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「村上春樹」小論

「谷間の百合」ブログの一節だが、村上春樹作品を「1ページも読めなかった」というのは面白い。私も、以前はそうだったし、今もそれに近い。才能は素晴らしいと思っているが、彼の本当の才能はファンタジー的な造形力にあるのではないか。で、そうでない、「リアル」寄りの作品だと、頭の中で作り出した「お洒落な」装飾品(あるいは不自然な「人形劇」)になるので、読む側の一部の人たちはそれ(嘘くささ。或る種の不誠実さ。その不誠実を隠した欺瞞性や偽善性。)を最初に感じ取って拒絶反応が出るのだと思う。そこが、ドストエフスキーなどのように、「心の底から」人間や社会や世界を切実に感じ取り、どうしようもない衝動に動かされて小説を書いてきた作家との違いだろう。

ちなみに、私は村上春樹と「小説的趣味」が似ていて、フィッツジェラルド、カポーティなど、「都会的な」作品の「匂い」は好きだが、それらの小説は「読まなくても分かる」という感じで、実際に読んだ作品は少ない。読まなくても分かる、というより、「分かる気がする」だけだが、その「気がする」ことが重要なので、何かを好きになるにはそれで十分なのである。いや、読まないほうがむしろいいかもしれない。読まないであれこれ想像する楽しみがあるのだから。

村上春樹は荒井由実(松任谷由実)に似ている気がする。都会的な洒落た感じ。あまりに巧みなので、それを言語化した人はいないと思うが、現実から遊離したファンタジー的な(あるいは工芸品的な。ロココ的というか、装飾的な)美しさ、である。そこが美点であり、嫌う人たちからは嫌われるところだろう。
ちなみに「魔女の宅急便」は、都会に憧れる田舎娘が上京していろいろ経験する話である。だから、その冒頭に荒井由実の「ルージュの伝言」が印象深く使われるのは自然なわけだ。

言うまでもないが、私は「作り物」を排する気はまったく無い。すべての芸術作品は作り物なのだから。ここでは、ただその「匂い」を論じているだけだ。調理人が作った見事な料理に、うっかり落とした香水のような匂いの話をしているのだ。その点では荒井由実のほうが「私はお金持ちの世界を描いているのよ」と最初から宣言しているようなものだから、宝飾品に香水がついても何も問題は無いのと同じである。しかし、小説は「人間(田舎の人間や庶民を含む)」や「人生」という生き物を細かく描くので、作為性(文体自体も含めてだ。)が目立つと不利になることもある。これが村上春樹作品が或る種の人々を倦厭させる理由だろう。

(以下引用)
いつだったか、勉強の仕方が分からないと言って娘を驚かせましたが、ついでに言えば、小説の読み方もわかりません。
村上春樹さんの小説がたくさんの愛読者を持つ秘密を知ろうと思って挑戦するのですが、1ページも読めませんでした。
情操のどこかに欠陥があるのかもしれませんが、でも、ドストエフスキーは読めるのです。

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酔生夢人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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