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「自由主義」の極限

石井洋二郎の「フランス的思考」の記述の一部を要約する。

(以下引用)赤字は夢人による強調。

「宗教的拘束にとらわれない十七世紀の自由思想家を『リベルタン』という。」

「美徳は人間において二次的な情動でしかなく、人間の内にある第一の情動は、他のいかなる情動にもまして、誰を犠牲にしてもかまわないから自分の幸福を実現したいという欲求であることは、疑う余地がない」(注:サド作品の登場人物の発言である。)(注2:「一次的」「二次的」を過大に考えていることを除けば、私自身、この発言は正しいとは思っている。ただ、多くの「正常な」人は「他人を犠牲にする」という一点で立ち止まるのである。これは我々の無意識に埋め込まれた第二の本能だろう。我々自身が「親という他人」から生まれた存在なのだから。つまり、この論理は見かけほど堅固なものではない。単に「極限的(数学的論理)思考」なだけだ。)

「自由の享受に限界はないというこの論理をさらに押し進めていけば、最も普遍的でこれ以上に絶対的な準則はないと思われる『人を殺してはいけない』という規範までもが相対化されることになるであろう。この段階にまでたどりついてしまえば、もはやタブーはいっさい存在しない。サドにあって重要なのは、ただおのれの欲求を充足させることだけであり、他者への配慮を前提とした友愛とか憐憫とか隣人愛といった観念は、まったく空疎で無意味な偽善にすぎないのである。」

(以上引用)

あまり誰も言わないことだが、こういう「重要なのは、ただおのれの欲求を充足させることだけであり、他者への配慮を前提とした友愛とか憐憫とか隣人愛といった観念は、まったく空疎で無意味な偽善にすぎないのである」という思想は実は現代世界に底流する観念であって、多くの人はそれに則った行為(経済犯罪などが顕著で、前科持ちがマスコミ、特にテレビで堂々と発言している。)をしながら、それを明確に言語化しないだけである。
これが「自由主義の極限」である。「愚劣な合理主義」と言ってもいい。なぜ愚劣か。それは、この思考が実は自分自身にすら本当の満足を与えないからである。なぜなら人間の欲求は本当はささやかなもので満たされるからだ。
気に入らない人間を殺したいという欲求はよくあることだ。しかし、世界中の「悪人」を殺したいとなれば、「自分」が(他者から見た悪人として)その中に入るのである。この矛盾を解決するのが法であり道徳である。これは「偽善」と言うより、「社会の集合知」と言うべきだろう。

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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