「農業社会の遺制としての家族」「封建社会での労働力としての子供」という問題を考えようかと思うが、それはまた気が向いた時にやる。
ここでは、早朝散歩の時に考えた「疲労と疲労感と『健常』概念」という、何のことやらと思われそうな浮遊思考を少し考察してみる。まあ、「医療・健康」分野の話だ。
最初に言いたいのは「疲労と疲労感の違い」である。これは本質的に違う、というのが先ほど私が考えた浮遊思考である。
「疲労」とは文字通り「労働(運動・体の使用)」による「疲れ」である。
ところが「疲労感」は体を使っていなくても生じるのである。つまり、或る種の体の不全状態、不調に対して日本社会がいい加減につけた名称が「疲労感」なのである。私の推測では、その不調はある種の栄養分の欠乏から来るもので、「運動」によるものではない。まあ、細胞活動も運動だと強弁すれば話は別だ。
たとえば、朝起きた段階から体がぐったりして足が重い、そしてその原因が特に思い当たらない、というなら、それは「運動による疲労」ではないから、それを「疲労感」と名付けること自体が不適切なのである。まあ、強いて名付けるなら「不全感」だろうか。「不調」だと漠然としすぎているようだ。少なくとも「疲労感」ではない。
では「健常者」とは何か。どういう状態を指して「健常」と言うのだろうか。
一般的にはこれは五体満足で病気でない者を指すようだが、慢性的な病気を持っていても、肢体不具者でなければ健常者だとみなすことが多いようだ。精神面は無視するので、残忍非道酷薄そのものの健常者はゴマンといる。
そして、なぜか人というものは、身体的健常者であることをもって、身体部位に欠損を持つ者を「自分より劣った者」と見なす資格があると思っているものだ。同情すら、自分が上位であることを意識する満足感を伴っていることもあるだろう。だから、不幸な人々は同情されることを嫌うのである。まあ、そのあたりは小説や漫画でうんざりするほど描かれたものだ。
で、健常という状態は、私の考えでは「自分が存在し、生きていること自体に幸福感を持っている状態」と定義したい。その前提が「身体的苦痛がない」だが、それ以上に「身体的精神的に健康であることの実感や幸福感があること」でありたい。まあ、老年になればなかなかそうはいかないが、若い時期なら、そよ風が頬を撫でる感覚や、道を歩いて、足が地面から受ける反動自体が、生きている幸福感を呼びさますこともあるのではないか。そういう状態をこそ私は「健常」と呼びたい。そういう意味で自分が健常なら、世界や他者への悪意は生まれようがないはずだ。
ここでは、早朝散歩の時に考えた「疲労と疲労感と『健常』概念」という、何のことやらと思われそうな浮遊思考を少し考察してみる。まあ、「医療・健康」分野の話だ。
最初に言いたいのは「疲労と疲労感の違い」である。これは本質的に違う、というのが先ほど私が考えた浮遊思考である。
「疲労」とは文字通り「労働(運動・体の使用)」による「疲れ」である。
ところが「疲労感」は体を使っていなくても生じるのである。つまり、或る種の体の不全状態、不調に対して日本社会がいい加減につけた名称が「疲労感」なのである。私の推測では、その不調はある種の栄養分の欠乏から来るもので、「運動」によるものではない。まあ、細胞活動も運動だと強弁すれば話は別だ。
たとえば、朝起きた段階から体がぐったりして足が重い、そしてその原因が特に思い当たらない、というなら、それは「運動による疲労」ではないから、それを「疲労感」と名付けること自体が不適切なのである。まあ、強いて名付けるなら「不全感」だろうか。「不調」だと漠然としすぎているようだ。少なくとも「疲労感」ではない。
では「健常者」とは何か。どういう状態を指して「健常」と言うのだろうか。
一般的にはこれは五体満足で病気でない者を指すようだが、慢性的な病気を持っていても、肢体不具者でなければ健常者だとみなすことが多いようだ。精神面は無視するので、残忍非道酷薄そのものの健常者はゴマンといる。
そして、なぜか人というものは、身体的健常者であることをもって、身体部位に欠損を持つ者を「自分より劣った者」と見なす資格があると思っているものだ。同情すら、自分が上位であることを意識する満足感を伴っていることもあるだろう。だから、不幸な人々は同情されることを嫌うのである。まあ、そのあたりは小説や漫画でうんざりするほど描かれたものだ。
で、健常という状態は、私の考えでは「自分が存在し、生きていること自体に幸福感を持っている状態」と定義したい。その前提が「身体的苦痛がない」だが、それ以上に「身体的精神的に健康であることの実感や幸福感があること」でありたい。まあ、老年になればなかなかそうはいかないが、若い時期なら、そよ風が頬を撫でる感覚や、道を歩いて、足が地面から受ける反動自体が、生きている幸福感を呼びさますこともあるのではないか。そういう状態をこそ私は「健常」と呼びたい。そういう意味で自分が健常なら、世界や他者への悪意は生まれようがないはずだ。
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