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専門家と詐欺師は紙一重

まあ、専門家というのは、最近では素人を食い物にする人種というのが当たり前らしいwww 新コロで表マスコミに出て来る医者とか、原発村の科学者とか、御用評論家とか。
まあ、高い収入を得るために苦労して勉強し、資格を取るのが「専門家」なのだが、詐欺師的な「専門家」が世に溢れると、専門家全体に対する印象は悪化するだけである。それより、ネットで調べて自分で問題を解決しよう、というわけで「学び系ユーチューブ」が流行ることになり、生兵法で自分で危険な作業をして大怪我をする一般人も出て来る。もちろん、「大怪我」は比喩だ。金銭的な「大怪我」もある。下の例は「専門家」によって怪我した例。
とにかく、ここ20年くらいで専門家への信頼は地に落ちた観がある。真面目な専門家には気の毒だが、悪徳「専門家」が跋扈した結果だから、仕方がない。それに、専門家というのは常にポジショントークをするしかない立場だから、嫌々ながらも嘘をつかねばならない場面も多いだろう。新コロ詐欺についても、これが詐欺であることを確信している医学者や科学者、医療界の人間はたくさんいるだろうが、言えないのだと思う。あるポジションに就くということは、それに伴う不幸(悪徳への加担)も存在するわけである。



(以下引用)

嫁が「ジャストアンサー」という法律相談をした。1回500円が引き落とされていて、これなに? へえ安いね。などと話をしていたんだが、翌月5000円が引き落とされた。なんとここはサブスクリプションでずっと毎月請求されて解約は面倒、というひどい話。なるほど法律の悪用が上手(感心してどうするw)


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アジア人が世界を征服していたら、美男美人概念も変わったか

まあ、美はもともと差別が前提だから。それに、世界を支配する人種の基準が世界の観念を支配するのである。
このついでに、西洋的美人概念に抗して胴長短足鼻ペチャチビデブこそ美しいという主張をするのはどうかwwww

(以下引用)

花王、「美白」表現を撤廃 人種の多様性議論に配慮

花王は化粧品の「美白」の表記を取りやめる。3月に発売したスキンケア商品を手始めに今後、全てのブランドで美白の表現を使わない。
米国で起こった黒人差別への抗議運動を受け、外資メーカーが肌の色による優劣を連想させる「ホワイトニング」などの表記を取りやめた。
国内勢で初めて花王が肌の色の多様性に配慮することで同様の動きが広がりそうだ。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQODZ25DD30V20C21A3000000/

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セクシーな時間の使い方

セクシー小泉が一紙でも新聞を読んでいたことが驚きであるwww
10紙取っていても4コマ漫画しか読まない可能性もあるが、「ペリクレス」などという名前が出てきたのは驚きだ。塩野七生が好きなようだが、まあ、自民党の爺さんたちが好みそうな作家ではある。つまり、歴史や社会を「リアリスト」として評論する作家だ。曽野綾子にも似ている。自分やその仲間に都合の悪い事実には目を向けないリアリストwww 歴史を語るぶんにはいいが、小賢しい分、現実政治に口を出すと最悪な人種だ。

(以下引用)

小泉進次郎「新聞を読むのをやめましたね、時間の無駄。習近平やプーチンなら何をするか考えてるんですよ」

1: ペンシクロビル(SB-iPhone) [IN] 2021/03/29(月) 12:10:00.89 ID:bi7nGYFz0● BE:144189134-2BP(2000)
小泉
実はね、新聞10紙を読むの、止めたんですよ。「時間の使い方」を変えようと思って。新聞を読み終わった時、あまりにも残るものが少ないと気づきましたね。だったら、塩野七生さんの本を読んだ方が、時間の使い方としてよっぽど学びがある。

なんのために時間を使うべきか。使わないべきか。本当に考えている。なにをやるべきか。
なにをやらざるべきか。1時間があったら、何をできるんだろうといつも考えています。そうすると、自分の行動原理が変わります。

1時間があったら習近平とプーチンは何をやるんだろうな、アレクサンダーだったら1時間あったら何をやったんだろうか、ペリクレスだったら何を考えていたんだろうな……というふうに。バカみたいでしょ、「何、言ってんだ。この人」と思うでしょ(笑)。でも、本当にそんなことを考えるんですよ。
以下略全文はソースへ
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54068?page=4
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52: ファビピラビル(東京都) [GB] 2021/03/29(月) 12:16:43.35 ID:mI5tpl430
>>1
何をやらないかばっかり考えてそうw



58: テノホビル(大分県) [US] 2021/03/29(月) 12:17:27.85 ID:069TrjaP0
>>1
いや!おまえは読んどけ!
プラスチックの基本事項すら知らんのだから!



92: ビクテグラビルナトリウム(福島県) [US] 2021/03/29(月) 12:23:06.43 ID:3cg0k2140
>>1
そんなのはみんな中2の夏休みとかに済ませてる思考だろ
お前の今やるべき事は政治家をやめる事だと思うぞ?



124: ラニナミビルオクタン酸エステル(東京都) [US] 2021/03/29(月) 12:27:38.44 ID:GgDiYkoT0
>>1
これほんとに言ってんの?



155: リルピビリン(東京都) [FR] 2021/03/29(月) 12:35:09.17 ID:Nv3e3tfP0
>>1
久しぶりに読んで損した気持ちになった( ・∀・)
新聞読んだ方がましだった( ・∀・)



287: イノシンプラノベクス(埼玉県) [US] 2021/03/29(月) 13:04:03.97 ID:quHk2+m/0
>>1
それだけ学を貯めこんで思いついたのがレジ袋の有料化か。バカなのか?



315: リトナビル(兵庫県) [FR] 2021/03/29(月) 13:11:25.16 ID:8JNbblSG0
>>1
新聞10紙を読んでたのに、そんなに見識がないの? ってことにビックリしました

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中国の躍進の理由

ツィート者の名前などまで入れるとコピーできなかったりするので、文章のみ転載。
まさに、「その国を進歩させ豊かにし、人民の支持を得る」のが政府の必須条件。社会主義も実は民主主義(人民の支持を得る)を根本としているわけだ。社会主義と対立するのは資本主義だが、中国は経済では資本主義に移行しながら、社会主義的政治で資本主義の暴走に歯止めをかけている。それが中国の大躍進の根本にあると思う。つまり、私が昔から言っている「資本主義と社会主義の結婚」だ。

(以下引用)


その通り アメリカ政府の勝手な価値観 嘘の「開かれた自由と民主主義」 を押し付けないで下さい 世界800ヶ所にも及ぶ軍事施設を本国に引き上げてからですね 話はそれからでしょう
引用ツイート
宋 文洲
@sohbunshu
·
「他国の政治体制が良いかどうかは米国が決めることではない。その国の実情に合い、その国を進歩させ豊かにし、人民の支持を得ることが基準だ 一年で50万人以上国民を犠牲にし、4万人も銃で死なせ、偽情報でイラクを侵略し数十万の民間人を死なせる国は民主主義と人権を語る資格がない」中国外務省

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時代や状況の変化と「言葉の保守性」

tanuki氏の知性と教養が伺えるコメントだが、これに関して、あまり誰も指摘していない日本語の欠陥をひとつ書いておく。
それは、「顔見知り、特に仕事仲間に対し、午後になってその日初めて顔を合わせる時の挨拶の言葉として適当なものが存在しない」ということだ。「おはよう」はあくまで朝いちばんで顔を合わせる時の挨拶なのである。では、午後だったら「今日は」ならいいか。職場の顔見知りの相手に、「今日は」と言いながら職場に入っていくと馬鹿みたいである。つまり、かつての日本は「仕事仲間と午後になってから顔を合わせる」ことがほとんど無かったから、その際の挨拶の言葉が存在しなかったのである。
日本で一番最初(重言か?)にこの問題に逢着したのが芸能界、特にテレビ界である。そこで、その世界において、朝だろうが昼だろうが夜だろうが、その日最初に顔を合わせる相手にはみな「おはようございます」で済ませるという暗黙の了解が出来上がったわけだ。
なお、時代や状況の変化で新しい言葉が必要になることはよくあるが、「自分たちは時代の先端を行っている」ことのアピールのために新語やカタカナ言葉をやたらに使う馬鹿が論外であるのは言うまでもない。これは官公庁やマスコミ人種に多い。
ちなみに、tanuki氏の文章冒頭に出てくるmadhenは「キチガイ牝鶏」ではなく、ドイツ語の「メイデン」つまり一般的には「少女」と訳される言葉だろう。(綴りは初めて知った。)下の記述を見ると、若年の婦人全体に用いる言葉のようだ。


(以下引用)


大学時代ドイツ語の授業中madhenの使い方で、年下の女性に対してなら年齢関係なく使えると言ってましたな。
先生が留学時代、混んだトラムで空席を見つけた老紳士が、年配の女性に向かって Madchen! と手招きして座らせてたなんて話をしてましたなあ。先生は女の子がどこにいるのかキョロキョロしてたら白髪の老女がトコトコ歩いてきて座ったと。


但し若い人が年上女性に対しては失礼だから駄目だぞ。と。


要するに言葉はつねに相対的なものであって、相手を尊重しいたわる気持ちがあるかどうかなんですな。下品に嘲笑ったり、コケにする気持ちで言葉を使うから世間一般の顰蹙を買う。
これも普段からの心の持ちようですなあ。
まあアタシもジジババとは言うが、自分もそうだからギリギリセーフか。


まあこのあたり石原慎太郎なんかも同じようなこと言っていた。性格の根っこに男尊女卑、女性の価値を性的にしか捉えられない精神的欠陥があるのでそれが事あるごとに破れ出るだけですな。


そういや未だ日本人はgood nightとgood eveningの使い方がわかってないんですな。
夜間のこんにちはがgood evening、さようなら(おやすみ)がgood nightというのは大体シチュエーションとしては間違いないんだが、eveningはまだまだこれから活動する(だろう)人に対して、nightはこれから休む人に向かって使う言葉なんですな。だから時間は関係ない。
深夜のバーでもナンパするときはgood eveningだし、夕方日のある時間でも帰宅する人にはgood night。
相手次第で使う言葉が決まる、ということは相手に対する想像力が必要なんですな。


森元や自民党幹部バカ似非保守連中には根本的に欠けた能力ともいえるわけです。


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キチガイ集団

電通の佐々木の過去のヒット作とされているCMが軒並みくだらないことが、あの「オリンピッグ」事件以来多くの人に認知されているが、かなり前の小田嶋隆師の下の記事が広告業界について引導を渡しているので、転載する。まあ、ああいう詐欺的商売が若者憧れの職業だった時代もあったということで、その実態は、案外、知っている人は知っていたのである。私も青年漫画誌「ビッグコミック」に載っていたホイチョイプロダクションの漫画で夙(つと)に知っていた。「上役やスポンサーのナニをサランラップで包んで尺八が新人社員の必須技能」、などというのはその漫画で知った。しかし、やる方もやらせる方も何が面白いのか、キチガイの世界である。


(以下引用)

小田嶋隆「大日本観察」

担当者より:コラムニスト・小田嶋隆さんが2008年に『広告批評』休刊をうけて書いた原稿です。また先日、小田嶋さんと岡康道さんの共著『ガラパゴスでいいじゃない』(講談社)が発売されました、そちらもぜひ!

配信日:2008/06/18


『広告批評』が休刊するのだそうだ。なるほどね、と言おう。ずっと前から予想がついていたみたいな口調で。ふむ、と。実際に、予想がついていたのかどうかはともかく。だって、『広告批評』がわれわれに教えてくれたのは、「何事につけて、わかったふりをしておこうぜ」という態度だったわけだから。「いつもわかったような顔つきを保ち続けることが、もののわかった人と思われるための秘訣だぞ」と、私は、あの雑誌から、そういうメッセージを受け取っていた。

で、実際、天野祐吉は、いつでも「わかった人」として、コメントしていた。殺人事件から、経済指標、グルメ、ファッション、ジャズ、映画、文学、生理用品まで。広告を批評する人間は、全世界を批評できるんだぞみたいな、そういう誤解を定着させることに、あの人たちは成功していたわけだよ。天晴れ、広告卑怯――というのは、言い過ぎだな。訂正する。批評広告。

正直に言うと、私は、びっくりしている。まさか、『広告批評』が休刊するなんて、予想すらしていなかったから。どうしてなんだろう。ここでは、その理由を分析してみたい。なぜダメだったのかという、広告屋さんたちが決してしないタイプの分析作業を、誰かがせねばならないはずだから。っていうか、批評という立場から撤退するのなら、『広告批評』は、自分たちの撤退について、まず存分に批評的な分析をせねばならなかったはずなのだ……とか、そういう難しいことを言うのはやめよう。そもそも批評なんかじゃなかったのかもしれないわけだからね。批評という商売。一種のメタ広告としての疑似批評広告、と。

代理店の人間は、勝つ理由についてなら、ヤマほど理屈を並べることができる、そういう人々だ。一方、敗因分析はからっきし苦手だ。売り上げに直結しない分析は、あの業界では無視されるから。しかしながら、オレら構造不況業種の申し子であるところの出版界の人間は、むしろ敗因分析を本業としている。後智恵。愚痴。あるいは、死者に鞭(←「支社に無知」by Atok)。あんまり生産的ではないが。

とにかく、ここしばらく、広告に関しては、あまりパッとした話を聞かなかった。やれ広告制作の単価が安くなっているとか、新聞の広告売り上げが右肩下がりだとか、伝わってくるのはそんな話ばかりだ。テレビもひどい。なんでも、今年にはいって、民放各局のスポットCM売り上げは、軒並み、前年比で十数%下落しているらしい。

たしかに、テレビ画面に出てくるCMは、この10年ほどの間に、驚くべき水準で劣化してきている。私のような素人の目から見ても、映像そのものにカネが掛かっていないのが丸わかりだ。ラインナップも、パチ屋、サラ金、尿漏れパンツ、老人向け年金保険、墓地、入れ歯安定剤……と、10年前だったら画面に出すことさえはばかられていた商品が、目白押しで並んでいる。それもゴールデンの時間帯に、だ。

新聞広告もひどい。スッポンだの鹿の角だのから出来ていることを謳った怪しげな健康食品、先物取引に自己啓発研修、あるいはマルチまがいの浄水器みたいなものの広告が、一流とされている新聞の紙面に堂々と掲載されている。折り込みの形で挟まってくる広告はある意味、さらに破壊的だ。地域によって多少の差はあるだろうが、どっちにしても地域密着型の詐偽まがい。SF商法や売り逃げ店舗の開店チラシ。催眠商法のバラ撒き広告や試供品詐偽の釣り用チケット。駅前の呼び込みみたいな調子のダミ声。ひどい。

以上のごとき次第で、「テレビで宣伝している会社だから一流だ」「新聞に広告が載っている商品だから大丈夫」といった感じの昭和の常識は、すでに瓦解している。というよりも、20歳から下の若い人々は、瓦解もなにも、はなっから広告に対して憧れを抱いていない。

思うに、『広告批評』の休刊はこういうところから来ている。つまり、「メガ広告の終焉」だとか、「広告媒体の多様化」だとかいったそれらしい分析以前の、モロな「広告」の破産という事態が、『広告批評』を休刊に追い込んだのであって、「広告」という作業そのものが信用を失ったことに、私どもは注目せねばならないのである。

知り合いの広告関係者に言わせると、うちの国の広告は、ほとんどまったくドメスティックな枠組みで作られているがゆえに、予算規模自体が、国内限定のケチくさい枠に縛られている。であるから、ナイキだとかアディダスみたいな会社が世界数十カ国に配信することを前提に作っている予算何十億の広告作品とは、はじめっから勝負にならないらしい。なるほど。

だから、天気待ち(野外撮影の場合、良い映像を撮るために、最適な光を求めて好天を待つものらしい)もろくにできていない、安い光で撮った、ショボい映像が、無防備で茶の間に流れているわけだ。で、その、ホームビデオで撮ったみたいなチープなCMを見ながら、若い連中は、広告業界への憧れを、徐々に喪失して行った――これが、バブル崩壊以後の20年ぐらいの間に起こったことの真相なのだと思う。

私が若者だった頃、広告業界は、学生や若いリーマンにとって、まさに憧れの職場だった。クリエイティブで、おしゃれで、高収入で、将来性があって、自由で、経費使い放題で、最先端で、女にモテて、育ちの良い同僚がいっぱいいる、とにかく、あらゆる点で、最高の就職先に見えた。広告作品自体も、なんだか時代をリードしているみたいに見えていた。なにしろ、「作品」と呼ばれていたぐらいだから。実態は宣伝媒体に過ぎないくせに。

結局、広告は「広告」を広告することに成功していたわけだ。広告業界は、「広告業界って最高だぜ」というプロパガンダを定着させ、「広告が時代を変えるんだぜ」というお題目をまんまと実体化し、そうやって、本来は流通の末端にいるはずの仕事を、経済界のトップに位置しているかのごとくに見せかけていたのだな。だから、広告業界には、ワナビーがたくさんいた。なんとかして広告に関わりたいと願っている、そういう若い業界予備軍の存在が、広告の単価を上げ、広告人の地位を押し上げ、彼らの社会的地位を幻想上の殿上人たらしめていたのである。

二十世紀のある時期まで、若いヤツは、誰もが皆、広告関係に就職したいと願っていた。それゆえ、姿形に自信のあるタイプのおねえちゃんたちもまた広告の周辺に蝟集した。で、「広告には才能が集まる」というプロパガンダは、じきに一定の真実を含有するに至る。ひとつの世代のうちの一番優秀な組がこぞって広告業界に集中するみたいなことが、実際に起こっていた時代があったのである。と、才能と収入と世評と外国製乗用車に引き寄せられる形で、女とコンパと酒とコネクションが業界に集中して、最終的に、業界は、一種の仮面舞踏会へと昇華していった。

かくして、広告業界は、広告会社の社員が最も典型的なエリートであるという風評を作成することに成功し、そうした風評の裏付けに、『広告批評』を利用していたわけだ。広告作品を「批評」可能な独立した表現であるかのごとく扱うための媒体として。他人のふんどしで相撲を取りながら(←つまり「クライアントのカネでモノを作っているくせに」ということ)、生活のリスクを負うこともなく、制作費は丸抱えで、そのくせ手柄だけはパトロン抜きで独り占めしようとする、そいう話だったわけだ。そもそものハジメから。

もちろん、広告が時代を反映しているということはまぎれもない事実だ。が、だからといって、広告がひとつの独立した表現として評価されるべきであるのかどうかは、また別の話だ。『広告批評』が、あくまでも、業界紙として、たとえば『日刊鉄鋼新聞』や『月刊住職』みたいな位置づけで、業界人オンリーの雑誌として出版されていたのなら、それはそれでオッケーだと思う。業界の人間が、あくまで業界内の情報として読むのであれば、それなりに、有用な情報も提供できただろう。

が、『広告批評』は、もっぱら業界ワナビー向けに作られていた。文芸誌が作家志望の青年向けに刊行され、ロック雑誌が単に音楽業界人向けにでなく、むしろロケンローラー予備軍を含む、音楽と無縁なティーンエイジャー向けに出版されていたのと同じように、つまり、一種のスターシステムの象徴的媒体として、だ。けれども、そういう時代は終わった。だって、ワナビー自体が、消滅してしまったから。

いずれにしても、広告業界は、中にいる人々にとって、素敵な場所だった。でも、素敵なことばかりが起こっていたわけではない。事実、電通や博報堂に憧れて試験を受けた野心家の多くは、意味のわからない理由で落とされていた。その代わりにまんまと入社していたのは、一部上場企業の重役の息子や、テレビ局の関係者だったりした。癒着ともたれ合い。そう。うちの国の標高の高い場所ではいつも同じプロットが展開される。そういう宿命なのだ。

で、『広告批評』が言っているみたいな、ハイブローでアーティスティックでクリエイティブでハイファッションな作業はともかくとして、業界は、ホイチョイが描いたところそのままの腐敗ぶりを露呈しつつ、徐々に調子を狂わせ、そうこうするうちに、不況と国際化のはさみうちにあって、絶対に国際化できない宿命を担った、うちの国の広告は、いつの間にやらもとの木阿弥の三流業界に立ち戻ってしまったわけですね。ええ、ざまあみろです。

あ。最後の一行は取り消し。忘れてください。分析を装った記事で、本音が露呈してたりするのって、最悪だからね。


●小田嶋隆(おだじま・たかし)
コラムニスト。

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医者や看護婦のエクソダス(大脱走)

新コロ詐欺の旗振りを一生懸命にしている某医者のツィートだが、公立病院から医者や看護婦が大量に辞職する可能性がある、という情報だけは有益だろう。経営者たちはその対策をしているか?
医療者の大量辞職とは、新コロ患者だけでなく、それ以外の病人も誰も医療を受けられなくなるということだから、一般人にとっても他人事ではない。
医療業界は、いつまでも新コロ詐欺の片棒を担いでいると、自分たちが泥沼に沈んでいくということを分かっているのか。

(以下引用)


恐ろしい話なんですが、4月以降、全国の病院の新型コロナに対する診療機能が著しく低下する可能性があります。 『今年度までは頑張る!』と決めて新型コロナの治療に当たっていた医療従事者が燃え尽き、3月末で退職するケースが少なからず生じているからです。 どうぞ、感染予防を徹底して下さい。


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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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