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イスラム世界でのクルアーン(コーラン)受容の色々

前回記事と同じく「中外日報」記事だが、仏教にこだわらず、他宗教に関する記事も載せる懐の深さを見せている。素晴らしいことだ。
引用記事によって私もイスラム世界でのクルアーン(俗にコーラン)の受容態度が様々であることが分かり、勉強になった。これによって「イスラムテロ」がイスラム教徒から発生する可能性が認識されると共に、それがクルアーン受容のひとつの在り方でしかないことも分かる。まあ、仏教でも日蓮宗のように他宗攻撃が激しいものもあれば、禅宗のように個人的悟りだけを目指すものもあるようなものだろう。キリスト教も同様であり、カソリックとプロテスタントの違いは大きい。

(以下引用)

聖典クルアーンとムスリムたち(1/2ページ)

明治学院大国際学部教授 大川玲子氏

2022年2月7日 10時00分
おおかわ・れいこ氏=1971年、大阪府生まれ。東京大大学院博士課程修了。文学博士。専門はイスラーム思想、クルアーン解釈史。最近はクルアーンの宗教多元主義的な解釈とその実践に関心を持つ。著書に『クルアーン 神の言葉を誰が聞くのか』などがある。

コロナ禍のため、海外での調査出張ができない日々が続いている。筆者の専門はイスラーム思想で、特にムスリムによる聖典クルアーン(コーラン)の解釈を研究してきた。ムスリムたちのクルアーンとの関わりを多角的に知るためには、文献調査のみならず、現地での聞き取り調査も大切なのは言うまでもない。これまで中東や東南アジア、欧米のムスリム社会で現地調査を行ってきたが、ここのところ、研究対象は文字情報が中心となってしまっている。


このような中、ムスリム社会での現地調査を思い起こすとやはり脳内に流れるのが、アザーン(礼拝の呼びかけ)とクルアーン読誦の声である。ムスリムが多数を占める社会を訪れると、アザーンは街中で否応なく耳に入って来る。朝から晩まで。クルアーンもテレビやラジオから流れ出ているので、商店やタクシーの中で耳にすることになる。また電車やカフェでも、クルアーンを手に小声ではあるが読誦している人を見かけることは珍しいことではない。


ムスリムは聖典と距離が近く、日本社会での聖典との関わり方とは大きく異っている。ただ、全てのムスリムが厳格に関わっているわけではなく、地域や個人による差、さらに言えば時代による変化がある。このことについては拙著『リベラルなイスラーム 自分らしくある宗教講義』(慶応義塾大学出版会、2021年)で書かせていただいた。クルアーンを根拠としてテロ活動を正当化するムスリムもいれば、平和主義活動に従事するムスリムもいる。そしてその間には様々なタイプのムスリムがいて、自分の立ち位置に迷いながら過ごす者もいる。ムスリムたちも決して一枚岩ではなく、人間であるがゆえに多様性や迷い、試行錯誤の中で生きているのである。


アメリカの世論調査会社ピュー・リサーチ・センターは、世界中のムスリムたちを対象に興味深い調査を行っている。上掲の拙著でも紹介したが、「どの程度の頻度でクルアーンを読むのか」と「クルアーンを字句通りに読むべきか」という質問に対する答えを見てみたい(12年公表)。ムスリムたちがクルアーンを読む頻度は地域によって異なっている。毎日読む者は、中東アラビア語圏の国だとほぼ半分だが、南欧・東欧・中央アジアだと10%以下になっている。ここからもクルアーンとの接し方に文化・地域差があることが分かるが、それでも社会の中にずいぶん浸透しているという見方が日本と比較しての正直な感想ではないか。


この頻度についての質問は、内容をどう理解しているのかには直結していない。しかし「クルアーンを字句通りに読むべきか」という質問は、ムスリムの内容理解の実態に踏み込んでいる。この調査はサブサハラ(サハラ以南)のアフリカ諸国とアメリカのムスリムが対象になっている。サブサハラ・アフリカでは平均すると80%がクルアーンを字句通りに読むべきと回答している(ただし国によって54%から93%と差がある)。他方アメリカ在住のムスリムで字句通りに読むべきと考えているのは半分ほどであった。マイノリティとしてアメリカで暮らすムスリムたちの中には柔軟にクルアーンを理解する必要性を認識している者が多い、ということであろう。とはいえ、それでも半分以上のムスリムがクルアーンを字句通りに理解するべきと考えているということは、日本人の感覚からすると驚きかもしれない。


このことは何よりも、クルアーンが神(アッラー)の言葉そのものとされていることに起因する。預言者とされるムハンマドの口を通して人々に伝えられた一字一句が神のものだと信じられているのである。そのためそれをそのままアラビア語で読誦することが重視され、かつては他の言語への翻訳も忌避されていた。翻訳されて広く読まれている他の宗教の聖典に比べると、ムスリムのクルアーン認識には、7世紀にアラビア半島で生まれた言葉への強固なこだわりが存在する。ゆえに柔軟な解釈を認めずに、当時のムハンマドの周囲の環境を現在に復元することを求めるムスリムが出てくるのである。


ムハンマドはメッカで生まれたが、そこで新しい教えを説き、多神教徒であった人々に迫害された。そしてメディナに移住した。だがそれでもメッカ勢力から攻撃されたため、自ら戦闘に従事している。この時期に断続的に下されたとされる言葉が神の啓示と信じられているものであり、ゆえにこの中には異教徒を攻撃することを命じる内容が含まれている。このような句をどう解釈すればよいのだろうか? 字句通りに読めば、今なお異教徒を見つけ次第、殺害することが必要となる。この読み方を支持する者たちの究極の形がテロリストということになる。


他方、字句通りではなく、当時の状況を考慮して解釈しようとする者も少なくない。アラビア半島では戦闘が常態で、ムハンマドは迫害を受け防衛のために戦ったのであり、ユダヤ教徒やキリスト教徒から多くを学び良好な関係を構築しようとした。クルアーンにはこのような内容の文言も多く含まれる。ゆえにそれらを考慮し、クルアーンの言葉が持っていた価値観を現代的に読み直し、「自己防衛のための戦い以外は認めない」という解釈を提示する者もいるのである。


読む者によってクルアーン解釈は変わっていく。するとクルアーンという聖典の存在にはどのような価値があるのか、という疑問が出てくるかもしれない。ここでクルアーンを解釈した二人の現代ムスリム思想家を紹介しておきたい。彼らは自らの思考を深めるためにクルアーンがあると捉えている。インドの平和主義者ワヒードゥッディーン・ハーン(1925~2021)はコロナ禍により逝去されたが、生前に筆者がお会いした時、このような会話を交わしたことがある。筆者が「どのクルアーン解釈者の解釈を評価していますか」と尋ねたところ、「あれかこれかにこだわらず、自分で読むのがよい」とのことであった。またパキスタン出身でイギリスで活躍する文化評論家ズィアウッディン・サルダール(1951年生)はその解釈書『クルアーンを読む―イスラームの聖なるテクストの現代的関係性』(2011年、日本語未訳)で、読者はクルアーンを読む時に熟考する必要があり、それこそがクルアーンの価値だと述べている。つまり彼らはクルアーンの解釈は確定されるものではなく、時代や読む者の立場との応答の場のようなものだと考えている。これは他の者の解釈を鵜呑みにすることを否定し、クルアーンを通して個々人が神と直接対峙し思索を深めることを目指すものだとも言えるだろう。


近年、日本でもムスリム人口が増加してきた。これまではムスリム諸国から就業などで日本にやってきて定住する者が多かったが、日本人改宗者が増えてきているのが近年の特徴であろう。クルアーンの日本語への翻訳の歴史を見るとそのことがよく分かる。最初の翻訳は大正時代になされ、それ以降、知的関心による翻訳が続いた。代表例が1950~60年代に井筒俊彦が訳した『コーラン』(岩波文庫)である。しかしここのところムスリムに改宗した日本人による翻訳書が立て続けに刊行されている。例えば中田考監修、中田香織・下村佳州紀訳『日亜対訳クルアーン』(作品社、2014年)や、水谷周監訳著、杉本恭一郎訳補完『クルアーン やさしい和訳』(国書刊行会、19年)などである。それぞれの翻訳書に付された注解を見ると、訳者の見解つまり解釈を垣間見ることもできる。加えて最近、日本人ムスリムによるイスラーム論もいくつも刊行されている。


日本社会にイスラームが定着し、展開しつつある現在、思想的にも深まっており、そろそろ日本人ムスリム独自のクルアーン解釈書が世に現れるのではないか、そう思うこの頃である。それは宗教の影響が大きくないとされる日本社会からの一神教理解の提示であり、世界中に広がるムスリムのクルアーンとの関わり方の歴史に新しい様相を加えることになるだろう。





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