忍者ブログ

「遊び心」の宝庫としての「不思議の国のアリス」

少し前に私の別ブログに書いた記事だが、わりとお気に入りなので、ここにも載せておく。
ちなみに「ダンジョン飯」単行本第10巻64話の扉絵が「不思議の国のアリス」パロディであるのを(「木の下での読書(マルシルのエプロンに注意。マルシルはアリスでもあり、アリスのお姉さんでもある。)」で、ほとんどの人は即座に連想するかもしれないが、)分からない人がいるかもしれない。木の枝にいる有翼獅子がチェシャ猫である。まあ、同じネコ科だ。

下の記事に関係して言えば、福島正実氏は、(たぶん絶版である)岩崎民平訳を、名訳だ、と書いている。新訳かならずしも好訳ならず。むしろ改悪が多いと私は思っている。特に児童文学で、海外の名著を最初に軽薄、不誠実な新訳で読んで、その誤解のまま一生を送る子供が気の毒である。その手の訳(野心家の若手に多い)を世間に出すのはほとんど犯罪だろう。子供は、手にした訳書がその作品のすべてになる。価値の高い翻訳と、愚劣な翻訳の区別がつかないのである。私自身、岩崎民平訳の貴重さを知らずに、おそらく大学入学時の引っ越しの際に手持ち本の大半とともに処分したのが残念だ。

(以下引用)

dear →ears→ whiskers




あまりに暑いので、頭がぼうっとしており、まともな読書ができないので、「不思議の国のアリス」の英語原書と、その翻訳数書を、半分寝ぼけながらちらちらと眺めていると、興味深い箇所に出遇った。
話の冒頭でアリスが追っかけていた白兎が、アリスが穴に落ちた後、再度前方を駆けていくのをアリスが目撃する場面で、その時、兎は

"Oh my ears and whiskers,how late it's getting !"

と言うのだが、手持ちの翻訳はこの部分をそれぞれこう訳している。

「ああ、なんてこったい、すごく遅れちまった!」(河合祥一郎訳)
「やれやれ、どうすんだい、たいした遅刻だよなあ!」(矢川澄子訳)
「なんてことだ、よわったな!どんどん遅くなっちまう!」(福島正実訳)

ごらんのとおり、どの訳者も「my ears and whiskers」の訳から「逃げている」。
それも当然と言えば当然で、これは翻訳不可能だからだ。
勘のいい人は、白兎が最初に登場する場面で、

”Oh dear! Oh dear! I shall be too late!"

と言ったのと、この「my ears and whiskers」がつながっていることに気づくだろう。で、どの翻訳者も、それは分かっていたと思うが、ここはほとんど翻訳不可能なのである。つまり、英語の洒落なのである。
dearに感嘆詞としての用法があり、「おや、まあ」などと訳せることは、中学生でも知っている人もいるかもしれない。そして、帰国子女などは、その変化形で「dear me!」という表現があることも知っているかもしれない。これも「おや、まあ」なのだが、my dearとなると、「私の愛しい~」となるのは、それこそ中学生でも知っていることだ。そこで、「my dear」が、兎が話し手なので「my ear」となり、兎には頬髯があるので「my whiskers」と続くわけである。
つまり、英語の二重三重の連想が、洒落となっているわけで、これは翻訳不可能ということになる。
 

拍手

PR

「努力万能主義」の発生機序

小島(児島だったか?)アジ子さんという漫画家が、某ドラえもん映画について書いた批判的論評(当人はかなりのドラえもんマニアらしい)の一部で、教育論、社会心理論として面白い。

(以下引用)二つめの赤字は夢人による強調。この指摘は非常に面白い。なぜ、「努力万能論」「努力全肯定論」が人間社会にはびこっているか(そのために膨大な不幸をも作り出している。)を見事に説明している。これに近い現象として、「人間は〇ふたつの下に一本線があるのを見ると、それを人間の顔と認識する」というのがある。つまり、或る種の警戒本能の結果だろうが、それは「認識のバグ」でもある。(面白いし、それを利用するのが漫画の基本でもあるが)

のび太くんとのび太を取り巻く環境(圧力)がドラえもん的ではない。『劣った人間や他と違う人間は人一倍努力してようやく社会の一員として認められる』というような、ストーリーの背景にある思想について。

 なんだろう、自分の受け取り方の問題なのかもしれないけれども、この映画ドラえもんのび太の新恐竜ののび太は、ずっと、社会や自分自身の内面から、『頑張って普通になれ』という圧力を受けている感じがする。努力して頑張って成長しろ、そうするべきことが正しい、というような世界観をこの映画から感じる。それはとても道徳的に正しい。道徳の教科書に載るくらい正しい。
 でも、ドラえもんって、そういう話ではない。ここはもう、本当に、絶対に譲れないポイントです。
 ドラえもんっているお話は、できない、どうしようもないことを肯定する話で、できないことや無理なことを便利な道具で解決する話で、どこまでも他力本願な話だし、そうあるべきだと思ってる。80年代には、ドラえもんはのび太が道具でなんでも解決してしまうから不道徳だと糾弾されたこともある。でも、ドラえもんって、本来不道徳の話です。ギャグマンガだし。あんな夢こんな夢を不思議な道具でかなえてくれる話です。そこに自助努力はない。ポケットを開くと簡単に道具が出てくる。
 また、藤子F不二雄作品において、『努力の効用によって成功、成長する』といった類の話というのは(ほとんど)存在しないんです。自分の観測範囲なので、もしあったら教えてください。(時門と、ウマタケのエピソードで努力して結果を出している、という指摘をいただきました…。たしかに……。)ドラえもんでも、のび太が、『よし!努力するぞ!』と決意しても決意するところで終わって、机の前に座ってるところでだいたい終わります。努力の効用によって、のび太が成績が良くなったとか、スポーツがうまくなった、とか、そういう、努力によって結果を得る、というシーンってほとんどないんですよ。(練習したり頑張ったりしてるシーンはある)藤子作品全般に漂う『努力の効用の否定』については、いろいろと自説があるんですが(終戦を体験した作家であるとか、F先生自身が努力が嫌いとか)それを書き出すとまたそれで1万文字くらいかかるので……。
 そんなわけで『劣った人間や他と違う人間は人一倍努力してようやく社会の一員として認められる』ということに対しては、とても藤子的てはないな……、という感想を持ちます。エスパー魔美で、魔美の父親が疎開先で、祖父が青い目をしているせいで、外国のスパイとしていじめられます。その時に父がとった手段は、『逃げる』でした。
 TPぼんのエピソードで、原始時代に行って、狩猟採集をしている部族で狩りが下手な若者、狩りが下手で組織の成員として認められない若者を助ける話があるんですが、その時の方法は、『打製石器の作り方を教える』でした。
 基礎的な能力が足りなくて組織で認めらない人間は、逃げるか、別の能力を発揮するか。飛べない鳥に飛べ!という必要はないんです。
 そして、今回のドラえもんについて。たぶん、(進化と適応の学術的な話をしらない)普通の人がみて、この作品から得られる感想は、劣った存在でも、人一倍努力して、みんなと同じように、空を飛ぶことができる。努力の賛美。だと思います。それ自身はいい(あんまよくないと思うけれども)。ただ、その努力の賛美というものは、『できない人間に対する努力の強制』に容易に結びつくし、できない子供自身に対しても、彼を内面からさいなむことになります。でも、ドラえもんってそんな話じゃないじゃん?困ったときに他力で助けてくれる話じゃん?
 ついでに。最近の教育の考え方としては、そういうスパルタ的な教育はあんまり効果がないんじゃないかって否定され始めてます。今は所謂、ほめて伸ばす、というような、まず自己肯定感をアゲておいて、そこから能力を伸ばしていくというような方向が効果があるという、根拠ある調査結果もあります。スパルタとその成長の物語は、物語として見ていて面白いし感動するし、泣けるんですけれども、子供向きで、これをみて、自意識が作られるであろう子供、周りと比べてできない子供にたいして、この映画はあまりにも配慮がないのではないかと思うんですよ。ドラえもんの本当のターゲットである、『のび太』みたいな子供に対して、この映画はあまりにも厳しい。




 あと余談ですけれども、なんで努力して頑張って成功する話で感動するのかっていうと、因果を認識する人間のバグなんですよ。物事に因果関係を勝手に見出してしまうバグが人間にあります。そして、支払った分が大きく、リターンが大きい、と出来事ほど、人間は”感動”してしまうようなバグがあります。このバグを利用して、感動できる話とその演出がなされるわけです。人間が感動して涙を流すのは、大体バグによるものです。SFという、科学、分析、世界を切り分ける概念が深い部分を流れているジャンルと、泣ける物語というのは、基本的に相性が悪い。それでも無理に泣かせる、感動させる、エモーショナルな話にしようとすると、どこかで話とテーマが脱臼する。
 







ここらへんは、本当に個人的な好き嫌いなので、あの、それの部分が好きだっていう人がいたらごめんなさい。

拍手

call,calling,recall

政治用語でリコールという言葉があって、中学社会科くらいで習うと思うが、言うまでもなく「一般投票で公務員を解職する」ことであり、(たぶん)ほとんど日本では実施されたことの無い制度であり、死語である。それが死語であることが、民主主義がこの国では機能していないことの証明だろう。
だが、ここで私が言いたいのは、この制度がrecallと呼ばれていることの不思議さだ。
これは、第一義的には「思い出す」意味だからである。第二義に「(~を)呼び戻す、回収する」意味があって、これが政治用語としてのリコールに近いだろうか。つまり、政治的に不適切な人間を公職に就けてしまったことが分かって、その人間を一般人として「呼び戻し」「回収する」わけだ。
しかし、racallの第一義が「思い出す」であるのは、このrecallの中のcallが「呼びかけ」であり「訪問」だからだろう。つまり、racallとは、自分の記憶からの呼びかけであり、記憶への再訪だ。

私が一、二番に好きな昔のポップスの中に「Too Young」という歌があり、その歌詞の最後は、こうである。

And someday they may recall
We were not too young at all

このrecallは、自分の記憶から再び呼びかけられることであるわけだ。

そんなことを目覚めの寝床の中で朦朧と考えていると、乙一に「calling you」という短編小説があって、それをこの前読んだばかりであるのを思い出した。つまりrecallした。
この小説は「失はれる物語」という短編集の冒頭の作品で、(古文文法的には「失はるる物語」か「失はれし物語」とすべきかと思う。)名作が詰まった作品集だが、その最初の作品が「calling you」で、これは親から携帯電話の所持を許してもらえない女子高校生が頭の中で理想の携帯電話を克明に想像してそれを「持ち続けて」いると、或る日、その頭の中の携帯電話が鳴る、という話である。その呼び出し音(着メロ?)が「calling you」という曲で、これは「バグダッド・カフェ」という映画の主題曲であるらしい。私はこの映画を見たことがないし、曲も知らないが、題名から想像すると「私はあなたを呼び続ける」という趣旨の歌だろうと思える。この「calling」という「現在進行形」には、そういう印象があるわけだ。

(追記)念のために「バグダットカフェ」の「calling you」を聞いてみたが、ほとんどsummertimeのアレンジというか、パチモンであり、がっかりした。誰もそのことを指摘した人はいないのだろうか。過去作品(古典)への無知とは恐ろしいものである。

拍手

とても面白い、「退屈な話」

チェーホフの「退屈な話」読了。非常に面白かった。
話の内容は、まあ、ベルイマンの「野いちご」である。つまり、偽善的に、あるいは自己欺瞞的に生きてきた人間の、老年における精神の荒廃だ。
ここで自己欺瞞的というのは、自己節制的、と言ってもいい。つまり、自分の欲望を抑えて理性的に生きてきたわけだ。ところが、すべての欲望がほとんど消滅した老年に残るのは、不満感だけであるわけである。黒澤明の「生きる」も、同じテーマである。まさに「命短し、恋せよ乙女」なのである。
まあ、快楽主義的に生きてきた人間の老年期の精神的荒廃は、もっとひどいかもしれないし、人間は自分の精神が導くようにしか生きないのだから、この種の話は或る種の「警告」にはなるかもしれないが、特効薬にはならないだろう。要は、話としてそれが面白いかどうかだけで、私などには面白い。30代でこれを書いたチェーホフ自身の晩年の精神的状況がどんなだったか知りたいものだ。
この「退屈な話」が退屈かどうかは読む人による。「退屈な話」というタイトルだけで敬遠する人も多いだろう。

拍手

労働者の昼飯は娯楽や贅沢ではなく活動エネルギー源

私は定年退職後に、1日4時間の土方労働をしていたが、昼飯はだいたい、自分で作ったおにぎり2個(だいたいは塩むすび)だけだった。コンビニのおにぎりでは小さすぎるだろう。インスタント味噌汁は贅沢だと思うが、塩分補給にはいいと思う。何より、膨大な発汗で塩分とミネラルが体外に出るからである。
下の記事だと、おにぎり2個で270円くらいということで、これも贅沢だ。先に書いたように、量も不十分だろうが、肉体労働でなく頭脳労働の人ならそれでいいのかもしれない。
まあ、自分で作れば、1個あたり50円か60円程度だろうと思う。
なお、疲労回復に即効性があるのは甘味である。ある時、職場のチーフの差し入れでシュークリームを配給されたが、まさに天上の美味で、エネルギーが即座に体全体に沁み込むようだった。
体を動かさない人間には塩分も糖分も毒かもしれないが、肉体労働には必須である。エネルギー源として一番必要なのは炭水化物。米飯は腹持ちもいい。ちなみに糖分は頭脳労働にも必要で、棋士などが対局中に糖分を大量補給することは知られている。

これはどうでもいいことだが、おにぎりは食事時間が短くて済む。たぶん、10分程度で食えるだろう。余った時間が無駄に長いという人もいるかもしれない。まあ、食事が娯楽という人は、凝った弁当を1時間近くかけて食うのもその人の勝手だ。

(以下引用)



職場でのランチは「おにぎり2個」と「インスタントみそ汁」だけです。お腹はふくれますが“栄養面”は大丈夫ですか? 夜にしっかり食べれば大丈夫でしょうか…?© ファイナンシャルフィールド

おにぎり2個、インスタントみそ汁の節約効果と栄養面について

おにぎり2個とインスタントみそ汁は節約に向いているのか、栄養面に偏りがないのかを見ていきましょう。おにぎりはセブン-イレブンの梅干しのおにぎり(手巻おにぎり 熟成旨味仕立て紀州南高梅)を2つと、セブンプレミアムのカップみそ汁(磯の香り広がる 有明産海苔 21.6g)を購入していると想定します。

おにぎり2個とインスタントみそ汁の節約効果について

おにぎり2個とインスタントみそ汁をランチにしていた場合、節約効果は高いのか計算していきましょう。まず梅干しのおにぎりは1個135円で、2つ購入すると270円です。インスタントみそ汁は127円となっているため、おにぎり2個とインスタントみそ汁を合わせると397円かかります。


株式会社UOCCが運営する女性向けメディア「Spicomi」が2022年に行った会社員のランチ代に関する調査によると、全体の平均が575.8円(男性平均:561.8円、女性平均:584.1円)となっており、おにぎり2個+インスタントみそ汁だと平均よりも178円安くなっていることが分かります。

つまり、おにぎり2個+インスタントみそ汁は節約効果があるといえるでしょう。

おにぎり2個とインスタントみそ汁の栄養面について

続いて栄養面についてみていきましょう。結論からいうと、おにぎりとみそ汁は健康面にいい食材だといえます。梅干しおにぎりとみそ汁に含まれている栄養素の働きの一部をまとめたものは、図表1の通りです。


図表1


筆者作成


図表1の通り、おにぎりとみそ汁には多くの栄養素が含まれています。どの栄養素も健康を保つうえで大切な成分となっており、栄養面においてはおにぎりとみそ汁は好ましいといえるでしょう。

足りない栄養素は朝や夜でどう補う?

おにぎりとみそ汁は栄養面に優れているものの、食物繊維などが足りていない可能性があります。


厚生労働省で定められている「日本人の食事摂取基準(2020年版)」によると、1日の摂取目標とされている食物繊維は、18歳~64歳で男性21g以上、女性18g以上ですが、今回のおにぎりとみそ汁に入っている食物繊維は4.8gとなっており、1食分で摂取しておきたい量よりも少なくなっています。


そのため、朝食や夕食で足りない栄養素を補うのが良いでしょう。もし朝晩もみそ汁を飲むなら、みそ汁にさまざまな野菜を入れるという方法があります。具沢山でボリュームが出ますし、あまったら職場の昼食にもできる点もメリットです。


食物繊維はごぼうや大根などに多く含まれています。

おにぎりとインスタントみそ汁は経済面でも栄養面でもおすすめ!

今回はおにぎり2個とインスタントみそ汁の節約面と栄養面について解説しました。節約面ではランチ代の平均額よりも178円安くなっているとともに、栄養面でも健康にいい栄養素がたくさん入っています。一方で不足している栄養素もあるため、朝・晩に具だくさんみそ汁を作るなど、さらに栄養価を高める工夫をしていくとよいでしょう。

拍手

「to be,or not to be」というセリフの含意

メモ的に使っている私の別ブログに書いた記事だが、実村文氏のここに引用したような「革命的」な創見は、広く知らせる価値があるだろうから、少しは読者もいそうなこちらにも載せておく。
ただし、少し追記する。

(以下自己引用)
私は英語力の無さには自信があるので、下の解釈が英語的に正解かどうかは分からないが、論理的には正解だと思う。つまり、これまでの無数の「誤訳」は、問題箇所の文脈をきちんと考えてこなかったための「誤訳」だったということだ。

「このままでいいのか、だめなのか、そいつが問題だ」

これこそ、この時のハムレットが抱えていた最大の問題であるのは明白である。つまり、「生きるか死ぬか」という問題ではなく、母親の不倫(父王の生前からの関係がどうかは不明だが、父王を殺したのが叔父なら、その可能性大)と、叔父による王(ハムレットの父)の殺害に対して立ち上がるか否かという問題だ。
そして、立ち上がることは、自分の死をもたらす可能性もあり、母の不倫を世に知らしめることにもなる。だからこそ、ハムレットは悩みに悩み、オフェーリアさえも「女という、不倫予備軍」と見てしまうのである。彼のオフェーリアへのあまりに無情な態度の意味はそこにある。だから「尼寺へ行け」なのである。それは「性欲を断て」という厳しい命令なのであり、そこに母親の不倫に苦しむ息子の怨念があるわけだ。


(追記)先ほど考えたのだが、なぜシェークスピアは単純に「to do,or not to do」としなかったのか、という疑問も生じるが、それは、なぜ「to live,or not to live」としなかったのと同様に、言いたいことの「含み」が無くなるからで、かといって、すべてを言いつくすと長くて締まりのない台詞になるからだろう。つまり、このbeには、doとliveが含まれており、さらに言えば、たとえば「to be continued」のように、この「to be」は、ここでの問題が未来に関係することを示している、という屁理屈はどうだろうか。つまり、それだけ深みがあるから、多くの訳者を悩ませたわけだ。





(以下引用)


「生きるべきか死ぬべきか」、それは誤訳だ。『ハムレット』の"例の箇所"について(透明なシェイクスピア(1))

実村 文 (theatre unit sala)
2020年1月28日 01:34

To be, or not to be, that is the question.

『ハムレット』三幕一場の「例の箇所」だ。いま、この記事を読んでくれているあなたは、どういう日本語訳で覚えているだろうか?
「生か死か」? 「世に在る、世に在らぬ」?
「生きるべきか死ぬべきか」?


あえて言おう。どれも、誤訳だ。


え、どこが誤訳なの? と、あなたは問うかもしれない。
"be"という動詞には「存在する」という意味があるから、その不定詞"to be"は「存在すること」つまり「生きること」「この世にあること」と訳せる。さらに、to不定詞はしばしば「~べき」という意味合いを含むから、「生きること」から一歩踏みこんで「生きるべきだということ」とも訳し得る。
その否定形"not to be"も、「生きること」の反対だから「死ぬこと」。「生きるべきだということ」の反対なら「死ぬべきだということ」。
ほら、どこも間違っていない。


そう、どこも間違っていない。文法的にはね。
でもそれは、この一行だけ訳したときの話なのだ。

この一行だけ見ていては、何も見えてこない。

この一行は、長い長い独白の冒頭にある。いわば「フック」だ。
よくある手だ。「え、なにそれ」と注意を引きつけておいて、そのあとにパラフレーズ(わかりやすく展開した言い換え)が続く。
こんなふうに。



To be or not to be, that is the question;
Whether ’tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune,
Or to take arms against a sea of troubles
And, by opposing, end them.  (Hamlet, Act 3 Scene 1)






このまま生きるか否か、それが問題だ。
どちらがましだ、非道な運命があびせる矢弾やだま
心のうちに耐えしのぶか、
それとも苦難の荒波にまっこうから立ち向かい、
決着をつけるか。(拙訳)



ハムレットの二択。1か2か選ばなくてはならない。
1.「非道な運命があびせる矢弾を心のうちに耐えしのぶ」= to be
2.「苦難の荒波にまっこうから立ち向かい、決着をつける」= not to be
1はようするに、このまま生きていくことだ。"to be"は「存在すること」だが、「いまのままの形で存在すること」でもある。ほら、ビートルズの"Let It Be"って「存在させてやれ」って歌じゃないでしょ、「あるがままにしておきなさい」でしょ。


2は1の否定だ。
1が「生きること」ではなく、「このまま生きていくこと」なら、
その否定は、「このまま生きていかないこと」。
ここで、慎重に考えてみてほしいのだ。「このまま生きていかないこと」=「死ぬこと」、なのか?
そうではないだろう。「いまの生き方をやめること」ではないのか。


ハムレットだけが、彼の父親を暗殺した真犯人を知っている。そいつは何重にも守られて、ぬくぬくと生きている。ハムレットは歯ぎしりしながら、それを「心のうちに耐えしのんで」、日を送っている。
いいのか、俺。いいわけないだろう、と彼は思う。
復讐しろ、俺。父上の敵を討て。「決着をつけろ」。


だが、キリスト教では、個人の復讐は大罪なのだ。復讐すればほぼ確実に自分も天罰を受けて死ななければならない。
死ぬのか、俺? 人を殺して死ぬのが俺の使命か?
俺はそれだけのために生まれてきたのか?


この二択、迷って当たり前だ。
とくに、若くて、才能と可能性にあふれた人間だったら。


いまの生き方をやめて、立ち上がって戦うと、結果としてたぶん死ぬ。だけどそれは「死ぬべき」を選んだのとはぜんぜん違う。だいたい「死ぬべき」って何だ。「生きるべき」はわかるが「死ぬべき」って何だ死ぬべきって。


「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」という小田島雄志訳を初めて読んだとき、本当に衝撃だった。これこそ正解だと思っていた。
でも、小田島先生ごめんなさい、それさえも違う。
だって、わかっているじゃないですか、ハムレットも私たちも。
このままでいいわけがないのだ。


わかっているのに、まだ、変えられないでいる。

このまま生きるか否か、それが問題だ。

この独白全体の拙訳を、以下に挙げておく。
私には、ハムレットの言葉が、刺さる。泣ける。私自身の気持ちを語ってくれてるんじゃないかと思うほどだ。
難解でも哲学的でもなんでもない。ひじょうにクリアだ――痛いほど。
ひりひりする。
あなたは、どうだろうか。



このまま生きるか否か、それが問題だ。
どちらがましだ、非道な運命があびせる矢弾やだま
心のうちに耐えしのぶか、
それとも苦難の荒波にまっこうから立ち向かい、
決着をつけるか。死ぬ、眠る、
それだけだ。眠れば終わりにできる、
心の痛みも、体にまつわる
あまたの苦しみもいっさい消滅、
望むところだ。死ぬ、眠る――
眠る、おそらくは夢を見る。そこだ、つまずくのは。
死んで眠って、どんな夢を見るのか、
この世のしがらみから逃れたあとに。
だからためらう。それが気にかかるから
苦しい人生をわざわざ長びかせる。
でなければだれが耐える、世間のそしりや嘲り、
上に立つ者の不正、おごるやからの無礼、
鼻先であしらわれる恋の苦痛、法の裁きの遅れ、
役人どもの横柄、くだらぬやつらが
まともな相手をいいように踏みにじる場面、
なにもかも終わりにすればいいではないか、
短剣の一突きで。だれが耐えるというのだ、
人生の重荷を、あぶら汗たらして。
つまりは死のあとに来るものが恐ろしいだけだ、
死は未知の国、国境を越えた旅人は
二度と戻らない、だから人間は
まだ見ぬ苦労に飛びこむ決心がつかず、
いまある面倒をずるずると引きずっていく。
こうして、考えるほど人間は臆病になる、
やろうと決心したときの、あの血の熱さも、
こうして考えるほど冷えていく、
一世いっせ一代いちだいの大仕事も
そのせいで横道にそれてしまい、
はたせずじまいだ。




こちらにもう少し多めに載せてあります。




(追記)
紙の本、神保町の共同書店PASSAGE(パサージュ)で取り扱っていただいています。
どうぞよろしく。


拍手

五年の無駄と一生の無駄

私は、ある時点から(たぶん、子犬の悲惨な「人生」を描いた短編小説を読んだ時から)チェーホフという作家が嫌いになったのだが、それは、彼の「冷酷さ」というのが嫌いだからだ。ただし、その「冷酷さ」というのは「科学者的冷徹さ」と言うのが適切だろう。
彼は自分が興味を持ったあらゆる事象を科学者的冷徹さで分析し、表現する。その結果、人生の悲惨さや社会の悲劇が見事に描写されることになるが、それを読んで「気持ちいい」と思う人は、よほどのサディストだろう。
彼の「ユーモア」も、人間の愚かさ、その行動の愚劣さを「冷徹に」描くところから生じるのである。けっして「暖かい」ものではない。つまり、ユーモアではなく、サタイア、皮肉、冷笑と言うべきだろう。もちろん、彼自身は、それを冷酷だとは思っていない。「桜の園」を彼が「喜劇」と言っているのは有名だ。そして、この劇の状況を「喜劇」だとしているところに、彼の冷酷さがある、と私は思うわけである。サドなどのほうが、人間としては温かいと私は両者の作品を比べて感じる。
ただ、チェーホフは作家としては天才的な才能があるのも確かで、読んで有益な、「人間教科書」ではある。心理解剖・分析など、見事なものだ。
わずか30歳で彼が書いた「退屈な話」を今読んでいる最中だが、あきれるほどの心理分析である。引退どころか死を間近にした老教授の心理を、わずか30歳の人間が、ここまでどうして描けるのだろう。まあ、誰かモデルとなった医学部教授がいた可能性もあるが、それでも、外部から見てその心理が分かるだろうか。

まあ、長々と意味不明の自論を書いても仕方が無いので、その「退屈な話」の中で、その老教授が落第学生に言う言葉を書いておく。これは、落第生たちへの見事な金言である。

「お赦しください教授」--彼はにやついている。「しかしそれは、少なくともぼくの側からいうとおかしいようですね。五年も学んできて急に……出ていけとは!」
「ふん、そうさ! 五年を棒にふるほうが、そのあと一生好きでもないことを仕事にするよりはましだよ」(湯浅芳子訳)




拍手

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析