日本人の多くは知らないだろうし、知っていてもあまり口にしないのだろうが、日本軍は中国で重慶無差別爆撃というのをやっている。重慶市だろうし、「無差別」だから、つまり重慶市民への爆撃だと思われる。とすれば、大戦末期の東京空襲や大阪空襲、あるいは広島や長崎への原爆投下を批判する資格は当の日本人には無いような気がする。原爆に関しては、日本政府の降伏受諾は目前だったのは明白だと思われるので、黄色い猿を相手の「実験目的」の要素が強いと思われ、より悪質ではあるが、戦争とはもともとそういうものであり、一般市民を極力殺さないというのはあの大戦の時にはほとんど有名無実化していただろう。
(以下「ウィキペディア」から記事の一部を引用)
作戦の実行[編集]
爆撃は主に1939年から1941年の、視界が確保できる春から秋の間に行われ、投下した爆弾は1940年には延べ4333トンに達した[2]。爆撃は海軍航空隊、陸軍航空隊それぞれが日程調整のうえ実施した。爆撃目標は「戦略施設」であり、1939年4月の現地部隊への指示では、「敵の最高統帥、最高政治機関の捕捉撃滅に勤めよ」とあり、アメリカ・イギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていた。しかし重慶の気候は霧がちで曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目標施設以外に被害が発生する可能性があった。そのため後期からは目標付近に対して絨毯爆撃を行った。
重慶爆撃のなかでも特に大規模な絨毯爆撃であったのが、海軍主導によって行われた1940年5月17日から9月5日までの百一号作戦、および1941年5月から8月までの百二号作戦である。日本の軍中枢で日中戦争とは別に対アメリカ・イギリス・オランダとの開戦が取りざたされはじめたことから、海軍、特に中国方面で作戦指導にあたっていた井上成美支那方面艦隊参謀長らが、日中戦争の早期終結を目的に提言した作戦であった。
一方で陸軍ではこの百一号作戦と百二号作戦に対して飛行部隊を一時協同させたものの、効果が薄く無意味かつ非人道的・国際法に反する行為であるとして絨毯爆撃に強く反対する声があり、第3飛行団長として重慶爆撃を実施していた遠藤三郎陸軍少将が中止を主張、上級部隊である第3飛行集団長木下敏陸軍中将に「重慶爆撃無用論」を1941年9月3日に提出している(遠藤第3飛行団長は実際に重慶を爆撃する九七式重爆に何度も搭乗し、その無意味さ・非人道性を確認している)。この「重慶爆撃無用論」は参謀本部作戦課にまで届き採用され、陸軍は重慶爆撃への参加を中止することとなった[3]。
爆撃の効果[編集]
「防空壕に戻ろうとして踏みつけられたり窒息したりして死亡した人々」とされる写真
日本軍の航空部隊は蒋介石の国民党政府を屈服させることは出来なかった。また、百二号作戦で蒋介石の司令部の位置を特定し施設を狙った爆撃を行ったとしている資料もあるが、そもそも当時の航法の限界(無線やレーダーなどの誘導方法は当時存在しない)もあり、司令部施設に命中弾は無かった(2発命中とも言われるが、どちらにせよ蒋介石は無事だった)。
国民党司令部をピンポイントで狙ったという主張に対しては、成功の可能性や被害地域の広さから疑義が呈せられている。当初はある程度そのように意図した作戦だったものの、効果が上がらない為に目標付近を虱潰し攻撃する絨毯爆撃にシフトしていったとする説が有力である。
国民党政府は軍事施設を重慶市内に置き住民を盾として、空爆に対する充分な都市防御策を取っておらず、防空壕の不足や換気装置の不備による事故などもあり、多数の犠牲者が発生した。
1トン足らずの爆弾しか積めない日本軍の爆撃機による爆撃の効果については、日本軍内部に疑問視する声もあった。しかし、現実には中国軍に与えた心理的な影響は大きく、蒋介石の日記によれば、ほとんど戦争を単独で遂行することができないまでに追い込まれたと感じていたという。
この重慶爆撃に際しては、当時の日本軍戦闘機の航続距離が爆撃機のそれに及ばないため、奥地の重慶まで爆撃機を掩護できず、そのため日本軍爆撃機にかなりの被害が発生した。重慶爆撃以前に立案され開発が進められていた十二試艦上戦闘機が零式戦闘機として制式化、初めて戦線に投入され13機の零戦で27機の国民党軍機を全滅させる戦果を得るなど、重慶爆撃に貢献している。
爆撃への評価[編集]
重慶爆撃は、アメリカなどの連合国軍による日本本土空襲や広島・長崎への原子爆弾投下の正当性の根拠としても利用された。一方で、日本の戦争犯罪を裁く極東国際軍事裁判では、連合国による大規模な日本無差別爆撃で重慶爆撃は問題とされず起訴もされなかった、絨毯爆撃を提案し百一号作戦と百二号作戦を推し進めた井上成美海軍大将なども戦犯指定はされていない。
この爆撃による被害の規模については推測に頼る部分も大きい。さらに、それを日本軍がどの程度意図していたか、または作戦の付随的影響として許容されると判断していたかについても諸説あり、現在も論争の対象となっている。