気の赴くままにつれづれと。
第十一章 渡河
目指すタイラスで先のような会話がなされているとは知らず、グエンとフォックスは、いかにして国境を突破するかの相談をしていた。
グエンは、そのまま関所を突破すればいいという意見だったが、フォックスはそれほど能天気な作戦は取りたくなかった。いくらグエンが抜群の武勇の持ち主でも、100名近くの兵士がいるという国境の砦のそばの関所を大人二人だけで突破できるとは思えない。大人二人とは言っても、実際に敵に当たれるのはグエンだけだろう。フォックスは、せいぜい子供二人を守るくらいだ。
「それでいい。お前が子供たちを守っていてくれれば、敵は俺一人で何とかする」
フォックスの言葉にグエンは笑い顔のような表情でそう言った。虎の顔そのものだのに、なぜかそれが笑い顔に見えるのは、グエンの顔を他の者たちが見慣れて、微妙な表情の区別がつくようになってきたからだろうか。
グエンの話し方も、ずいぶんまともになってきている。これまでのような、ブツブツと切るような話し方ではなくなっている。流暢でこそないが、普通に口の重い人間程度の話し方になっている。
フォックスの話では、ここから国境までは、おそらくあと1日の距離だろうということだ。もちろん、彼女もここに来たのは初めてであるが、少し前に通った分かれ道の道標に国境まで20ピロとあったのである。
風に混じる水の音をグエンの鋭い聴覚は聞きつけた。
「近くに川があるな。水の匂いもする」
グエンは空気の匂いをかいだ。
「エーデル川ですね。では、すぐに国境です」
「この道をそのまま進めば、どうしても関所を通ることになるが、俺としても無駄に人を殺したくはないから、ほかの場所から川を渡れないか、探してみよう」
グエンは口では言わなかったが、タイラス国を通過する際に、あまり人目につかないほうがいいのではないかという気もしていたのである。兵士たちと大立ち回りをして国境を突破しては、自分たちの所在を多くの人に知られてしまう。兵士の100人程度を相手にするのに不安は無いが、その全員を殺すことは困難だろう。とすると、その場を逃げ出した兵士の口からグエンたちの足跡が知られてしまう。また、タイラス国内で兵士たちに不審尋問され、思わぬ害を受けないものでもない。潜行するのがやはり最良の方法かと、グエンは考えを変えていた。
荷車は道から離れた茂みの中に隠し、食糧などの荷物を載せた馬を引いてグエンたちは林の中に入っていった。子供たちも当然、歩くことになる。
やがて断崖に出た。この場所から下を流れる川までの高さは70マートルほどだろうか。反対側の断崖の高さも同じようなものだ。しかし、じっくり見ると、400マートルほど下流では木々の緑が川から数マートル程度まで下りている。つまり、崖の高さが低くなっている。川幅もそこはやや狭いようだ。おそらく80マートル程度か。
上流の方を見ると、ここから300マートルほど離れたところに吊橋がかかっている。先ほど進んでいた道をさらに行くと、あの吊橋に出たわけだが、しかしその前にサントネージュ側の関所があり、吊橋を渡るとタイラス側の関所があるはずだ。
「あの、下流の低い部分から渡ることにしよう。ちょうど、川が曲がって上流の関所のあたりからは見えなくなっている。俺たちのいるこの崖が川の曲がり角だ」
「しかし、川をどのようにして渡るのです?」
「お前は泳ぎはできないのか?」
「私はできますが、子供たちは無理です」
「子供たちは俺が二人とも背中にかついで泳ぐ」
「そんなことができますか?」
「多分な。俺の首に両側からしがみついていればよい。どうだ?」
グエンはソフィに聞いた。
ソフィは一瞬しかためらわなかった。
「やってみます。ダン、大丈夫よね? 絶対に手を離しちゃだめよ」
「うん、大丈夫だよ」
「良い子だ」
グエンは頷いて微笑んだ。
さらに林の中を下流方向に向かって進み、やがて川に下りていけそうな場所に来た。かなりの急勾配だが、下りていくことはできる。馬たちとは別れるしかない。荷物を馬から下ろし、グエンが肩にかつぐ。
何度か足を滑らしながらも4人は何とか崖を下りて河原に着いた。
ほっと息をついて一休みする。時刻は午後4時ころだろうか。崖の間の河原だから、すでにあたりは暗い。
軽い食事をして、いよいよ渡河にとりかかる。
まず、グエンと子供たちを長い布で結びつける。この布はキダムの村を出る時に、グエンの意見で購入してあったものだ。山越えをする時に、ロープ状のものが必要になるという見通しによるものである。通常のロープよりも、布のほうが様々な利用価値がある。
子供たちとの間は短めに、そしてフォックスとグエンの間は4マートルほどの長さで結びつける。これはフォックスが泳ぐ邪魔にならないようにだ。
「では、いくぞ。心の準備はいいな? 絶対に俺の首から手を放すなよ」
グエンの言葉に二人の子供は頷く。
グエンが川に入るすぐ後に子供たちが続き、腰ほどの深さになった時に、グエンは身を沈めて首だけが川面に出るようにした。その意図を理解して子供たちは両側からグエンの首に抱きつく。
「苦しくないですか?」
ソフィの言葉にグエンはにやりと笑う。
「いや、少しも。もっと強くしがみついたほうがいい。俺の首の太さは子供の力で窒息などしない」
ソフィとダンはそれを聞いて、もっと強くグエンの首にしがみつく。
「それくらいでいい。ではいくぞ。顔をずっと水の外に出しているのだぞ?」
「はい!」
グエンは平泳ぎの要領で静かに泳ぎ出した。
遅れないように、フォックスもその後に続く。
泳いでいると、水面の上は案外と明るく、また真上にある空は河原にいた時よりも明るく見える。
(この人がいなかったら、私たちはどうなっていただろう。あのサルガスの野でグエンと出会ったのは、何と幸運なことだったことだろうか)
先を泳ぐグエンを見ながら、フォックスは考えていた。そのグエンは子供二人を背中に背負い、しかも腰には荷物の袋をつなぎながら、何の苦もなさそうに泳いでいく。身一つのフォックスの方が、遅れそうになるほどだ。
幸いなことに、川の流れは穏やかで、やがてグエンとフォックスの足は反対側の川床に触れた。
彼らが川岸に上がった時には、あたりは完全に夕闇に包まれていた。
季節は初夏だが、このあたりは高地だからやや寒い。濡れたままの体だと病気になる危険がある。砦や関所からは見えないことを期待して、グエンたちは火打石を使って火を起こした。枯れ枝を積み上げ、それに火をつける。
やがて、炎が高々と上がった。その周りに4人は集まって体を乾かす。
水に濡れた干し肉も炙り直し、そのうちの幾つかを夜食にする。
彼らのいるあたりは明るいが、少し離れた所は真っ暗である。
「誰だ!?」
グエンが低い誰何の声を上げた。闇の中から彼らに近づく者の気配を感じたのである。
第九章 ある会話
グエンたちから王女と王子を奪いそこなった黒衣の男二人は、馬も失っていたので、徒歩で国境の砦まで歩くしかなかった。首都オパールまで戻る気は毛頭なく、国境の砦で兵士を徴発して再度、グエンたちに挑むつもりであった。だが、グエンたちよりも、おそらく半日から1日程度の遅れがある。
「ランド砦まで、あとどれくらいだ」
一人が、もう一人に聞いた。
「あと30ピロほどだろう。今日の夜もこのまま歩けば、明日の朝には着けると思う」
「おそらく、あの虎頭たちは、夜は休むはずだから、その間に追いつけるかもしれんな」
「だが、追いついても、逆にこちらが危ない。追いついたら、あいつらに見つからないように、隠れながら、後を追おう」
「あの、虎頭は何者だ。サントネージュに、あのような騎士がいたという話は聞いたことがない」
「あの頭が仮面だとしても、あれほどの力量を持った騎士は誰がいる?」
「俺の知っている騎士ではウジェーヌとマリオンが一番良い腕をしているが、あいつとは強さの次元が違う」
「では、他の諸侯のところの騎士か。それでも、あれほどの腕の者がいるという話は聞いたことがない」
「サントネージュの者ではないかもしれない」
「ユラリアの兵士たちを殺害しているのだから、ユラリアの者ではないだろうな」
「では、タイラスから、王子と王女を救出するために遣わされた者か?」
「その可能性はあるが、あまりにも救出が早すぎる。それなら、まるでユラリアの侵攻をあらかじめ知っていて、王子と王女が落ち延びることも知っていたみたいだ」
「よい魔道士を抱えているのかもしれない」
「デルマーボッグ様は、遠く離れた場所で起こっていることが見えるというから、他国にもそのような魔道士がいてもおかしくはないな」
デルマーボッグとは、サントネージュ魔道士界の有名人であり、魔道士たちの畏怖の対象であった。過去や未来を見通すことや、空中浮遊などもできるという。彼が呪いをかけた人間のうち、死んだ人間が5人、彼に命乞いをして助かった人間は無数にいる。
「なんでも、デルマーボッグ様は、今回のユラリアの寇略がずっと前から分かっていたそうだ。ごく親しい者たちに見せた『未来記』には、それが書かれていたらしい」
「では、なぜそれを国王に伝えなかったのだ?」
「滅びるものは滅びるに任せるのがいいというのがあの方のお考えなのだ。俗世の戦乱など、あの方の関心には無いのだな。ある意味では、国王などの上に立つお方だから」
「すごいお方だ。我々も、修行すれば、そのような高みに行けるだろうか」
「ああ、苦しい修行に耐えればな」
「あるいは、あのお方が前前からおっしゃっていた地上の天国が、この戦乱の後に来るのかもしれない。我々の指導者であるあのお方が俗世の支配者にもなれば、地上はそのままで天国になるというあの予言が実現されるかもしれないな」
「いや、アルト・ナルシス様を国王としてもいいのではないか。ナルシス様はデルマーボック師を崇拝しておられるからこそ、我々もナルシス様に従っている。ナルシス様が俗権の支配者、デルマーボック師が精神界の支配者でいいのではないか?」
「いずれにしても、我々の活躍する時代が目の前にあるのは確かだ」
「その通りだ」
この会話はこの二人の精神を高揚させる効果があったらしく、彼らは夜を徹して歩き続け、どうやらグエンたちとの距離をかなり縮めたようであった。
第十章 タイラス宮廷
サントネージュ王国崩壊の知らせはサントネージュに置いてある間者(スパイ)を通じて、急報としてタイラスに届いていた。そして、王子と王女が宮廷を脱出した後、行方が知れなくなっていることも。
タイラス王妃エメラルドは、夫である国王エドモントに王子と王女の救出を頼んだが、国王は良い返事をしなかった。というのは、実はエドモントの母はユラリアの出で、ユラリア国王とは血縁関係にあったからである。サントネージュがユラリアに占領されることで、タイラスとして損になるということはない。むしろ、国王エドモントが危惧していたのは、義理の甥と姪、つまりダイヤ王子とサファイア姫がタイラス宮廷に来たらどうするかということであった。
「一番いいのは、彼らをつかまえて、ユラリアに引き渡すことでしょう」
宰相のケアンゴームが言った。年の頃は40代後半だろうか、銀髪で褐色の顔色をした体格のいい男だ。短い顎髭が堂々としていて、宰相よりは将軍のタイプだが、無表情で、物腰は穏やかである。しかし、その眼の奥には、何か得体の知れないものがある。美男と言ってもいい中年男だが、どことなくいかがわしい雰囲気を持った男だ。
「しかし、そうすると、お妃さまは王をお許しにならないでしょうから、困りましたな。どうなさいます?」
「まあ、妃がどう言おうと、国王はわしだから、わしの好きなようにやるまでだが、正直言って、妃に泣かれるのもいやだ。どうしたものか」
エドモントは色白のでっぷり肥った顔に困惑の色を浮かべる。
「宮廷に来る前に、途中で殺しますか?」
「ふむ、しかし、それも乱暴だな。まだ相手は子供だし」
「やはり、捕まえて、ユラリアに送るのが一番でしょう。処置はユラリアに任せれば、王の責任ではありませんから」
「ふむ、やはりそうするべきだろうな」
「まあ、国境地帯はユラリアの兵が固めているでしょうから、そこをわずかな人数の逃亡者が突破できるとも思えません。今の段階では、これは考える必要もないことでしょう」
「そうだな。それより、モーリオンの件はどうなった」
「はい、すべて順調です。モーリオン様はランジュ公爵の養女ということにしてあります。いつでも、そちらへいらっしゃれば、お会いになることはできます」
「ランジュ公爵があの女に手を出したりはしないだろうな?」
「それは無理でしょう。なにしろ、70歳の老人ですから」
「できれば、宮廷に入れて、毎日会えるようにしたいものだが、妃には知られたくはないのでな」
「まあ、会えない間が、また恋の薬味というもので」
「まったく、いくつになっても、新しい美しい女というものは、男をわくわくさせるものだわい」
「さようですか」
「お前も、澄ました顔はしているが、やることはやっているだろう」
「まあ、適度に」
「また、美しい女を見つけたら、知らせるのだぞ」
「はい、それはもちろんです」