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読書についての断想

「谷間の百合」さんが、多読家でありながら物事の本質が見えない人のことを書いていて、面白く思ったが、読書というものは本来、人間にとって危険なものでもある。昔から「本に読まれる」と言われてきたのがそれだ。
惑溺的な読書習慣は、ただの喫煙や飲酒と同じことであり、何も褒めるに値しない。
ショーペンハウエルの言葉を借りれば、読書とは、基本的には「自分の頭を他人の思想の運動場にする」ことでしかないのである。その状態があまりに長く続くと、「本に読まれる」人間の出来上がりだ。
しかしまた、書物の中には、現実以上に素晴らしい世界もあり、それは現実人生ではけっして味わえないものだ。おそらく、楽譜が読める人には、楽譜の中に音楽そのものがあるだろうし、数学の論文の中に美を見出す人もいるだろう。それらは、それを読むスキルのある人にしか味わえない世界だ。小説だって同じことである。
私には或る種の文学(現代文学の類)は「読めない」し、読む気も無い。また、昔の作家の作品も、こちらの力量不足で読めないものが多い。泉鏡花や幸田露伴の文章がスラスラ読める人は羨ましい。これらは、読めればその中に素晴らしい宝があることは確実なものだ。森鴎外や夏目漱石なら、読んでたいていは理解できるが、漱石の「真面目な作品」は、最初から読む気が起こらない。鴎外の史伝も読めば面白いのかもしれないが、まだ読んでいない。やはり、人間は易きに就くものだから、そうした「読むのに努力の要る本」はなかなか手が出ないのである。練習をしないと楽器が弾けないようなものだ。弾ければ、人生の楽しみが増えることは確かなのだが。

現代の多くの人にとって読書の目的は「情報収集」か「娯楽」のどちらかだろう。昔は「教養のための読書」という考え方があったが、物知りだから教養がある、というものでもない。テレビのクイズ番組のチャンピオンは物知りだが、彼らに「教養」があるとは思えないだろう。
まあ、教養とは何ぞや、という話になるとまた話が長くなるから、この辺までで駄弁は終わろう。


スタインベックが、「『罪と罰』(を読む)という体験は、その人の在り方そのものを変える」という趣旨のことを言っているが、優れた文学はそういう力があり、それは危険なものでもある。たとえば、昔は、太宰治を読んで太宰治的(クズ)人間になった文学青年が多かったようだ。しかし、これも太宰治の一面的理解によるものであって、「正義と微笑」や「パンドラの匣」、「女生徒」など、向日的でユーモラスな作品もまたその一面なのである。「人間失格」など、あまり青少年の読むべき本ではないだろう。漱石ならば、「こころ」よりも、「草枕」の冒頭部分の方が教科書に載せるべきものだ。あの調子のいい名文は、言葉(日本語・国語)の面白さを子供たちに教えるだろう。

















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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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