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気の赴くままにつれづれと。
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社内で会議をしたら、外国人はどんどん発言するが、日本人は端の方でもじもじ。つまり、英語の社内公用語化を推進したら、社員は英語がペラペラになったのではなく、英語ができないまま口を噤んでしまったのだ。
経営会議の半数が外国人だから、放っておくと社員の評価も外国人の方が良くなる。
( → 朝日新聞 2013-12-15 )
11月下旬に都内で開かれたグローバル人材を育成するためのフォーラム。大学生ら500人近くが集まった。アホじゃなかろうか? 学生に向かって「ガラパゴス人材になるな」と語ったところで、今さら英語がぺらぺらになるわけじゃない。そういうことは、大学生に語るべきことじゃなくて、それ以前のずっと若い人材に語るべきことだ。というか、むしろ、英語教育を推進する政府に語るべきことだ。今さら学生に向かって英語力を高めよと訴えても、ほぼ手遅れだ。
日産自動車の志賀俊之副会長は「ガラパゴス人材になるな」と大学生を挑発した。
「日本でしか役立たない人はガラパゴス人材。日本ではとっても貴重だが、残念ながら海外では役に立たない」
同世代の外国人と戦える力を備えよ、という学生への強いメッセージだった。
「日本でしか役立たない人はガラパゴス人材。日本ではとっても貴重だが、残念ながら海外では役に立たない」それでいいのだ。ガラパゴス人材でいいのだ。社員に求められることは、技術開発であって、英語力ではないからだ。
志賀副会長は「グローバル化を進めれば進めるほど日本人が埋没する。とても優秀で勤勉なのに残念だ」と嘆く。残念だって、何言っているんですか。「グローバル化を進めれば進めるほど日本人が埋没する」とわかっているんでしょ? 自分の経営のせいで、そうなるんでしょ? だったらそれを改めるのが経営というものだ。
「カナダのKoboチームと時折コミュニケーションを行い、グローバルなベストプラクティスを実践していただくグローバルなオポチュニティです。」英語力がアップしたのではなくて、単に日本語力が低下しただけだった、ということかな。日本語でおk。
( → ガジェット通信 )
志賀氏は英語が得意でコミュニケーション能力に優れていることも今日までゴーン社長の女房役を続けられる重要なスキルである。日産はかつて役員の半数以上を東大卒が占めていた時代もあったが、ルノーと提携後は学閥などによる優劣は通用しなくなった。もっとも、彼らが日常業務で大きな功績を挙げても、「英語はペラペラ」でなければ、役員どころか、部長職にも昇進できない。語学の壁にぶつかり不本意ながら会社を辞めた有能な幹部社員は多い。この記事のタイトルの通り。英語さえできれば、無能でも役員になれる。英語ができないというだけで、やり手でも躓く。……それが日産という会社だ。実力主義とは正反対。単に英語だけに従属する。まるで語学スクールだね。
( → 分析「無能でも役員になれる人、やり手でも躓く人」 )
1981年米国アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン、トランスポーテーションデザイン専攻卒業。その後、GMデザイン勤務後、欧州デザインマネージャー、米国副社長、デザインセンター部長を歴任。海外在住歴がとても長い。これなら英語はペラペラだろう。そして、その特性ゆえに、ゴーン社長に重用されたのだろう。彼と英語で十分に意思疎通ができるデザイナーは、他にはほとんどいないと思えるからだ。(デザイン力と経営力を備えた人はいるだろうが、英語力まで備えた人は少ないだろう。)
損保会社でロードサービスを手配するコールセンター経験者としては、地上からのスキ間が15cm以下で公道走ろうとするクルマはぶっちゃけ全て滅びてしまえばいいのに…と思ってた。
運べる業者が限られるのにそういう車のオーナーに限って車高低いの隠して嘘つくし文句も多かった…。(w
秋空になると急に肉まんが食べたくなる。私はお昼どきのコンビニに入って、秋の味覚肉まんを買うためにレジの行列に並んでいたところ、私の前の客で流れがつっかえた。
つい最近、入ってきたばかりの新人店員だったのかレジ打ちでミスをして、もたついてしまったらしい。客は「急いでるんだから早くしろよ。」とつぶやいた。
コンビニでバイトをしていたことのある私は「よくあるよねぇ。」と心の中で独り言ち、うだつの上がらない店員だった私とその店員を重ね合わせていた。
パニックになってしまったのかなかなかレジ打ちができす、「スミマセン、スミマセン!」と片言の日本語で謝る店員を見て、客はしびれを切らして、こんなことを言った。
「日本語のできるひとに替わって!」
客の大きな声と長い行列に気付いたのか、流暢な日本語が喋れるであろう日本人の店員に替わって、トラブルは「解決」した。
そんなやりとりがあったあと、私が念願の「肉まんひとつ。」を言うためにレジへ行くと替わってと言われた店員が戻ってきて、レジの前に立った。
交通費をケチるために自転車を乗り回している私だが、このときは肉まん以外にもコロッケを買って、店の外に出た。
そして、私はかつて聴いたことのあるあの歌を想い出しながら肉まんとコロッケを秋空の下で頬張っていた。
何年前かの紅白歌合戦で美輪明宏さんが『ヨイトマケの唄』を真っ黒な髪に真っ黒な衣装で力強く歌っていた。
そんな姿を観て、隣にいた父は号泣していた。きっと祖母のことを思い出していたのだろう。
旦那が働かず、苦労して働いたという在日のおばあちゃんたちはよくいる。彼女たちから話を聴くと「あのひとがお金を持っていかなければマンションの1つでも建てられたわよ。」と語る。
父方の祖母も彼女たちとまったく同じだった。父方の祖父は「フーテン」のようなひとで、そんな祖父の代わりに働いて、家族を養っていたのは祖母だった。あるときは幼かった父とともに近くにできた団地へゴム靴を売りに行き、あるときは「ヨイトマケ」のようなことをし、あるときは料理が苦手なのに親戚の焼肉屋へ働きに行った。
文盲だった彼女は文字が読めないことを同じ店で働く人たちや客になじられたこともあった。しかし、それでも子供たちのために働きつづけた。
その努力が実ったのか、彼女は自分の店を持つことができた。
私が幼いとき、祖母の店までよく行っていた。赤いエプロンをして、店に立っている祖母の背中はいまでも忘れられない。
店をたたんだあと、気が抜けてしまったのか、働いていたころの祖母とはうってかわって、小さな老婆になってしまった。苦労したことを何も語ることなく、私が小学6年生のときにひっそりと亡くなった。
ゾラ・ニール=ハーストンの『騾馬とひと』のなかで、昔のことを尋ねられた黒人のおばあさんが「私は騾馬なのよ。」と語る場面がある。ただの労働力としてしか見なされない奴隷であったおばあさんのことばは私の祖母の生き様を思い出させる。
そして、その生き様はかつてアメリカで黒人差別が今以上に激しかった時代を描いた人類誌だけではなくて、現代日本のコンビニでも出会うのだ。
私が財布の紐をちょっとだけ緩くして、コロッケを買ったのは客からあんなことを言われた店員が祖母と重なって見えたからだ。せめて、私のお金が彼のポッケに多く入ってほしいと思うが、結局は安い給料で雇われているのだろうと店に貼ってある店員募集のポスターを見て思う。
いま、政府が法律を変えて、外国人労働者を増やそうとしているが、そんな過去と現在を知っている私からしたら、安く雇って、気に入らないことがあれば、なじる存在を増やしたいだけなのかと感じる。
この国にとって外国人とは「騾馬」なのか。
外国人労働者を騾馬としか考えられないひとたちに『ヨイトマケの唄』を歌うことはできるのか。
少なくとも、私は彼らよりも歌える自信がある。
「僕をはげまし慰めたばあちゃんの味こそ、世界一」と。
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