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運命(10)

天の命令か、時の運勢か、燕王の胸中に暴風の源が沸き起こり、黒雲が飛び、張玉、朱能らの猛将、梟雄、眼底に紫電ひらめいて雷火が発しようとする。燕府こぞって殺気が漲り、それに応じてか天に狂風暴雨が突然に起こる。奔騰狂転する風は、猛打乱撃する雨を伴って天地を震撼し、樹々や石を動揺させる。燕王の宮殿、堅牢ではあったが風雨の力の大きさに高閣の瓦が吹かれて空に翻り、地に落ちて粉砕する。
大事を挙げようとする時に当たって、これは何の兆しか。
さすがの燕王も顔にこれを憂える色がある。
風声雨声、竹の折れる音、樹の裂ける音、物凄まじく天地を睥睨して、宮殿には誰ひとり声も無く静まりかえっていた。
その時、道衍、少しも驚かず、「ああ、喜ばしい吉祥であるなあ」と申す。
もともとこの異僧道衍は、死生禍福の巷に迷うような未熟者ではない。肝に毛の生えた不敵の男であるから、先に燕王に勧めて事を起こさせようとした時に、燕王が「彼は天子であり、民心が彼に傾くのをどうするのか」と言うと、昂然と答えて「臣は天道を知る。民心を論じるまでもない」と言ったほどの豪傑である。
しかし、風雨が宮廷の瓦を落とす不吉さを「ああ、喜ばしい吉祥である」とはあまりに無理な言葉と思えたので燕王は「和尚、何を言うか。どこが吉祥なのか」と罵ると、道衍騒がず、「殿下、お聞きになられたことがないのであろうか。飛竜、天にあれば、従うに風雨をもってすと。瓦が落ちて砕ける。これは、我が宮殿の瓦が黄色い瓦に変わるということです」と、泰然と答えたので王も眉を開いて喜び、衆将もみなどよめいて勇み立った。彼の国の制、天子の宮は黄色い瓦を葺くとなっている。旧瓦は用なし、まさに黄瓦に変わるべし、という道衍の一語は、時にとっての活人剣とも言うべく、燕王宮中の士気を勃然凛然、ただちにまさに天下を飲もうという勢いとさせた。

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運命(9)

燕王は危難が我が身に迫っていることを察し、病を口実に自らの邸に閉じこもって難を避けようとしたが、六月に至り、燕の臣下の謀略を帝に告げる者があって、その臣下ふたりは捕えられて京で誅殺された。帝は詔して燕王を責める。燕王は弁疏不可能と見て精神異常を装うが、帝の臣下はこれを偽りとして、燕王の反逆のための時間稼ぎだとする。また、燕王の臣下某が宮廷に参内した際に、それを捕えて尋問すると、燕王の挙兵計画を白状した。
これをまさに待ち設けていた斉泰は、燕王の信任する部下、張信という者に密勅を送って、燕王を捕えることを命じる。信は、燕王の恩義と勅命との板挟みとなって苦しむが、燕邸に赴き、燕王と面会する。そして、燕王の真意を問うと、王は信に朝廷と自分との齟齬の様を詳しく言う。信もまた朝廷から自分への密勅を王に言う。
ここに至って、急転直下、帝と燕王との事態は決裂した。燕王は道衍を召して、大事を挙行することを決定したと告げる。

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運命「8」

建文元年二月、帝、諸王に詔(みことのり)して、文武の官吏、兵士の数を限定し、官制を変えないようにさせた。これも諸藩を抑える手段のひとつであった。夏四月、西平侯が敏王(敏は当て字)の不法を奏す。よって王を廃して平民とする。また湘王(湘は当て字)の不法を以て、兵をやって捕えさせる。湘王は自ら邸に火を放って死ぬ。斉王、代王もまた庶民に落とされる。

燕王は最初から朝野の注目するところであった。また、威望も財力も抜群であり、彼が終には天子となることを期待する者もあった。また、彼は異能の人や術士を養い、勇士、強兵を蓄えていた。人も彼を疑い、己も行く末を危ぶみ、朝廷と燕と両立不可能な形勢があった。
斉泰、子澄はもとより燕王を許す気はない。たまたま北辺に寇(異民族の侵略)があったのを好機として、防辺を口実に燕藩の護衛の兵に砦から出て王都を去らしめ、その羽翼を取り去り、咽喉を締めようとした。

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運命(7)

「諸王不穏」の流言がしきりに朝廷に聞こえてきたので、一日、帝は子澄を召しなさって「先生、かつての東角門の話を覚えておられるか」と言う。子澄言う「けっして忘れ申しません」と。東角門の話とは、子澄が七国の故事を論じたことである。
子澄は退いて斉泰と議する。泰が言う、「燕は重兵を握り、もとより大志あり。まさに、まずこれを削るべし」と。子澄言う「そうではない。燕はあらかじめ備えていることが長いので、すぐには謀り難い。まず周を取り、燕の手足を斬って、その後で燕を謀るべきである」と。
そこで曹国公李景隆に命じ、兵を整えて素早く河南に至らしめ、周王とその世子、および妃と嬪(正妃以外の妃)を捕え、周王の爵位を削って庶民とし、これを雲南に移した。周王は燕王の同母弟であったため、帝もこれを疑い、周王もまた異心があった。
これは実に洪武三十一年八月のことで、太祖が崩じて幾ばくも月を経ていなかった。
同じ冬十一月、代王(「代」は国名らしい。)の暴虐が民を苦しめたという理由で代王を蜀に送り、蜀王と共に居らせた。

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運命(6)

太祖未だ存命の時において、この道衍のごとき怪僧あって燕王に白帽を奉らんとし、燕王もまたこのような僧を帷幕の中に居く。燕王の心、もとより清からず。道衍の爪また毒あり。
道衍、燕邸に至るに及んで、袁珖(珖の字は当て字)を王に勧む。袁珖は占いをよくし、百にひとつの誤りもない。燕王に見えて言うには、御年四十にして御髭が伸びて臍を過ぎなさるに至れば、大宝位(皇位)にのぼること、疑うべからず、と。燕王笑って言うには、私はまさに年四十であり、また、髭がこれ以上伸びることがあろうか、と。
道衍は、そこで金忠という者を勧める。金忠は若くして書を読み、易に通じる。燕王は忠に卜占させる。忠は卜して卦を得、尊きこと言を絶する、と言う。燕王の意、ここにおいて固まる。

帝の傍らには黄子澄・斉泰あり、諸藩を削減し、封土を奪う意志がどうして止むことがあろうか。
燕王の傍らには僧道衍・袁珖あり、秘謀を醸成することがどうして止むことがあろうか。
両者の間がこうである以上は、風声鶴唳、剣光火影、世はだんだんと乱れていく。

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運命(5)

太祖が亡くなったのは閏五月である。諸王が入京をとどめられて不快に思いながら帰った後、六月に至って戸部侍郎卓敬という者が、皇帝に密疏(秘密の上奏文)を奉った。その内容は、諸王を抑えて禍根を絶つべし、というものである。しかし、皇帝は卓の密疏を受けただけでそれに応じることはしなかった。断行の時機はついに終わった。
ああ、諸王も帝を疑い、帝も諸王を疑う。互いに疑って、どうして相背かないことがあろうか。
帝のためにひそかに謀るものがあり、諸王のためにひそかに謀るものがある。しかも、諸王の中には自ら天子になろうと思う者があるからには、事が決裂しないはずがない。

帝のために密かに謀るものは誰か。黄子澄であり、斉泰である。斉泰は子澄とともに帝の信頼するところとなって、国政に参与していた。太祖の遺勅によって諸王の入京をとどめた際には、諸王は、これは斉泰が洪武帝の遺勅を書き変えて、朱一族の骨肉の情を隔てたものだ、とした。諸王が泰を憎んだのも当然だろう。

諸王のために密かに謀るものは誰か。諸王の雄なるものは燕王である。燕王の近臣に僧道衍(どうえん)という者がある。道衍は僧とはいっても、俗世の欲望から離れた道心の僧ではなく、謀を好み、知略を好むものである。
洪武二十八年、初めて諸王が封国に就いた時、道衍は自らを燕王に推薦して、「大王が臣をお傍に勤めさせてくださるなら、臣は一白帽を奉って大王のためにそれを戴かせましょう」と。
「王」の上に「白」を置けば、それは「皇」の字である。つまり、燕王を明帝国の皇帝にしてさしあげよう、という意味である。

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運命(4)

燕王は太祖の第4子で、威容あり、智勇あり、大略あり、臣下をよく使い、太祖に似ているところが多かったので太祖もこれを喜び、人も或いは彼を次期皇帝として心を寄せる者が多かった。そこで太祖も、彼を次期皇帝にという気持ちもあったが、老臣劉三吾がこれを阻んだ。
三吾が言うには、もし燕王を皇位に立てなさるなら、秦王、晋王をいずこに置きなさるのかと。
秦王、晋王はどちらも燕王の兄である。兄を越して弟を立てるのは長幼の序を乱るものでございます。それでは無事に済みますまい、と。太祖もその道理に頷いて、元のとおりに太孫を皇太孫とした。
太祖の遺詔に言う、「諸王は自国で服喪し、都に来ることが無いようにせよ」とは、諸王が葬儀参列のためにその封土を去って都に来たならば、前王朝元の遺臣や辺境の異民族がその虚に乗じて事を挙げることもあろうかという深い慮りのためだろう。
だが、子供が父の葬儀に出たいというのは肉親の情である。諸王が葬儀に参列することを禁じたその詔は、はたして真に太祖の言葉であろうか。
太祖の崩御を聞いて、諸王は都に入ろうとし、燕王はまさに淮安に至ろうとした時に、斉泰は帝に申して、諸王への勅を発して国に帰らせた。燕王をはじめ、諸王はこれを不快に思ったであろう。この勅は尚書斉泰が帝と諸王を離間させようとするものだと彼らは言った。
建文帝は位に就いた最初から、諸王に不快感を与えたのである。


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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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