忍者ブログ

中国での事件の他国での報道にご注意

「脳死世界」引用記事だが、記事の末尾(赤字にしておく)が事件とまったく関係のない、〈経済が悪化したからこういう事件が起こるのだ〉、という無理やりの「中国disり」になっているのが面白い。東海アマ氏の記事に似ている。なお、記事タイトルの「2つの大学で血みどろの襲撃事件」も事件内容の捻じ曲げであり、うちひとつは「襲撃事件」ではない。単に発作的犯行での傷害致死事件である。襲撃事件とは基本的に、計画的犯行で複数人によるものだ。


(以下引用)

報道によると、福建省と遼寧省の2つの大学で血みどろの襲撃事件が発生し、5人が死亡、3人が負傷した

ntdtv.com 2025/04/25


传福建、辽宁两高校发生砍人血案 共5死3伤



中国社会では、たびたび極端な事件が頻繁に発生しているが、最近、福建省と遼寧省の大学で刺傷事件が発生し、5人が死亡し、3人が負傷したとの報道がなされた。 6人が死亡したという情報もある。


4月18日、福建理工大学で凶悪な殺人事件が発生したとネット上で報じられた。学生がゲームをしながら口論になった。少年が別の少年をナイフで刺し、その後、自分も飛び降りて死亡した。


インターネット上に出回っているビデオや写真には、部屋の中の白い箱の横に人が横たわり、地面に大量の血が流れている様子が映っている。箱にも血が飛び散り、底が赤く染まっていた。


もう1枚の写真には、階下の地面に横たわる人物と、現場に救急車と医療スタッフがいる様子が写っている。


他の学生のチャット記録によると、2人の学生が Da Wa というゲームをめぐって対立した。犯人の一人はルームメイトをナイフで切り殺し、その後ビルから飛び降りた。二人とも死亡した。


4月24日には、遼寧省の遼寧鉄道職業技術学院で電力供給を専攻する学生が早朝、ルームメイトを刃物で切りつけ、クラスメート 3人を殺害、3人に負傷を負わせたとネット上で報じられた。


関連ニュースはすべて中国本土のインターネットから削除された。しかし、SNS の検索履歴を見ると、「遼鉄 3人​​死亡、3人負傷」事件、「錦州学生刺傷事件」、「錦州遼鉄斬殺事件」など、この事件に関連する検索キーワードが複数あることが分かる。


中国では最近経済が不況に陥っており、さまざまな凶悪事件が多発している。中国共産党当局はインターネットの封鎖を強化し、ネガティブなニュースを遮断するために全力を尽くしている。

 

拍手

PR

アメリカ経済の衰退とアメリカ文化の衰退

今朝の未明の散歩はほんの少し小雨で、歩いているうちに「明日に向かって撃て」の主題歌「雨に濡れても」が頭の中で再生され、散歩の間じゅう、「そう言えば、アメリカ映画のヒットやアメリカで流行った歌が日本で聞かれることがなくなったなあ」という考えが頭の中に浮かんでいた。それは、アメリカの衰退を如実に表しており、その点ではアニメや漫画が今まさに世界に浸透しつつある日本はまだマシかな、とも考えたが、それもこのままでは衰退する可能性もあるだろう。いずれにしても、少し前までの「アメリカ文化」がこれほど見事に消えていったのは凄い。これは、どういうことだろうか。それは欧州文化も同様である。つまり、経済の衰退と文化の衰退は同期しているということだろうか。
なお、ベトナム戦争で「自己反省」したアメリカだが、それでも下の映画のころまでは「向日性」を持っていた。それは、「雨に濡れても」の歌詞でよく分かる。

「雨(不幸を意味する)は僕を打ち負かしはしない。そいつはそんなに長くは続かないし、その後には幸福が僕にやって来るのだから」という趣旨だ。

なお「明日に向かって撃て!」という日本語題名も「雨に濡れても(Raindrops falling on my head)」という日本語訳も素晴らしい。原題以上のセンスである。昔の人たちの言語感覚は抜群だった。

(以下引用)

明日に向って撃て!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

監督ジョージ・ロイ・ヒル
脚本ウィリアム・ゴールドマン
製作ジョン・フォアマン
製作総指揮ポール・モナシュ
出演者ポール・ニューマン
ロバート・レッドフォード
キャサリン・ロス
音楽バート・バカラック
主題歌B・J・トーマス
雨にぬれても
撮影コンラッド・L・ホール
編集ジョン・C・ハワード
製作会社ニューマン/フォーマン・カンパニー
配給20世紀フォックス
公開アメリカ合衆国の旗 1969年9月23日
日本の旗 1970年2月21日
上映時間110分
製作国アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語英語
製作費1,200万ドル(43億円)
次作新・明日に向って撃て!
テンプレートを表示

明日に向って撃て!』(あすにむかってうて、原題: Butch Cassidy and the Sundance Kid)は、1969年公開のアメリカ合衆国映画である。実在の銀行強盗ブッチ・キャシディサンダンス・キッドの逃避行を題材にした西部劇


アメリカン・ニューシネマの代表作の一つとされる。ストップモーションを効果的に使用したラストは映画史に残る名シーンとして知られ、主題歌「雨にぬれても」もヒットした。2003年アメリカ国立フィルム登録簿に登録された。

登場人物

[編集]
ブッチ・キャシディ
演 - ポール・ニューマン
強盗団のボス。頭脳派だが人を撃ったことはない。
ザ・サンダンス・キッド
演 - ロバート・レッドフォード
ブッチの相棒。早撃ちの名手。
エッタ・プレイス
演 - キャサリン・ロス
学校の教師。サンダンスの恋人。
パーシー・ギャリス
演 - ストローザー・マーティン
鉱山の管理人。ブッチとサンダンスを雇う。
ブレッドソー
演 - ジェフ・コーリー
保安官。服役していたブッチを温情から釈放する。
ウッドコック
演 - ジョージ・ファース
金庫番。仕事には忠実。
アグネス
演 - クロリス・リーチマン
売春宿の経営者。
ハーヴェイ・ローガン
演 - テッド・キャシディ
ボスの座を狙っている。
ニュース・カーヴァー
演 - ティモシー・スコット
ハーヴェイの相棒。

拍手

来年4月 自転車法規改正(改悪)

自転車の歩道走行は歩行者の迷惑ではあるが、完全禁止は「自転車に乗るな」だろう。自転車でしか通えない通学生はどうなる。
そもそも、自転車法規やマナーをどこでどう教えているのだ。小学校や中学校もくだらない授業より、こういう社会マナーや基本法規を教えるべきだ。道路を歩くにもマナーはあるのである。

(以下引用)

【悲報】自転車で歩道走ったら罰金6000円 来年4月から

2025年04月26日 00:30:59 のりもの 歩道 来年月日 重傷事故 警告 青切符 悲報 死亡 反則金 警察庁 警察官
64
Xで共有
ByyiTBVCUAA9lxQ
自転車の交通違反に反則金を科す「青切符」による取り締まりが来年4月からスタートすることが決まりました。スマートフォンを使いながら運転する「ながら運転」は1万2000円の反則金となります。
「ながら運転」による自転車の死亡・重傷事故が去年、過去最多となるなか、警察庁は、自転車の違反行為を反則金の対象とする改正道路交通法施行令を来年4月1日に施行する方針を決めました。
反則金は警察官の警告に従わなかったり、危険を生じさせた際の交付を想定していて、16歳以上による113の違反行為が対象となり、次のような運転に適用されます。
▼スマホの「ながら運転」:1万2000円
▼信号無視や逆走、歩道を走る:6000円
▼指定場所で一時停止しない:5000円
▼車に追い抜かれる際に道路の左側に寄らない:5000円
▼2台並んで走ることや2人乗りなど:3000円
▼傘を差したりイヤホンを付けながら運転:5000円
▼ブレーキが利かない自転車に乗る:5000円
※詳しくは下記リンクより
https://www.fnn.jp/articles/-/862378
>>r1 今まで以上に意地でも歩道走らないヨロヨロジジババ自転車増えてうざいな、自転車通行可の標識の周知させてくれ
>>r1 いくらでも該当者いそう。ここまでガチガチに固めるなら免許制にするとか教習やったほうがいいのに。というか自転車より先にまずLUUPなんとかしてくれ
>>r1 歩道は臨機応変に対応してほしいなぁ そもそもチャリを車道に走らせる為の整備が進んでないだろ
>>r1 専用道以外走行禁止にすれば早い。高速道路と同じで自転車専用道を自転車税で整備だ
>>r1 自転車もずいぶん不便な乗り物になったな ここまできたらもう2種原付でも乗ったほうがいいだろ 
>>r1 チャリは邪魔だから壁にめり込むぐらい左に寄れよ?な?
>>r1 街頭で警官見かけたら容赦なくブチ殺せ マトモな人間は絶対に警官にはならない 警官やっている奴は例外なく人間のクズ

拍手

学校という刑務所

最新のニュースだが、記事よりもコメント(複数)のほうが「考えるべき」内容を含んでいるのでそちらを転載する。そのコメントは自分も学校時代は暗い時代だったという内容が多い。つまり、今の学校制度は生徒を幸福にしていないということだ。
で、あなたたちは、今の自分には関係ない話だとして無視するのか?

(以下引用)

【速報】高校1年生の女子生徒が植え込みで倒れて見つかり死亡 校舎5階の窓から飛び降りか 神戸市

読売テレビ配信





コメント248




    • vme********

      親として考えさせられます。うちも同じ高校1年の男子の子供がいます。入学式以降から全く友人ができず、毎日面白くないと言ってます。受験勉強必死で頑張って合格して喜んだ進学校なんで皆勉強できる子ばかりなんでイジメてくる子はいないそうでそこは安心らしいけどとにかく話しができる子がいない、弁当も今も1人で食べているらしい。中学の時の方が楽しかったと言う。毎日表情が暗く心配です。




    • nyaaaa

      学生のときは学校が全てだった。 長い人生の一部、たった数年、ここだけが居場所じゃないなんて思えなかった。 いじめられても恥ずかしくて親にもきょうだいにも言えなかった。 不登校になりたくなかった。 ここで学校行かなかったら人生詰むんじゃないか、まともな大人にならないんじゃないかという不安に襲われた。 いろんな感情からまともな判断や考えがだんだんできなくなっていんだよね。 学校内でおさめられないか、教師にも相談したけど「気のせいじゃないか」「自分にも原因があるんじゃないか」と言われて終わった。 目の前でいじめが繰り広げられても見て見ぬふり。 絶望したな。 この子は入学してまだ1ヶ月も経っていない。 原因はわからないけど、もしいじめなのだとしたら加害者には厳しい判断をくだしてほしい。




    • pti********

      中学の教員です。私もこの春、市外から転勤してきて中三の担任をしていますが、プレッシャーもあるし新たなシステムに慣れず、同僚や生徒に迷惑かけています。生徒の前では泣き言など言えないから平気なふりをするけれど、1人になると時に心が折れそうになります。環境が変わり、人間関係ややることも変わってくると誰でもこんな時はあります。苦しい時はまず自分を守る事だけ考えませんか。学校も仕事も世の中にはいくらでもあるけど、あなたの命は一つ。命と引き換えにしたくなったら、迷わず避難してあなたを守ってください。何も考えなくていい。自分を責める必要もなし!ただただ、命を守ってください。お願いします…




    • fxg********

      中学生高校生ってとても難しい年頃ですよね。 私もいじめこそありませんでしたが、学生生活に良い思い出はありません。 1軍2軍3軍のようなくくりができ、今でこそ可笑しいと思えますが、その構図がすごく嫌でした。 この子は何が理由なのかわかりませんが、楽しいって学校に通えるのは、とても幸せなことなんだなと思います。 学校に行ったら、友達に会える、勉強が楽しい、部活を頑張りたい、 なにか一つでいい、楽しみを見つけて、人は人、私は私と考えられる人になってほしい。 あの頃の私にも言いたい言葉です。 御冥福をお祈りいたします。




    • gke********

      悲しいですね。 現代を生きる子供達の社会は複雑です。 便利なスマホは匿名で悪口を送れ自分の知らないところで写真を流されたり。 今回どのような背景があったのかは分かりませんがもし学校という場所が辛くなったら学校以外の選択肢(通信制高校等)もあるよということをもっともっと親にも子供にも周知して欲しいです。 卒業資格が得られること途中転入であっても取得した単位が引き継げることがあること。 命をかけて学校に行く必要はないです。 辛くなった時は誰もが当たり前の選択肢として身近に選択できる様風通しの良い情報提供が必要ではないでしょうか。



    拍手

    藤純子とゲバルト・ローザ

    図書館から借りてきた10冊の本のうち、小説は軒並みつまらない感じなので、評論の類を読んでいるが、その中に「上野千鶴子が文学を社会学する」という本を気まぐれ的に借りていて、まだ少ししか読んでいない(流し読み、拾い読みしかしていない)が、それがなかなか面白い。
    何しろ、上野千鶴子という女性は、男から見ると、近づくと呪われるという「たたり神」みたいな印象で、どうせ男への罵言だらけだろうと思っていたが、そうでもない。もちろん、フェミニズム的立場からの評論と言っていいかと思うが、文章は面白いし、頭がいい。

    で、漠然とした印象だが、フェミニズムの最大の問題は、それ自体が女性に不利益を与えている面がかなり大きいのではないか、ということだ。その運動家が「男は女の敵だ」みたいなことばかり言っているという印象が社会的に流布されているせいだろうし、それはまた一面の事実でもあるのではないか。そしてそういう姿勢は(もし、それが事実なら)「男に愛されたい、男を愛したい」という女性をどんどん社会の片隅に追いやることになり、とどのつまりは社会の非婚化と少子化への最大貢献はフェミニズムである、ということになる。(まあ、非婚でも子供を作ることはできるが。)
    上野自身が、そういう一面を次のように(「以下引用」部分に)書いている。

    *念のために言えば書かれた内容にすべて同感しての引用ではない。たとえば

    そして女を二種類に分けることで対立させ、分断支配することこそ、男性支配の定石ではなかったか

    というの(女性の二分化と対立)は、むしろ戦闘的フェミニズム運動によって生じ、拡大したものではないか、と私は思っているが、むろんマスコミによる印象操作もあるだろう。

    (以下引用)「ゲバルト・ローザ」は革命家ローザ・ルクセンブルグのことかと思う。(注)は夢人による。

    反体制運動が、「もうひとつの家父長制」、エリートになりそこねた男たちによる対抗エリート主義にほかならなかったことは、新左翼の男たちが愛した任侠ものの映画にも見ることができる。彼らは、命をかえりみず死地におもむくやくざのヒーローを演ずる高倉健に同一化し、喝采をおくった。そして柱の陰には、男を見送るかれんな藤純子が袖をかみしめて涙をこらえている、という通俗的な構図である。
    その時、女にはふたつのオプションがあった。「藤純子」を演ずるか、「ゲバルト・ローザ」になるか、言い換えれば、男に尽くし愛される「かわいい女」になるか、それとも男の価値を内面化して男並みの女になるか。新左翼の多くの女は、この両極にひきさかれた。男に愛されようとすれば、「戦力」にならない「女らしさ」の中に甘んじなければならず、男なみの能力を発揮しょうとすれば「男まさりの女」として、男から愛されることを断念しなければならない。そしてどちらも「男につごうのよい女」という意味では、大塚(注:大塚英志のこと)の言うとおり「かわいい女」ではあったのだ。カリカチュアライズすれば、連合赤軍の「総括」とは、「ゲバルト・ローザ」による「藤純子」の殺害であった。そして女を二種類に分けることで対立させ、分断支配することこそ、男性支配の定石ではなかったか。

    (中略)

    リブの闘士、田中美津は、「永田洋子はあたしだ」と宣言する。「永田洋子はあたしだ」という、この誤解をまねきやすい言い方で、あいかわらず逆説的に田中が意味するのは、「男に尻尾をふる女」と「ふらない女」とのあいだが、「紙一重」の違いであるという事実である。そこには、すべての女は永田洋子になる可能性を持っているという、女じしんの加害性に対する想像力がある。




    拍手

    「象徴」としてのナポレオン

    昨日も書いた中野剛志の「国力について」は、書かれたことに異論を持つこともあるが、私の気づかなかったことを気づかせる「啓発的」な記述も多い。
    たとえば、次の一文などは、誰も指摘しなかったことではないだろうか。

    例えば、フランス革命は、民主主義と同時に、フランスのナショナリズムを産み落とした。(同書118頁)

    実は、これ(民主主義ナショナリズム)がナポレオンの「勝利の秘密」だった、というのが私の推定だ。
    フランスが敵対した国々の軍隊は基本的に「傭兵」と同じ性質(兵士の個人的利益のために戦う軍隊)だったのに対し、フランス軍は「国民軍」であり、国家の利益のため、つまり「自分たち全体」のために戦ったのである。当然、前者は自分の命を守ることが最優先(戦闘後に生き残れば褒賞が得られる。つまり、戦闘では逃げ回るのが賢明)であり、後者は戦闘での自軍の勝利が最優先になる。どちらが強いかは自明だろう。
    そして、兵士たちは、自分たちがなぜ勝てるのかの理由を知らないから、それは「戦闘を指揮していたナポレオンが優秀だからだろう」ということになる。また兵士自身がそう信じることで軍隊はさらに力を得るのである。「俺たちはナポレオンが指揮しているから負けるはずがない」となるわけだ。
    これが、前回書いた「象徴の力」である。ナポレオンは誕生したばかりの「国民国家」の象徴だったのである。だから彼はどんどん出世してしまいには皇帝にまでなったわけだ。そして自分の力を過信したナポレオンは無意味なロシア遠征(「自国防衛の戦争」ではないから兵士たちには特に無意味であった。)を行い、その敗北で象徴としての力を失ったのである。

    拍手

    国民と国家と国民統合の「象徴」

    「ナショナリスト」には「国民主義」と「国家主義」のふたつの意味があると前に書いたが、その両者は重なっている、という、当たり前といえば当たり前の論説を、これも新古書店で買って流し読みしている中野剛志の「国力とは何か」の中で述べている。やや怪しげな(つまり、納得しがたい)論説部分もある。これも当たり前だ。すべて自分と同じ考えなら他人の書いた本を読む意義はない。


    引用部分は、「天皇」という存在の意味(あるいは「民主主義の根本的曖昧さ」)についての、あまりほかの人が言わない説明で、私はほぼ同感だが、反天皇主義者が頭の毛を逆立てそうな内容かもしれない。

    (以下引用) 

    民主国家では、国民主権といって、国民があらゆる政治的意志決定を行うとされる。しかし、国家そのものまでも、民主的に創設できるわけではない。それはなぜか。主権者である国民の範囲を、国民が民主的に決定することができないからなのである。
    国民主権が成立するためには、あらかじめ、誰が主権者の国民であるかが決まっていなければならない。しかし、誰が国民であるかを国民が民主的に決めることは、論理的に不可能である。誰が国民であるのかを決めるのは、国家の境界線である。つまり、「はじめに国家ありき」なのである。
    国民の範囲は、民主的に決めることができないのであるなら、それは非民主的な手続きによって決められなければならない。非民主的な決定方法の一つは、暴力によるものである。(中略)国民の境界線が民主的に引くことができず、暴力的に決めるのが望ましくないのであれば、権威主義的に、すなわち人々に有無を言わせず決めるしかない。だから国家には「権威」が必要になる。
    権威は「象徴」という目に見えるような形で表現される。国家は「象徴」が人々の心理に及ぼす力を利用して、人々に国家の権威をイメージさせ、受け入れさせるのである。こうして国家は象徴の力を利用して、人々を統合するのである。国家が国旗や国歌といった象徴をもち、象徴的な儀式を国事行為として執り行うのは、そのためである。
    日本国憲法にも、第一条において、天皇は国民統合の「象徴」であると書いてある。それは、天皇が実体のない単なるお飾りだということではない。国民を統合する力の源泉が「象徴」であり、それが日本の場合は天皇であるということである。
    もっとわかりやすい例を挙げよう。戦争において勝利した国は、しばしば敗戦国の建国者の銅像を引き倒したり、国旗を焼き払ったり、国家宗教の神殿を破壊したりする。それは、その国を徹底的に滅ぼすために、その国をまとめる力をもつ「象徴」を破壊する必要があるからなのである。


         中野剛志「国力とは何か」(副題「経済ナショナリズムの理論と政策」)より

    拍手

    カレンダー

    03 2025/04 05
    S M T W T F S
    27 28 29 30

    カテゴリー

    最新CM

    プロフィール

    HN:
    酔生夢人
    性別:
    男性
    職業:
    仙人
    趣味:
    考えること
    自己紹介:
    空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
    それだけで人生は生きるに値します。

    ブログ内検索

    アーカイブ

    カウンター

    アクセス解析