古典の花園
最初に
古文の世界というと古臭くて、自分にはまったく興味が持てない世界だと思っている人が多いでしょう。目の前には新鮮な現実の世界や、新しい文学や芸術があるのに、なぜ黴臭い古典などを読む必要があるのか、と。いやいや、必要はまったくありません。ただ、古典を敬遠するのは、たとえば明治時代の人間がチーズを「こんな石鹸のようなものを人間が食えるか」と思っていたことや、高級なワインだろうがブランデーだろうが、酒の飲めない人には無価値に思えるのと同じだというだけの話です。絵でも音楽でも、自分の苦手なジャンルというのが誰でもあるでしょう。クラシック音楽を聞くと眠くなる、とか。しかし、それが理解でき味わえるようになると、それまでそのジャンルを毛嫌いしていた過去の時間を後悔するものです。古典の世界は、芳醇なワインのようなものだと言えるでしょう。それを味わえることは、人生の喜びを増やすのです。
しかし、学校で習った古典は、少しも面白くなかった、と言う人もいるでしょう。学校が古典嫌いを作っているとすれば、不幸なことです。そういう人々のために、私は「古典文学ずれしていない人のための古典入門」としてこの文章を書いてみようと思いました。多くの古典入門は、ハイレベルすぎるのです。またお酒の比喩になりますが、それは子供にビールを飲ませて、「どうだ、美味いだろう」と言うようなものです。ビールの味は子供にはわかりません。しかし、赤玉ポートワインなら、子供でも飲めるでしょう。それでお酒好きの子供を作ろう、というわけではありませんが、古典に酔えるという幸福を多くの人が知ることはいいことでしょう。人々の心に潤いが出てくれば、この効率至上主義でぎすぎすした合理主義の世の中も、少しは住み良くなるかもしれません。
そこで、この文章は、古典詩歌の中でもあまり古典臭くないものから私の好きな作品を選び出してみました。その中の狂歌や川柳が詩歌かと言われれば、迷うところもありますが、古典の中にはこういう取っ付き易く親しみやすい作品もあるのか、と初めて知る人もいるでしょう。何よりも、狂歌や川柳には、人間への愛情に満ちた作品が多いのです。それに、古典の和歌や俳句の中には、世間的にはあまり知られていない素晴らしい作品が沢山あります。そういう作品に触れた人の中から、古典への興味を深める人が少しでも出てくれれば、幸いです。
実は、この文章中に引用する作品のほとんどは、旺文社の古語辞典に載っている作品です。評釈や解説は私のものですが、訳の一部は同辞典によっています。別に旺文社の辞典に限らず、どの古語辞典にも古典詩歌は沢山載っています。辞典の中から作品を探して味わうという、古語辞典にはそういう楽しみもあるのです。
2006年10月17日 作者記