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「文化防衛論」の考察(後段4)

13)~16)を考察する。

13)「文化の無差別的包括性」を保持するために「文化概念としての天皇」の登場が要請される。

(考察)簡単に言えば「日本文化を保持するために、日本文化の象徴としての天皇の存在が重要である」ということだろう。天皇という存在が論じられる時、ほとんどは「政治的存在」としての天皇しか論じられていない。天皇という存在が日本文化の歴史の中心にある、というのは私も主張してきたことであるが、そこには別に三島の影響は無い。単に、日本文学史を見ていたら、それ(天皇が文化の中心にいること)が歴然としているというだけのことだ。記紀と三大歌集が無ければ日本の古代中世文学は無く、古代中世文学が無ければ、当然その発展としての江戸文学も無い。そして、明治の欧風文化採用と太平洋敗戦でその伝統は切られたのである。つまり、あの敗戦と戦後教育は日本の文化の伝統を断ち切ったわけだ。日本文化の伝統を愛する三島が、その伝統の中心に天皇があると考えたのは自然なことである。

14)文化概念としての天皇は〈菊と刀〉を包括した日本文化全体の「時間的連続性と空間的連続性の座標軸」(中心)であり、「国と民族の非分離の象徴」である。

(考察)言葉が生硬な以外は、内容的にはこれまで書いてきたことの繰り返しであるので理解は容易だろう。言っていることは「天皇は日本文化の中心であり象徴だ」というだけのことだ。

15)文化概念としての天皇は、国家権力の側だけではなく、「無秩序」の側に立つこともある。もしも権力の側が「国と民族を分離」せしめようとするならば、それを回復するための「変革の原理」ともなる。


(考察)天皇が「無秩序(革命者・反逆者)の側」に立つこともあるのは、歴史上何度もある。特に鎌倉・室町時代と明治維新に顕著だ。私はこれを「天皇はやじろべえの中心のような存在だ」と論じたことがある。ただし、三島の言うような「権力が国と民族を分離させようとする」時に、天皇パワーの発動があったとかあるとは思わない。これは三島の持論(国と民族は一致していなければならない)に天皇というピースを無理に当てはめたものだろう。そもそも、ここで言う「権力」や「国」の意味が曖昧である。普通は権力とは政府を指し、政府は国を代表する機関である。その政府が国と民族(国民)を分離させるということの意味が分からない。まあ、合理的な解釈があるとしたら、ここで言う「権力」は日本政府ではなく、米国であり、今で言うならジャパンハンドラーだと解釈できるだろう。彼らが日本に常に内部分裂工作を行っているのは自明である。

16)「〈菊と刀〉の栄誉が最終的に帰一する根源」が天皇であり、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと」こそが日本および日本文化の危機を救う防止策になる。


(考察)ここでまた〈菊と刀〉が出て来るが、三島が曖昧な表現で言っているのは「天皇に統帥権を持たせよ」という主張だと単純化できるのではないか。「などてすめろぎは人となりたまひし」という恨みである。まあ、私はこの心情や主張に共感も賛成もしないが、天皇という存在を日本国民の統合の象徴として、もっと機能として活用することを議論していいと思う。


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「文化防衛論」の考察(後段3)

9)~12)の考察をする。

9)日本文化の「全体性と連続性の全的な容認」が大事であり、「菊」と「刀」の一方に偏するような圧制者の偽善から文化を守らねばならない。

(考察)なぜ、「日本文化の全体性と連続性の全的な容認」が大事なのか、根拠が分からない。特に「全体性」とは、ここでは〈菊と刀〉を指すようだが、そのどちらかに偏する為政者を「圧制者」と決めつけているのも独断的だろう。普通は、戦時下の日本のように〈武〉に偏するのが国家権力なのであり、三島がこの本を書いた当時の日本は「憲法9条」によって〈武〉は米国にすべてお任せ状態だったわけだが、それは「圧制者」によってそうなったとするなら、「圧制者」は誰だということになるのか。そしてそれが「偽善」だとするのは「憲法9条」を偽善だと言う意味だと思うが、〈刀〉に偏した戦前の空気によって日本がほとんど滅亡しかけたことを三島は単なる詩人的ロマンチシズムで肯定し、「自らのタナトス(死の欲求)」を無批判的に承認する個人的嗜好を日本という国家にまで敷衍するという思想的詐欺を行っていると私は思う。



10)文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守ることはできない。「守る」とは常に剣の原理である。


(考察)これも三島の主観でしかない。「剣の原理」とは「暴力」の意味だろうが、何かを「守る」とは普通、暴力(精神的な暴力や法律を基にした暴力も含む)から守ることだろう。つまり、暴力に対しては暴力でしか対抗できない、という思想で、それを否定したのが近代文明の法治主義思想である。もちろん、死刑制度のように「法律が暴力(国家の暴力・殺人)を肯定する」という矛盾も存在するが、それは現実問題としては単にプラスとマイナスの考量で決めるべき問題だろう。とりあえず、で言えば、法治国家では文化も言論も言論で守られるものである。

11)「献身的契機」のない文化の「不毛の自己完結性」が〈近代性〉と呼称(誇称)され、「自我分析と自我への埋没といふ孤立」により文化の不毛に陥る。「文武両道」とは「主体と客体の合一」が目睹され、「創造することが守ること」となり、「守ること自体が革新することであり、同時に〈生み〉〈成る〉こと」である。


(考察)「契機」とは日常用語の「きっかけ」の意味ではなく、哲学用語では単に「要素」の意味だと思えばいい。この一節は非常に思弁的と言うか、抽象的であるが、「文武両道」と「守る」ことを賛美しただけのプロパガンダ的内容だと把握すればいいと思う。「文化の『不毛の自己完結性』」は何を指しているか不明だが、おそらく近現代文学における「人間の内面の探求」を言っているかと思う。確かに、戦後文学はそればっかりだったという印象があり、その「人間」とは実は作者自身でしかないのである。まあ、哲学的自慰である。そこに「文化の不毛」を感じたのは私も同じだ。と言うか、戦後の「純文学」など、ほとんど私は読んでいない。この項目の後半はほとんど意味不明で、「文武両道」でなぜ「主体と客体の合一」が目睹されるのか分からないが、これは三島自身の作家としての姿勢だっただけではないか。つまり、戦後文学(純文学)がほとんど自我の内面への沈潜で終わるのに対し、〈武〉は常に他者(敵)が想定される行為である。〈武〉を契機とすることで主体と客体が必然的に生まれるわけだ。純文学の泥沼から逃れる手段として三島が〈武〉を選んだだけのことを、「文化というものはすべからく〈菊と刀〉であるべきだ」と強弁したのだろう。「創造することが守ること」「守ること自体が革新することであり、同時に〈生み〉〈成る〉ことだ」も、三島自身の作家としての自分の姿勢を批判者から「守る」ための韜晦的な発言だと思う。
なお、冒頭の「献身的契機」は、具体的には軍隊(軍人)をイメージしていると思う。自らの命を国家(あるいは天皇、あるいは崇拝する存在)に捧げる人間で、三島はそこに美的な価値を認めていたわけである。

12)文化伝統・言語統一のなされている日本での文化の連続性は、「民族と国との非分離にかかっている」。そして日本には真の意味での「異民族問題」はない。

(考察)この点に関しては、右翼的だと言われようが、私は三島に賛成する。日本における「在日朝鮮人」は既に「日本人」なのであり、従って日本には真の意味での「異民族問題」はない。
ただし、在日朝鮮人への「差別」はあるが、それは「日本人同胞への差別問題」なのである。日本国籍を取得していない人々に関しては「異民族問題」ではなく「滞留外国人問題」である。
日本は単一民族だ、という前提からは、「日本文化の連続性は民族と国の非分離にかかっている」と事々しく言う必要も無さそうだが、当時も今も日本における「異民族問題」は常に政治的文化的問題としてマスコミをにぎわしてきたわけだ。そしてそのことがほとんどの人の「心の棘」であったのである。繰り返し言うが、差別問題は差別問題として真剣に対応するべきであるが、それは「異民族問題」ではなく、「あらゆる日本人の法の下の平等」の問題であるだけだ。



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「文化防衛論」の考察(後段2)

5)~8)を考察する。

5)日本文化の特質は「再帰性」「全体性」「主体性」の三つに要約される。

(考察)この「三つ」が本当に日本文化の特質かどうか疑問だが、個々の説明から考えてみる。

6)「再帰性」とは過去が現在に蘇る、過去と現在の連続性である。

(考察)過去と現在の連続性はあらゆる文化に共通するものであって、あらゆる「新しい創造物」は過去の何かの焼き直しである。つまり、これは「日本文化の特質」ではない。

7)「全体性」とは文化を道徳的に判断するのではなく、倫理を「美的」に判断し、〈菊と刀〉を「まるごと容認」することである。文化は本来「改良」も「進歩」も「修正」も不可能なものであり、包括的に保持するべきものである。

(考察)日本文化の特質を「全体性」であるという主張は三島の主観(個人的意見)でしかないが、「倫理を美的に判断する」というのが日本的だというのは面白い。というより、倫理とは「美的判断」だ、というのは私も別の文章で書いている。つまり、倫理的であるとは「行動が美しい」ということで、たとえば「潔い」とは「清潔だ」の意味であり、まさに美的判断なのである。
「文化は本来改良も進歩も修正も不可能なものだ」というのも三島の個人的意見である。私は「文化は時代とともに変容する宿命があり、ただその中に民族的個性が連綿と続くことがある」という意見で、つまり「文化全体としては改良も進歩も修正もある」という考えだ。また、「改良」も「進歩」も「修正」も不可能なものを「包括的に保持すべき」であるなら、我々は原始人のまま歴史を重ねるしかないだろう。

8)「主体性」とは、文化継承の主体者たる個人における「形(フォルム)」の継承である。人間が「主体なき客観性」に依拠した単なるカメラや機能であってはならない。

(考察)この第一文は私には意味不明である。あまりに論理性が無いのではないか。「日本文化の特徴は主体性である」という主張の説明になっているか? 三島の言いたいのはこんなことかな、というのを「普通の日本語」で書くと、こんな感じだろうか。「日本文化の特質は、過去の文化的達成の『フォルム』を後継者が受け継いでいくところにある。しかし、その受け継ぎ方は、あくまで後継者が主体的に、かつ創造的に引き継がねばならない。先達の単なる物まね(主体性を捨てた『カメラ』で終わること)(先達のコピーという『機能』としての存在に終わること)は、伝統を「主体的に」引き継ぐものではない」

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「文化防衛論」の考察(後段1)

1)~4)について考察する。


1)生きた文化とは単なる〈もの〉ではなく、「行動及び行動様式」をも包含した「ひとつの形(フォルム)」であり、「国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体」である。

(考察)

文化は「行動及び行動様式をも包含している」というのは同感である。つまり、日本人的な特徴として言われる行動や行動様式は「日本文化」の一部だ、というのはあまり反対する人はいないだろう。ただし、後述されるように、文化は非常に包括的なものだとするなら、「日本文化的でないもの、あるいはそう見えないもの」もまた日本文化の一部だ、となるだろうし、現代では文化は世界的な包括性を持っており、たとえばアメリカで発達したアニメが日本的な風味を加えて、それが世界的に受容され、世界のアニメのタッチを変える、ということもあるわけだ。とすれば、「日本文化は広い世界文化の一部になる」わけで、文化を「国民精神が透かし見られる」ものに限定する必要は無いのではないか。日本文化そのものが中国や西洋からの文化を受け入れて発展した「雑種文化」だというのは、多くの人が言っていると思う。
つまり、特定文化の中に見られる「国民精神」は、文化の個性ではあるが、それはいずれは雑多な「世界文化」の単なる風味でしかなくなるのではないだろうか。もちろん、風味は風味として価値があるのである。だがそれを国粋主義的に崇める必要はない、と私は思う。
つまり、文化は変容する宿命を持っている、というのが私の考えなのだが、それは文化を好き勝手に破壊してもいいという思想とはまったく違い、古い文化の継承の中から新しい「フォルム」が生まれ、それがその文化の好ましい発展だということだ。
文化に対する捉え方(国民精神にどの程度の重点を置くか)が異なる時点で、「文化防衛論」を私は否定することになりそうだが、結論を出すのは後にする。(なお、私は〈菊と刀〉がふたつとも大事だということは肯定するが、その比重の置き方が三島とはたぶんまったく違うと思う。私は〈刀〉は抜かないのが最上だ、という思想で、抜けば抜いた本人の死も当然招来する。戦争で言えば、国民の大量死である。その犠牲を払ってまで守るべき「文化」など無い、と私は思う。)


2)日本文化は「行動様式自体を芸術作品化する特殊な伝統」を持ち、「動態」を無視できない。

これは具体例を出して説明されないと意味がつかみにくい。というか、何となくわかったようなわからないような文章だ。たとえば「茶の湯」のようなものだろうか。しかし、「礼法」というのは外国にもあるはずで、茶の湯はその仰々しいものにすぎないのではないか。まあ、さほど重要性の無い一文だと思うので、深くは考えないでおく。

3)日本文化は「菊と刀」を包摂する。

私はルース・ベネディクトの「菊と刀」を読んでいないので、「菊」とは風雅な(文人流の)文化、「刀」は武士的志向だと考えておく。で、実は文と武というのはすべての文化の二大要素なのではないか。ただ、多くの国や民族では「武」を文化だとは考えておらず、また日本でも武は尊重された(というより畏怖された)が、武を「文化」だとは思っていなかっただろう。
三島が指摘するように「文化は行動や行動様式を包含する」と明確に言ったときに、「ああ、なるほど、『武』も文化なのだ」と気づくわけだ。ただし、武とは本来破壊の行為である。つまり「文化を全体としては破壊する行動」である以上、それを「文化」として持ち上げることは危険だと私は思う。日本の王朝文化に詳しいはずの三島が、宮廷では武士(殺生という汚れた行為をする者)は「地下の者」として昇殿できなかったという事実を(うっかりか意図的かは知らないが)見落としているのではないか。

4)日本文化は「オリジナルとコピーの弁別」を持たない。

これは当然の指摘で、たとえば和歌の「本歌取り」など、今なら「著作権侵害」で裁判沙汰になるだろうwww 俳句など類句類想の山である。そして、その類句や類想の作品でも、光るところがあれば高く評価されるわけだ。まあ、だからといって、人まねだけのクリエイターが高い評価を受けるわけもないので、三島のこの指摘はさほど重要ではないと思う。



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「文化防衛論」の考察(前段)

三島由紀夫の「文化防衛論」の考察をしてみる。まず、その内容のエッセンスと私が考える部分を箇条書きにしておく。長いので、考察は後で行う予定である。意味不明な用語や表現もあるが、そのまま書いておく。

1)生きた文化とは単なる〈もの〉ではなく、「行動及び行動様式」をも包含した「ひとつの形(フォルム)」であり、「国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体」である。
2)日本文化は「行動様式自体を芸術作品化する特殊な伝統」を持ち、「動態」を無視できない。
3)日本文化は「菊と刀」を包摂する。
4)日本文化は「オリジナルとコピーの弁別」を持たない。
5)日本文化の特質は「再帰性」「全体性」「主体性」の三つに要約される。
6)「再帰性」とは過去が現在に蘇る、過去と現在の連続性である。
7)「全体性」とは文化を道徳的に判断するのではなく、倫理を「美的」に判断し、〈菊と刀〉を「まるごと容認」することである。文化は本来「改良」も「進歩」も「修正」も不可能なものであり、包括的に保持するべきものである。
8)「主体性」とは、文化継承の主体者たる個人における「形(フォルム)」の継承である。人間が「主体なき客観性」に依拠した単なるカメラや機能であってはならない。
9)日本文化の「全体性と連続性の全的な容認」が大事であり、「菊」と「刀」の一方に偏するような圧制者の偽善から文化を守らねばならない。
10)文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守ることはできない。「守る」とは常に剣の原理である。
11)「献身的契機」のない文化の「不毛の自己完結性」が〈近代性〉と呼称(誇称)され、「自我分析と自我への埋没といふ孤立」により文化の不毛に陥る。「文武両道」とは「主体と客体の合一」が目睹され、「創造することが守ること」となり、「守ること自体が革新することであり、同時に〈生み〉〈成る〉こと」である。
12)文化伝統・言語統一のなされている日本での文化の連続性は、「民族と国との非分離にかかっている」。そして日本には真の意味での「異民族問題」はない。
13)「文化の無差別的包括性」を保持するために「文化概念としての天皇」の登場が要請される。
14)文化概念としての天皇は〈菊と刀〉を包括した日本文化全体の「時間的連続性と空間的連続性の座標軸」(中心)であり、「国と民族の非分離の象徴」である。
15)文化概念としての天皇は、国家権力の側だけではなく、「無秩序」の側に立つこともある。もしも権力の側が「国と民族を分離」せしめようとするならば、それを回復するための「変革の原理」ともなる。
16)「〈菊と刀〉の栄誉が最終的に帰一する根源」が天皇であり、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと」こそが日本および日本文化の危機を救う防止策になる。


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「文化防衛論」における詩と論理

三島由紀夫の「文化防衛論」は二十代初期に読んで、ほとんど半ページも理解できなかったが、今はウィキペディアという便利なものがあって、その要旨を説明してくれている。まあ、これでも半分くらいしか分からないが、彼の言っていることが「論理」か「詩(論理を超越した直覚)」かくらいは分かる気がする。それで言うと、彼の本音は「日本文化=天皇」という大原則だけにあり、それに関して書かれた論理は論理と言うより詩的譫言(うわごと)に思える。そして、彼が「菊と刀」の両方とも日本文化には必要だ、としたのは、おそらく戦争末期に兵隊として戦死しなかったことへの屈辱感や自責の念が心底にあったと思う。もちろん、戦場で死にたかったというのは、彼の詩人的ロマンチシズムである。と同時に軟弱な文人である自分への嫌悪感も常にあっただろう。彼が太宰治を嫌いだったのは、自分の弱さを平気で表に出し、ある意味売り物にしていた、その姿勢のためだったと思う。

(以下引用)

発表経過[編集]

1968年(昭和43年)、雑誌『中央公論』7月号に掲載され、初版単行本は翌年1969年(昭和44年)4月25日に新潮社より刊行された[2][3][注釈 1]。同書には他の評論や講演も収録されている[4]


翻訳版は、フランス語(仏題:Défence de la culture)で雑誌『Esprit』『février』(1973年)に掲載された[5]

内容・あらまし[編集]

文化主義と逆文化主義
「華美な風俗」だけが氾濫する戦後の日本文化の衰退や形骸化を「近松西鶴芭蕉もゐない昭和元禄」と皮肉る三島由紀夫は、何故そのように「の深化」を忘れた文化に陥ったのかを探り、その原因を、戦後の占領政策から端を発した外務官僚や文化官僚の手による「〈〉の永遠の連環を絶つ」政策にあると指摘し、それは社会主義国や革新政党の文化綱領とも共通する〈文化主義〉、つまり「文化をそのみどろの母胎の生命生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によつて判断しようとする一傾向」の支配にあると断じる。
その〈文化主義〉とは、「市民道徳の形成に有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧すること」であり、文化を〈もの〉(博物館的な死んだ文化)として観賞する「寛大な享受者」の芸術主義により、安全に管理された平和な〈人類共通の文化財〉であり、対外的には「日本の免罪符」ともなり、大衆ヒューマニズムを基盤とした「見せかけの文化尊重」である。
そのような偏った〈文化主義〉は、一度ひっくり返れば、中国共産党文化大革命のような、革命精神のために「目に見える一切の文化」を全て破壊せしめる〈逆の文化主義〉〈裏返しの文化主義〉にも通じ、非武装平和・平和憲法精神のためなら、日本は一切無抵抗で外敵に皆殺しにされてもかまわないという極論に直結するものである。
日本文化の国民的特色
生きた文化とは、単なる〈もの〉ではなく、「行動及び行動様式」をも包含した「一つの(フォルム)」であり、「国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体」である。日本文化は、「行動様式自体を芸術作品化する特殊な伝統」を持ち、「動態」を無視できない。三島は日本文化の「フォルム」をこう説明する。
文化とは、の一つのから、月明の夜ニューギニアの海上に浮上した人間魚雷から日本刀をふりかざして躍り出て戦死した一海軍士官の行動をも包括し、又、特攻隊の幾多の遺書をも包含する。源氏物語から現代小説まで、万葉集から前衛短歌まで、中尊寺仏像から現代彫刻まで、華道茶道から、剣道柔道まで、のみならず、歌舞伎からヤクザチャンバラ映画まで、から軍隊作法まで、すべて「菊と刀」の双方を包摂する、日本的なものの透かし見られるフォルムを斥す。— 三島由紀夫「文化防衛論」
また、日本文化は、「オリジナルコピーの弁別」を持たない。伊勢神宮の20年毎の式年造営のように、いわばコピーに「オリジナルの生命」が託され、「コピー自体がオリジナルになる」のである。これは天照大神と各代の天皇との関係と同じである。
国民文化の三特色
日本文化の特質は「再帰性」「全体性」「主体性」の三つに要約される。「再帰性」とは、文化が過去にのみに属する「完結したもの」ではなく、現代の日本人の主体に蘇り、現在の時に「連続性と再帰性」が喚起されることである。「全体性」とは、文化を道徳的に判断するのではなく、倫理を「美的」に判断し、〈菊と刀〉を「まるごと容認」することである。文化とは本来は「改良」も「進歩」も「修正」も不可能なものであり、包括的に保持するべきものである。「主体性」とは、文化創造の主体者たる個人における「形(フォルム)」の継承である。人間が「主体なき客観性」に依拠した単なるカメラ機能であってはならない。
何に対して文化を守るのか
このような日本文化の「全体性と連続性の全的な容認」が大事であり、現代の日本では「刀」(尚武の要素)が絶たれた結果、「際限のないエモーショナルなだらしなさ」が氾濫し、かたや戦時中は『源氏物語』などが発禁、言論統制されて「菊」(文雅の要素)が絶たれた結果、逆方向に偏ったのである。よって圧制者の「ヒステリカルな偽善」から、文化のまるごとの容認、包括性を守らなければならない。三島は防衛についてこう説明する。
ものとしての文化の保持は、中共文化大革命のやうな極端な例を除いては、いかなる政体の文化主義に委ねておいても大して心配はない。文化主義はあらゆる偽善をゆるし、岩波文庫は「葉隠」を復刻するからである。しかし、創造的主体の自由と、その生命の連続性を守るには政体を選ばなければならない。ここに何を守るのか、いかに守るのか、といふ行動の問題がはじまるのである。守るとは何か? 文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守らうといふ企図は必ず失敗するか、単に目こぼしをしてもらふかにすぎない。「守る」とはつねに原理である。— 三島由紀夫「文化防衛論」
そして、もしも「守るべき対象」が、「生命の発展の可能性と主体」のない「受動的」なだけの存在で、守る側と守られる側との間に「同一化の機縁」がなければ、単なる博物館の宝石護衛のような脆弱な関係性しか生じず、最終的には、との極限状態においてパリ開城のような「敗北主義」あるいは、「守られるべきものの破壊」に終わる可能性を秘めている。よって、「〈文化を守る〉といふ行為」にも、「文化自体の再帰性と全体性と主体性への、守る側の内部の創造的主体の自由の同一化」が予定されていなければならず、文化を防衛する行為自体が一つの文化的行為になり、そこに「文化の本質的な性格」が現われるのである。
創造することと守ることの一致
われわれが守る対象は、思想でも政治形態でもなく、「日本文化」であるが、その〈守る行為〉はおのずから「生命の連続性を守るための自己放棄」の性質をも帯びる。このような「献身的契機」のない文化の「不毛の自己完結性」が〈近代性〉と呼称され、「自我分析と自我への埋没といふ孤立」により文化の不毛に陥る。「文武両道」とは、「主体客体の合一」が目睹され、「創造することが守ること」となり、「守ること自体が革新することであり、同時に〈生み〉〈成る〉こと」である。
戦後民族主義の四段階
〈菊と刀〉をまるごと包括する文化を連続させうる「共同体原理」は戦後解体されてしまったものの、「情動的要素」を含む「民族主義」は、戦後のあらゆる局面に現われた。第一には、占領下の一時的な革命空想や、吉田内閣における平和憲法を逆手にとった政策の成功にも民族主義が潜在し、第二には、東京オリンピックにおける民族主義的ピーク、第三には、エンタープライズ事件を契機に、支柱をなくした「国民の自主防衛意識」が、反政府と反米ベトナム戦争反対と結びつき共産主義に利用された。よって共産主義()にもファシズム)にも利用されやすい「民族主義のみ」を「国家」に代るものとする危険性は、これからも内包されている。
米国のような多民族国家とは違い、すでに文化伝統・言語統一のなされている日本での文化の連続性は、「民族との非分離にかかつてゐる」のであり、「民族主義」に対して国家が「受身」になるという状況はありえず、日本には真の意味での「異民族問題」はない。従って、あえて「在日朝鮮人問題」を〈抑圧されて激発する異民族〉という米国の黒人問題のイメージと重ねて内部問題化させる左翼の意図は、「分離状況の強調」であり、最終的に「国を否定して民族を肯定しようとする」戦術政治手段である。このような第四の、日本を「非分離」に導こうとする〈手段としての民族主義〉に騙されてはならない。三島は次にやって来る時代の、その変容する政治的イメージをこう説明する。
金嬉老事件は、ジョンソン声明に先立つて、或る時代を予言するやうなすこぶる寓意的な起り方をした。それは三つの主題を持つてゐる。すなはち、「人質にされた日本人」といふ主題と、「抑圧されて激発する異民族」といふ主題と「日本人を平和的にしか救出しえない国家権力」といふ主題と、この三つである。第一の問題は、沖縄新島の島民を、第二の問題は朝鮮人問題そのものを、第三の問題は、現下の国家権力の平和憲法と世論による足カセ手カセを、露骨に表象していた。そしてここでは、正に、政治的イデオロギーの望むがままに変容させられる日本民族の相反する二つのイメージ――外国の武力によつて人質にされ抑圧された平和的な日本民族といふイメージと、異民族圧迫の歴史の罪障感によつて権力行使を制約される日本民族といふイメージ――が二つながら典型的に表現されたのである。— 三島由紀夫「文化防衛論」
文化の全体性と全体主義
日本民族の「合意」とは、「日本がその本来の姿に目ざめ、民族目的と国家目的が文化概念に包まれて一致すること」にあり、その「鍵」は「文化にだけある」のである。〈菊と刀〉をまるごと容認する政体の実現性は、「エロティシズムを全体的に容認する政体」は可能であるかという問題に近い。左右の「全体主義」は、文化の「全体性」(文雅と尚武の包括)を敵視するものである。
言論の自由」はときには文化の腐敗を招く欠点はあるものの、相対的にはこれを保障する政体が実務的なものとして最善である。しかし自由そのものは内部から蝕まれる危惧があるため、唯一イデオロギーに対抗しうる「文化共同体の理念の確立」が必要となり、「文化の無差別包括性」を保持するために、「文化概念としての天皇」の登場が要請されるのである。
文化概念としての天皇
文化概念としての天皇は、〈菊と刀〉を包括した日本文化全体の「時間的連続性と空間的連続性の座標軸」(中心)であり、「国と民族の非分離の象徴」である。〈みやび〉の文化は、危機や非常時には「テロリズムの形態」さえ取る。孝明天皇の大御心に応えて起った桜田門外の変の義士はその例であり、天皇のための蹶起は、文化様式に背反せぬ限り、容認されるべきであったが、西洋的立憲君主政体に固着した昭和天皇制は、二・二六事件の「みやび」を理解する力を喪っていた。よって文化概念としての天皇は、国家権力の側だけではなく、「無秩序」の側に立つこともある。もしも権力の側が「国と民族を分離」せしめようとするならば、それを回復するための「変革の原理」ともなるのである。
日本の文化を防衛する行為自体が文化的行為であり、その「再帰性」「全体性」「主体性」により、守る行為自体が守られるべき対象であるという論理の円環の中心には、日本文化の「窮極の価値自体(ヴェルト・アン・ジッヒ)」である「文化概念としての天皇」が存立し、「〈菊と刀〉の栄誉が最終的に帰一する根源」が天皇なのである。よって軍事上の栄誉も、文化勲章同様に、文化概念としての天皇から付与されなければならない。それは、政治概念によって天皇が利用されることを未然に防ぐことでもあり、「天皇と軍隊を栄誉のでつないでおくこと」こそ、日本および日本文化の危機を救う防止策となるのだと三島は提起する。

評価・研究[編集]

『文化防衛論』は、橋川文三の「文化概念としての天皇は、政治概念としての天皇にすりかわり、これが忽ち文化の全体性の反措定になることは、すでに実験ずみではないか」という疑問に対して[6]、三島がそれに反論した以下の文に三島の基本的立場が明確になっているとされ[7]、日本の「権力」という問題が浮上していた1960年代の「ラディカリズムの季節」の戦後的なものが、三島の文化天皇論を発現させ、「行動原理を内包する思想」の実現へ進展させた背景だと鈴木貞美は解説している[7]

私が、天皇なる伝統のエッセンスを衍用しつつ、文化の空間的連続性をその全体性の一要件としてかかげて、その内容を「言論の自由」だと規定したたくらみに御留意ねがひたい。なぜなら、私はここで故意にアナクロニズムを犯してゐるからです。過去二千年に一度も実現されなかつたほどの、民主主義日本の「言論の自由」といふ、このもつとも先端的な現象から、これに耐へて存立してゐる天皇といふものを逆証明し、そればかりでなく、現下の言論の自由が惹起してゐる無秩序を、むしろ天皇の本質として逆措定しようとしてゐるのです。(中略)私は、文化概念としての天皇、日本文化の一般意志なるものは、これを先験的に内包してゐたと考へる者であり、しかもその兆候を、美的テロリズムの系譜の中に発見しようといふのです。すなはち、言論の自由の至りつく文化的無秩序と、美的テロリズムの内包するアナーキズムとの接点を、天皇において見出さうといふのです。— 三島由紀夫「橋川文三への公開状」[8]

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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