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気の赴くままにつれづれと。
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アニメに限った話ではない。ほとんどの芸術は、観る人読む人が「自分自身の想像力を足す」ことで成立するものだろう。どんな大傑作も、その作品を受容する資質や能力、特に想像力を持たない人間には無意味な存在となる。
知識と想像力は、もしかしたら背反関係にあるのかもしれない。
不思議なことに、ほとんど世界についての知識(これは、言葉の知識を含め、ほとんどの場合において、作品理解の基本的前提であるはずだ。)を持たない(タブラ・ラサ的存在である)子供でも、「これは優れた作品だ」と伝わることがある。
私は今でも、漱石の「吾輩は猫である」を完全には読み取れていない(和漢洋の知識が駆使されているだけでなく、使われている言葉自体が高級すぎるのである。)が、小学生のころに読んで、書かれた内容の1割くらいしか理解できなかったにもかかわらず、「面白い」と思ったものだ。(もちろん、成長した後、何回も読んでいる。)
私の、子供の頃の読書経験の様相としては、メルヴィルの「白鯨」も同じである。あの、一見無意味な博学的知識の羅列にすぎないような「鯨学」のところまで読んだのは、子供だからこそだろう。今なら、ほぼ確実に飛ばし読みをするはずだ。だが、そうした「情報読み取り」だけの読書は、真の読書とは別物だ。もちろん、最初に読んだ時には、書かれた内容は1割くらいしか理解できなかったが、それでもある種の面白さを感じていた。まあ、単に一種の「怪獣が出て来る冒険小説」として読んでいたのだがwww 今でもクィークエグやイシュマエルは私の精神世界の友人だ。現実の人間の名前は忘れるのに、書物世界の友人知人の名は覚えているwww
逆に、世界についての知識がほとんど無い子供だからこそ、そこに「自分自身の想像力を足して」作品を読む、あるいは視聴する、という「高度な鑑賞」を、自然にやっている、とも言えそうである。それは、作品と深い関係を結ぶ、ということだ。大人になると、精神自体が自動的に「合理的精神操作」を行い、「無駄の排除」をするため、芸術の深い鑑賞が困難になる。
(以下引用)
ゆうき まさみさんがリツイート
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