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気の赴くままにつれづれと。
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どういうことなのかというと、私たちは、職場や地域社会や学校のクラスの中で、政治的な意見を控えることを求められている一方で、選挙の時には、投票に行くことを期待されているということだ。
私たちは、一方で、政治的なふるまいを厳しく制限されていながら、他方では政治的な権利の行使を義務づけられている。要するに、われわれは、二つの矛盾する要求の間で引き裂かれているのだ。
これは、私がブログを書き始めた当初から一番気になっていたことで、最初にブログの中で政治的問題を論じた際には、大げさに言えば、「清水の舞台から飛び降りる」気持ちで、エイヤッと投稿したものだ。下手をしたら、社会的に圧殺される覚悟すらしたのである。日本社会で政治的発言をするというのはそういうことだ。しかも、それは親しい知人に対してすらそうなのである。政治的発言をしたら「あいつは変な奴だ」と思われること確実である。
ところが、平気で政治的発言をする人間もけっこういて、それは「自分は自民党支持である」「自分はアカが嫌いだ」「自分は労働運動(組合活動)が嫌いだ」「自分は日教組が嫌いだ」「自分は野党が嫌いだ」「野党は言うだけで、無責任な連中だ」というような発言をすることだ。なぜこれらの発言が安全なのかは言うまでもない。社会の上級国民に逆らわず、その手足となって行動することの表明だからである。
この社会は、目には見えないが、実は昔から1984状況だったわけだ。
そうした社会を少しでも変える力になりたい、というのが私の希望である。
ずっと前に書いたように、「小公子」の中のエピソードにある、無知な中年の商店主と10歳にも満たない子供が対等の関係で政治を論じるという初期アメリカの「民主主義的風景」は(もちろん、フィクションだが)私の政治的理想なのである。
(以下「ア・ピース・オブ・警句」から引用)
若者に投票を促す人々は、政治に興味を持たない市民を、人として一段格が落ちると考えている人間に特有の調教師じみた命令口調を隠そうともしない。
聞かされている側としては、話の内容以前に、
「どうしてそう上からなんですか?」
というそこのところに反発して、マトモに耳を傾ける気持ちにならない。
世間の空気がそんなふうに硬直的だからこそ、例の五反田の哲学者は「積極的棄権」などという暴論をあえて持ち出してきたのではなかろうかと、彼の叩かれっぷりに憐憫を感じている私は、ついついそう考えてさしあげたくなるのだが、まあ、あの人は、案外マジであれを言っているのかもしれない。
だとしたら、それはそれで見事なばかりの空気の読めなさだとは思うのだが、それでもなお、私は、彼の提言を論理と理知の面では全否定しつつ、心情的には、こういう時代だからこそ、ああいう空気を読まない人の的外れの提言みたいなものが必要なんではなかろうかなどと、どうしても、心の一部でそう考えることをやめることができずにいる。
というのも、政治について、われわれの社会には明らかなダブルバインドがあって、「積極的棄権」という彼の破れかぶれの提言は、そのどうにも欺瞞的な二重基準が言わせたセリフではないかという気がするからだ。
どういうことなのかというと、私たちは、職場や地域社会や学校のクラスの中で、政治的な意見を控えることを求められている一方で、選挙の時には、投票に行くことを期待されているということだ。
私たちは、一方で、政治的なふるまいを厳しく制限されていながら、他方では政治的な権利の行使を義務づけられている。要するに、われわれは、二つの矛盾する要求の間で引き裂かれているのだ。
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