からの新型コロナ騒動では、ずいぶん物騒な形で「見える、見えない」が問題となっているように思う。

 どうも私は日本人の中で、新型コロナに関しては相当に見える方らしい。これは生まれ育って、仕事や子育てをする中で、偶然にそれが見えるような訓練をされる環境に置かれたためらしい。私にすれば、「そんなこと見れば分かるだろうに」ということが、ほとんどの日本人には見えないようだから。

 私は医学関係の専門家ではないので、その方面での訓練は受けていない。つまり、新型コロナやワクチンが見えるか見えないかは、医学とは直接関係がないことのようだ。実際問題として、政府やテレビなどで影響力を及ぼしているような専門家の中でも、見えているけれども嘘をついている人と、見えていない人の両方がいるように思う(その区別をつけるのは難しいけれど、おそらくその多くは尾身会長をはじめ見えていない)。

 見えているけれども嘘をついている人は放置しておけばいい。分かっているのだから、あとはその人の人間性の問題になる。問題は見えない人、見ていない人になる。そのような人をどうするかは大変に難しい。多分、教えてやったから理解できるようになるというものでもない。

 それはちょうど「シェーン」の映画で、アラン・ラッドにポーッとなっている奥さんについて、高校1年生の私にどうやって理解させるかと同じ問題になる。第1に関心がない、第2に理屈で分かったところで感情的に意味を持たない。

 分かるためには人間的な成長、人格的な成長が必用になるわけで、要するに分かるようになるまで分かるようにはならない。

 まあ、おそらく為す術のないことなのだろう。500年前のアメリカに行って、「白人は凶悪な人種だ。あなた方を騙して滅ぼそうとしている。」とアメリカインディアンに説得して回ったところで、歴史を変えることはできないだろう。

 30年後、50年後、100年後、日本人はアメリカインディアンと同様の末路をたどっている可能性がかなり高い。少なくとも、現在の政府・自民党から見えてくる景色はそのようなものになる。あなたにはそれが見えるだろうか。


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「ライオンハート」と「そして二人だけになった」

恩田陸の「ライオンハート」と森博嗣の「そして二人だけになった」を続けて読んだが、どちらも筆力は凄いと思う。前者はタイムトラベルSFの一種だが、「ジェニーの肖像」や「たんぽぽ娘」のようなラブロマンスSFで、どのようにしてタイムトラベルするのかという理屈はない。(肉体ではなく)同じ魂が異なる時空を彷徨う話であり、歴史SFという面もある。幾つかの話が長編を作って、話によって出来不出来もある。初代エリザベス女王の話などは、「同じ魂の彷徨」という点では場違い感もある。最大の難点は、恩田陸の作品には多いが、作品タイトルが作品内容にまったく合わないことである。ラブロマンスに「ライオンハート」という題名ほど似合わないものもないだろう。ライオンハートとは「勇猛心」のことであり、「リチャード獅子心王」の「獅子心」をたいていの人は連想するはずである。まあ、ブリティッシュロックの曲名から取ったらしい。歌い手はケイト・ブッシュとか何とか言うらしいが、私はまったく知らない。そして、この小説を読む読者の多くも知らないだろう。しかし、繰り返すが、作品世界を徹底的に作り上げる恩田陸の才能は凄いし、作品自体は傑作だと言っていい。
森博嗣の「そして二人だけになった」は、推理小説としてはかなり問題作で、悪い意味での問題作だろう。「犯人は宇宙人でした」というアレよりもひどい、「推理小説の根本を否定する推理小説」である。そもそも、謎の解明がまったくされない。いや、それらしき事は書かれているが、作中のさまざまな謎のほとんどは放り出しの投げ捨てである。あれだけ長い話を読ませるだけの筆力は凄いと思うが、推理小説としては最高に最低だろう。まあ、推理小説を単なる時間つぶし程度に思っている人には最適な時間つぶしにはなるだろうが、読んだ後の徒労感(時間を無駄にした感)が凄いので、あまりお勧めはしない。一言言っておけば、「超人思想」の話、詳しく言えば「科学者は最高に偉い。だから、凡人を全員殺す権利がある」というような話で、そういう話が好きなら読むといい。話と無関係に出て来る作中の科学者の思想は、作者森博嗣の思想そのものだと思う。単純化すれば、偏差値70(IQ150)以下の人間(女には稀に「恩赦」があるがwww)には生きる価値が無い、みたいな思想である。人類の進歩のためには人類の9割は死んでもいい、みたいな思想とも言える。


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手紙配達者(文づかい) 3

こう二人が話をしている間に、道はデウベン城の前に出た。庭園を囲む低い鉄柵を右左に結うような砂利道が一筋に長く、その終わるところに古びた石門がある。入ってみると、白木槿(むくげ)の花が咲き乱れた奥に、白亜(白土)を塗った瓦葺きの高殿がある。その南の方に高い石の塔があって、エジプトのピラミッドに倣(なら)って造ったと思われる。今日の泊まりのことを知って出迎えた、制服を着た下僕に案内されて白い石の階段を上ってゆく時、庭園の木立を洩れる夕日が朱のように赤く、階段の両側に蹲(うずくま)る人頭獅子身の「スフィンクス」を照らした。私が初めて入るドイツ貴族の城の様子はどうであろうか。先ほど遠く眺めた馬上の美人はどのような人であろうか。これらも皆、解くこともできない謎かもしれない。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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