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バートランド・ラッセルの「マルキシズム批判」

今、バートランド・ラッセルの「怠惰への賛歌」(平凡社新書)を断続的に読んでいるのだが、彼もまた「社会主義」と「共産主義」を明確に区別して論じており、自分自身社会主義者の立場で、共産主義(マルキシズム)を批判し、そしてそれと共に、当時勃興しつつあったヒトラーやムソリーニの全体主義を批判している。1932年に出されたエッセイだ。
「社会主義と共産主義の区別」とは、つまり、私とまったく同じ思想であり、その当時は社会主義全般とマルキシズムを区別するのは当たり前であったわけで、たとえばG.B.ショーやH.G.ウェルズなども社会主義者だったはずだし、当時の欧米の知識人階級では社会主義者は珍しくなかったはずだ。前に、「足長おじさん」の話を書いたが、「良心的資本家」で社会主義者であった人間はかなりいたのである。そもそも、初期社会主義者(マルクスの侮蔑した「空想的社会主義」者)たちは資本家か上流階級だったのだ。もちろん、その当時でも社会主義を危険思想と見做す人はたくさんいた。
「社会主義」全体の評判が地に落ちたのは、「共産主義と社会主義の同一視」と、「マルキシズムが社会主義の代表と見做されたこと」による。つまり、ソ連の政治の実態が知られ、「ソ連=社会主義政治の代表」とされたからだろう。だが、ソ連の政治とは「恒常的ファシズム」にすぎない。ラッセルは社会主義の条件のひとつを「民主主義的であること」としているが、ソ連の政治と民主主義ほど乖離したものは無い。ナチスの自称する「国家社会主義」も同様に偽物である。(私は「国家社会主義」自体は否定しない。国家が政治制度として社会主義を採用したら、それは「国家社会主義」としか言えないだろう。問題は、「社会のすべての人間の幸福を増進しているか」というその内実だ。)
「怠惰への賛歌」の中から引用したい箇所はたくさんあるが、訳が不適切なのか、原文が曖昧なのか、理解困難な箇所もある。全体的には明瞭な文章なので、これは訳者の下手さによるのだろうと私は推測している。
下に引用した部分の最後の一文は「共産主義(マルキシズム)は、一般大衆にこそ嫌悪された」という事実を道破している。(「道破」の「道」は「言う」と同じ。「破る」は固陋な考えを破る意味。)

(以下引用)

今日、大多数の社会主義者は、カール・マルクスの弟子で、彼から次の信念を引きついでいる。それは、社会主義を生み出すことができるただ一つだけある政治的勢力は、財産を奪われたプロレタリアが生産手段の持主に対して抱く怒りだという信念である。このことをきくと、プロレタリアでない人々は、どちらかといえば殆ど例外なく、必然的な反動で、社会主義は反対すべきものであると判断しているし、また自分たちはプロレタリアでないものの敵であると自ら宣言する人々が唱えている階級闘争のことをきくと、プロレタリアでない人たちは、まだ勢力を持っているあいだに、自分たちの方から戦いをしかけるのがよさそうだと感ずるのは当然である。ファシズムは共産主義に対する反抗、しかも侮りがたい反抗である。社会主義をマルクスの言葉で説いている限り、甚だ有力な反対が起こるので、文化の進んだ西欧諸国で、社会主義が成功することは日にまして見込みうすになって来る。勿論、社会主義はどんな場合も金持から反対を受けているだろうが、この反対はそう強烈なものでもなく、そうひろがりもしなかっただろう。(同書第七章「社会主義の問題」冒頭部)

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