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キリスト教とは何か

橋爪大三郎と大澤真幸の「問答」による「ふしぎなキリスト教」(講談社現代文庫)を読んだばかりだが、読んでいる間はいろいろと良い知識も得たのだが、ほとんど忘れてしまった。この本は大澤がキリスト教への疑問を橋爪に質問し、橋爪がそれに答える形式になっている。大澤の質問はすべて素人や少しキリスト教に関心のある人間が疑問になるポイントをよく抑えていて(訂正:「押さえて」が正しい)、橋爪も一見真面目そのものの姿勢でそれに答えるのだが、話の仕方が曖昧で複雑で、質問に答えたのかどうかもはっきりしない感じが残る。まあ、この種の本としては非常にいい本であることは確かだ。
少し覚えているところだけ書いてみる。ただし、うろ覚えなので、勝手に自分で考えたことも混じっている可能性は高い。

1:キリスト教は最初からユダヤ教との二重性がある。
まあ、これはキリスト教が「旧約」と「新約」の聖書が存在することから自明だし、私自身、キリストは「新しい宗教」を作ったのではなく、ユダヤ教が土台にあって、その「解釈」の点で当時の律法学者の解釈に大きな不満を持っていただけの「ユダヤ教徒」だったと思っている。だが、その解釈があまりに斬新だったので、それだけでもはや「同じ神を信仰している別宗教」と見えるほどであるわけだ。それを明示しているのが、次の2である。
2:キリスト教の本質は、「汝の神(ヤハウェ)を愛せ」「神を愛するように汝の隣人を愛せ」というふたつの「律法」に尽きている。
これは、当時の「食べていいもの、いけないもの」まで細かく規定したユダヤ教から見たら、ほとんど「反逆」としか思えない大胆な提言だっただろう。指導的ユダヤ人(律法学者やラビたち)がイエスを裁判にかけて死刑と決定した真の理由はそこにあったと思う。
3:十善十能であるはずの「神」の創造した世界に悪があるほうが「信仰」のためにはいい。
「なぜ唯一神の作った世界に悪が存在するのか」という問題への橋爪の回答は長くて曖昧だが、上に挙げたような答えだったかと記憶している。確かではない。まあ、創造神が作った世界に悪があるのだから、「神の善悪は人間が推測できるようなものではない」という回答でいいとは思うが、それなら「善悪ふたつの神が存在する」という思想と大差がない気もする。この問題は大澤がもっと粘って、納得できる回答を橋爪に求めるべきだったと思うが、そうすると橋爪のメンツを傷つける可能性もあっただろう。キリスト教徒の信仰のためには悪が存在したほうがいい、というのはある意味、私は頷ける。というのは、神が善悪の基準を明白に自ら人間に伝えたら、人間はそれに従うだけの存在となり、『自由意思』の存在しないただの機械になるからである。これは「時計仕掛けのオレンジ」問題、と私は言っている。「善しか行動できなくなった人間は、自由意思のある『人間』と言えるか。それはただの『時計仕掛けのオレンジ』ではないか」という問題だ。
4:西洋文化の根源にはキリスト教があり、「マルキシズム」もその流れにある。
まあ、これは常識だろう。なぜキリスト教から西洋の自然科学が生まれたか、ということについては私の推測があるが、ここには書かない。
5:キリスト教は「唯一の神」の前では「すべての人間が平等である」と考える。
ここに「王権への抵抗と民主主義による近代社会の発生」の原因があるのだろうし、西洋の「個人主義」の原因でもあるだろう。ひとりびとりが単独で神と対峙しているわけだ。そこが集団の束縛が強い日本などとはかなり違っている。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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