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「金閣寺を燃やす」ことの意味

私は三島由紀夫の人生や思想には興味があるが、作品は少ししか読んでいないし、その理解も幼稚なものだろうと自覚している。「金閣寺」は読んでいない。
下の引用は「紙谷研究所」のものだが、「サヨク」の紙谷氏の言葉には三島への軽薄な軽侮が時々感じられ(「なんだ、自分のポジションへのこだわりかよ」など。自分のポジションへのこだわりは、社会に「自分自身を発信する人間(表現者)」にとっては最大の重要事だろう。それをいい加減にする人間こそ批判されるべきではないか。)、「三島理解がこんなものでいいのかな」という感じは受けるが、あちこちに興味深い記述や引用があって、参考にはなる。
で、問題の「絶対を滅ぼす」だが、それは言い方が不十分で「絶対を滅ぼすことの意味は何か」「絶対が滅びるとは、人に何をもたらすか」というように言ったほうがいいのではないか。
それは「この世界の片隅に」ですずさんが終戦の詔勅(というのか、天皇の宣言だ)を聞いた時の心だったのではないか。「絶対と思っていたものが滅びた」から、彼女は慟哭し、やり場の無い怒りに泣いたのだろう。
まあ、私は「この世界に絶対など絶対に無い」とは思うが、何かへの絶対的信頼が庶民の生活や生き方を幸福にする(盲目的にもするが)とは思う。西洋のように「神」という絶対性が滅びた社会は自由な社会になるのか、野獣の社会になるのか。現在は半々だ。

(以下引用)長いので、途中省略するかもしれない。

三島由紀夫『金閣寺』


 リモート読書会で三島由紀夫金閣寺』を読んだ。


 ストーリーは有名だが一応言っておくと、国宝だった金閣を青年僧が放火した実話にもとづく物語であるが、主人公をはじめ登場人物の名前は変えられ、三島が自身の作品世界を構築するために再構成したフィクションである。


 (中略)


 宮本百合子の『播州平野』の有名な一節を思い出す。


そのときになってひろ子は、周囲の寂寞におどろいた。大気は八月の真昼の炎暑に燃え、耕地も山も無限の熱気につつまれている。が、村じゅうは、物音一つしなかった。寂として声なし。全身に、ひろ子はそれを感じた。八月十五日の正午から午後一時まで、日本じゅうが、森閑として声をのんでいる間に、歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった。東北の小さい田舎町までも、暑さとともに凝固させた深い沈黙は、これ迄ひろ子個人の生活にも苦しかったひどい歴史の悶絶の瞬間でなくて、何であったろう。ひろ子は、身内が顫えるようになって来るのを制しかねた。


 歴史が悶絶している沈黙の瞬間は、三島にとっても宮本百合子にとっても、重く・不思議な・時間停止のごとき「断面」であったが、それでも宮本百合子のような戦後民主主義派あるいは左派にとってはやがて新しい時代をもたらす躍動の画期であったに違いない。しかし、のちに戦争支持と断罪された日本浪曼派の系譜の末流に位置づけられた三島にとっては、それは「歴史はそこで中断され、未来へ向かっても過去へ向かっても、何一つ語りかけない顔」に見えたのであろう。


 

「どう読んでいいかわからん」というAさん

 読書会の参加者であるAさんは、「この作品をどう読んだらいいのかわからん」とボヤいていた。Aさんには、「せっかく貧苦から抜け出す方途を保証されながら使い込んだり学業不良になったりするしょうもない奴が、あれこれ心で言い訳をしながら、自堕落を責められ、最後は自暴自棄で国宝に火をつけるというとんでもないことをやってしまった話」としか読めなかったのである。


 


 正直に言えば、ぼくもどう読んでいいかは迷った。


 迷ったので、平野の解説を手に取ったのである。他にも、水上勉金閣炎上』(一部を拾い読み)、水上と三島を比較した酒井順子金閣寺の燃やし方』を読んだ。どちらも参考になったが、全体の補助線として平野の解説は大変役に立ったので、ぼくもその線で一旦読んでみた。


(中略)


 平野の解説は、『金閣寺』のテーマを、三島が創作メモに書きつけた「絶対性を滅ぼす」という点に見出した。そして、金閣を戦前は絶対性のもとにとらえられた天皇の比喩として解釈を施している。ぼくはそれを導きの糸にした。


 ぼくもこの小説を実際に読むまでは、金閣寺にありえない美をみた若い僧侶がその美を永遠のものにするために金閣と心中しようとした話…みたいに思っていたのだが*1、主人公の中で金閣の美しさは動揺しまくるし(最終的には金閣は「虚無」となる)、確かに金閣の美しさというより主人公の中に途方もなく大きくなった金閣からどう抜け出すかということの方がテーマっぽい気がした。


 主人公・溝口は、自分の中にある金閣を、2つに分ける。当初父から「金閣ほど美しいものはない」として教え込まれた「心象としての金閣」、やがて戦争が終わり戦争とともに消滅すると思われていた金閣が無傷で残り、自分の中でそれに囚われ続ける存在、「観念としての金閣」を区別する。


 

「戦後」とどう付き合っていいのか

 平野は、三島の個人史を参照している。


 三島は戦前に文壇デビューし、紹介者の系譜から行って日本浪曼派のヴァリアントの中に位置づけられた。しかしほどなく戦争が終わり、日本浪曼派は戦争支持の芸術グループとして断罪され、他方で戦後文学は全く刷新された顔で次々と新しい書き手がデビューしていく。三島はすっかり色あせ、居場所を失ってしまうのである。


 そして、誤診から「肺浸潤」とされて戦争に行かず、生き残ってしまった。それは三島にとってのコンプレックスになったという。


 三島は「戦後」とどう向き合っていいかわからなくなった、というのが平野の解釈と読んだ。戦前的なものをあまりにも簡単に「清算」してしまい、無節操に新しい時代を謳歌する「戦後」への不信である。


 


三島は晩年になるほど文壇の悪口をたくさん言うようになるのですが、戦後派作家の何が嫌だったかというと、敗戦と共に突然我が世の春が来たかのように解放されて、一気に大きな顔をし出したところだ、それがとにかく許せなかった、ということを言っています。戦争というあれだけ大きな体験をした後に、人間はそんなにすぐ変われるはずはない。三島の中にはその思いがあったのです。(平野p.97)


 


 そう考えれば、三島が戦後民主主義の「左」からの批判者であった全共闘の集会に出て行ったのも宜なるかなと思えるのである。


 なんだ、自分のポジションへのこだわりかよ、と思ってしまうが、出発点がそういうところにあって社会への見方を形成するということの方がリアルに思えるのも事実である。


戦争が終った時の、不幸。それは戦争末期、「間もなく、確実に日本は滅びるのだから、それまでは全速力でつっ走ろう」とゴールに向かっていたつもりであったのが、一億玉砕すること無き敗戦によって、ゴールテープが消えてなくなってしまったという不幸でしょう。死というゴールがなくなり、急に「ではこのトラックを、ずっと走っていてください」と、延々と周回しなくてはならないことになった瞬間のうんざりした気持を、三島は「不幸」としたのです。敗戦は三島にとって解放ではなく、人生というトラックの中に閉じこめられるような気持にさせるものだったのではないか。(酒井前掲、KindleNo.1206-1212)


 


(中略)



f:id:kamiyakenkyujo:20211206053309j:plain


再建された現在の金閣寺




 こう書いてくると「金閣天皇なのか? 戦後はもう絶対性なんか全然どこにもなかったじゃないか」という反論が来そうである。


 単純に、心の中に天皇の絶対性が残っていたわけではないと思う。


 しかし日本社会は戦後の刷新があったものの、依然として社会にも政治にも、戦前との連続性が存在していた。そしてそのことへの本当の清算なくして「戦後」には向き合えないはずであるという観念もまた正当なものだろう。


(中略)



 ノンフィクション作家である保阪正康は三島の自裁について次のように語る(2020年11月24日「東京新聞」)。


「彼は『戦後社会に鼻をつまんで生きてきた』と語った。戦後の空間を全否定し、激しい嫌悪感を持って事件を起こした。『(自分の気持ちを世間に)分かってほしくない』と彼の方から線引き(自決)をしたんだと思う。事件を肯定するのは難しい。私たちは冷徹に見ていいんだと思う」


 平野の言葉を裏返してしまうなら、三島は溝口を生かしてしまったために自分の代わりを引き受けさせられず、結局死なねばならなくなった、とも言える。だが、平野は、そこは優しく結論づけている。小説の人物と自分の思想を一致させるという思いが三島には他方で存在し、それゆえに、ここで溝口を生かした時には、三島は確かに戦後社会を生きようとしていたのだと平野は考えたのである。


 また、酒井順子も次のように述べている。


 三島の死もまた、彼の小説に出てくるかのような物語です。生の途中で死ぬことによって、彼の生は「完成」しました。その死が劇的なものとなり得る最後の年齢において、最も自分好みのキンキラキンの死を、彼は選んだということができましょう。


 そう考えるならば、金閣に放火してその只中で死ぬ、という死に方も、十分に三島好みの派手さです。悲劇的で、英雄的でもある。


 だというのになぜ、三島は溝口を殺さなかったのかと考えてみますと、その時の三島自身が、「生きる」という方向を向いていたからなのではないかと思うのです。酒井前掲KindleNo.2070-2075)


 


 


*1:「作者・三島が、金閣寺のことを美しいと思っていたわけではありません」(酒井順子金閣寺の燃やし方』講談社、Kindle1932-1933)。


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98歳の美人

なかなか面白いスレッドで、最初の98歳の女性の投書は、いくつになっても女性というのは精神的な色気を失わないものだなあ、と感心する。こういう色気というのは性欲とは別の話で、人生のまさに「彩り」への感性だろう。私のように「色即是空空即是色」と思っている人間には絶対に生まれない心境だ。
で、別の意味で凄いのが、60代女性への大石静のコメントだ。確かに、言う通りだろうし、「相談者」の心理分析も見事だが、ここまで徹底的に相手の人格を否定するというのが凄い。たかが新聞投稿で、ここまで人間性を否定するか。「相談者」は確かに「こんな私って可愛いでしょ」というアピールのために投稿したと思うが、もしもこの投稿者が誰なのか周囲に知られていたら、自殺しかねないような冷酷無残なコメントだ。
男性の投稿ふたつはまあ、つまらない内容で、「あっそ」で終わりである。

(以下引用)

【画像】98歳のお婆さん、とんでもない投書をしてしまうwww

 
1: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 20:59:57.39 ID:jZ13Q0LNd
no title

404: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:25:01.80 ID:LHfU7fmI0
>>1
すっげえいい文章

501: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:29:09.21 ID:QTE/6kr5a
>>1
すげえな
引き込まれるわ

508: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:29:24.63 ID:Mw9XuDlUd
>>1
ユーモア利いててすこ


3: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:00:56.79 ID:1UMXjIl90
60代後半のお婆さん、とんでもない投書をしてしまうwww

no title

11: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:02:19.94 ID:lSaXd/sk0
>>3
余裕なさすぎでは

43: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:06:20.08 ID:TlcsWx/90
>>3
そこまで叩かなくてもええやろ

59: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:07:34.96 ID:SJcJudK90
>>3

72: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:08:12.44 ID:9MN8Drey0
>>3
これほんときらい
どう考えても言い過ぎ

105: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:10:22.35 ID:huZCasUC0
>>3
やめたれ

164: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:14:21.15 ID:SZAOVe790
>>3
頭おかしい

862: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:47:32.60 ID:xlxlE9G60
>>3
まあ言いたいことはわかる

5: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:01:23.09 ID:+ldpW1BD0
いい文書くな

6: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:01:33.71 ID:mq/ZqOv9a
怖い

14: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:02:46.46 ID:YXQMXmkv0
no title

115: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:10:52.87 ID:oJBKCyWy0
>>14
レジェンド

434: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:26:15.91 ID:FqU/mBdR0
>>14
「ここ空いてますか(どけや)」

18: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:03:10.61 ID:fo/eFrMh0
ええなあ
長生きしてくれ

21: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:03:30.21 ID:diko7UZFa
長生きしそう

22: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:03:48.07 ID:1CLEw3810
お茶目やね

23: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:03:56.88 ID:oEVhdLo/0
98ってホンマか?

31: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:04:31.33 ID:baPsskWy0
裕福な育ちなんやろな

33: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:04:39.44 ID:9tQneTJ60
文才あるなぁ
文通とかしてそう

44: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:06:24.13 ID:YQEvSNaB0
読ませるなぁ
どっち買ったんやろな

47: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:06:47.91 ID:Wlu6t0KI0
楽しそうな情景が浮かぶ

52: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:07:02.85 ID:unVIgmGs0
すげぇなこんなにちゃんとした文書けるんやな

65: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:07:58.06 ID:ebd7c29D0
読みやすくてええなぁ
情景が浮かぶわ

66: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:07:58.27 ID:/VAcjA+W0
年も感性もワイの倍やん

77: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:08:29.34 ID:y5FmchBi0
>>66
おっちゃんやん

67: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:08:00.92 ID:uKMdgndC0
こういうババアええなあ

68: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:08:01.18 ID:9Abmg3ZR0
ばあちゃんすき

99: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:09:57.52 ID:nl4KP+Pj0
かわよ

175: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:14:56.91 ID:Ctt6Pqx+0
50代男性、とんでもない投書をしてしまう
no title

189: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:15:39.47 ID:YRrRgOer0
>>175
仕事してなさそう

204: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:16:28.35 ID:2/IhKYp9p
>>175
J民の未来やね

190: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:15:43.81 ID:0Z8lrqmW0
彡(●)(●)「ドラえもんは声変わりして魅力がなくなった!」(49・無職・男性)
no title

207: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:16:37.60 ID:ZM6NRkhQa
98で一人でデパートか
元気やなぁ 羨ましい

209: 風吹けば名無し 2021/12/05(日) 21:16:41.73 ID:Fdo+LJ4O0
すごく読みやすい

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仏壇の蝋燭は何のためか

お坊さんのツィートだが、第三位が可愛い。漫画みたいだ。
停電の時に「ハッピバースディ」と歌いながら現れて、ローソクを吹き消す植木等の「お呼びでない? お呼びでない。こりゃまた失礼」ギャグを思い出した。
第二位が私には意味不明だが、第二位になるほどこんな「兄弟」がいる家は多いのか?

(以下引用)


あと、法事で子供が暴れる男性ダンサーのは、赤ちゃんが泣くと同じく当たり前の出来事です 【笑ってはいけない法事トラブルランキング】(私調べ) 第5位 仏壇の隙間から猫の飛び出し 第4位 終始鳴きやまぬ犬 第3位 ロウソク吹き消す4歳児バースデーケーキ 第2位 南無ww南無ww連呼兄弟 第1位 お花豪華すぎて戒名見えない

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善良な人間ほど不幸になる社会

「大摩邇」から転載。
こういう事例がひとつでもあれば、その自治体首長や議員たちは自ら辞職すべきだろう。彼らから何か、コメントはあったのだろうか。
こうした「老々介護」の家があちこちに存在するはずである。それぞれの地方自治体ごとに、「各戸見回り」制度と貧困家庭支援体制を作るべきである。人々の安心で幸福な生活を作ることが政治や政治家や官僚の存在意義だ。
そして、こうした「自力で生活や生命が維持できない人」が生活保護を受けるのは「ひと様に迷惑をかける」ことでは絶対にない、ということを行政側は強くアピールすべきである。

(以下引用)


https://twitter.com/k68960189/status/1466732192080744448?t=Gu-xw685yFGbzAFvR2QFdg&s=19


82歳の妹が84歳姉殺害


「人様に迷惑をかけない」


2ヶ月に一度支給される計約20万円の年金を支えにつましく生活。


「姉との生活は楽しかった」


ウエットティッシュで鼻と口を塞ぎ、謝りながら手を握った。



申告しなくても助けられる仕組みを作らないと。


日本の国税を日本人のために使える仕組みを。 

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高踏派は自然主義(下ネタ派やウンコ派)の下種さを耐えきれない

小田嶋師(久しぶりに「師」と言いたい内容の文章だ。)自身はここに引用する記事を卑下しているが(ちなみに、「卑下する」は自分に関してのみ用いるというのは私の単なる思い込みだろうか。昔の人の書いた文章ではだいたいそういう用法だったと思うが、最近は「他人を卑下する」式の言い方をよく見る。「他人を見下す」が自然に思う。)、最近の氏(師)の記事の中では実に優れた内容だと思う。
途中の師の人生観の変化の話や文章論もいいが、最後の「維新の会」についての短い記述は、まさに「寸鉄人を刺す」である。維新について長々と書くよりも、あれこれ漂う幽玄な思索の最後にこれが出てきたところが、実に効果的だ。維新の下種さが目の当たりに浮かぶ。

(以下引用)赤字部分は夢人による強調。

虫とタイガー・ウッズの父に学ぶ、遠くを見ない処世術


18件のコメント


小田嶋 隆

コラムニスト


 書くことがない。


 ……という、このとっておきの書き出しを繰り出すのは、職業的なライターとして出発して以来、はじめてのことなのだが、いつか奥の手として使ってみようと思っていた。


 結果的に文字として書き記される文章の内容は、「書く」という具体的な動作の必然として自然発生的な偶然を含んでいる。
 これは本当のことだ。


 原稿を書く人間のご都合主義だと思うかもしれないが、歩くという行為に目的地が不要であるのと同じく、書くという動作を開始するために必ずしもテーマは不可欠ではない。


 通常、私は、連載のためのテキストを書き始めるにあたって、ある程度の目算と意図を持っている場合が多い。しかしながら、実際に書き終えてみると、当初思い描いていたのとは違う場所に着地するケースが少なくない。こんなことが起こるのは、書いている間に構想が変わってしまうからだ。そして、これは自分にとっても意外なことなのだが、「書く」という行為の中から偶然立ち現れるその「変更後の執筆プラン」の方が、書き始める以前に構想していたアイディアよりも優れているものなのである。


 言葉が言葉を呼んでくる、と言うといささか大げさな表現になるが、手前味噌を承知で申し上げるなら、偶然の言葉が召喚してきた思いもよらぬ言葉は、なぜなのかポエジー(詩的感興とでも翻訳すれば良いのだろうか)を含んでいる。それゆえ、文章を書く人間は、時にはテーマに拘泥することをやめて、筆を遊ばせなければならない。


 というわけで今回は、特に行き先を定めることなく書き始めて、根気が尽きたところでタイピングを終えることにする。思考と言葉がどんな経路をたどってどこに落着するのかはわからない。というよりも、それがあらかじめわかっているのなら、はじめからコラムなど書かなくても良いのかもしれない。


 私が書くことを見つけられないでいるのは、実は、いまにはじまったことではない。


 11月のはじめに入院してから、ずっと似たような状態の中にある。
 理由は、自分では見当がついている。


 その、自分の状態を説明する。


 ちょっと前に読んだタイガー・ウッズのインタビュー記事で、彼が面白いことを言っていた。


 彼は、もはやツアープロのスケジュールに従って活動する気持ちを抱いていないのだという。「ありえない」のだそうだ。当然だろう。交通事故で負傷した足の問題もあるし、5回も手術した腰だって万全とは言えない。普通に考えて、事故直後は切断の可能性すら検討された足のけがが回復して、レギュラーなアスリートとしてプロゴルフのツアーに復帰することは不可能だ。


 でも、そうした事情とは別に、タイガーの話の中で印象に残ったのは、彼が指針としている考え方だった。苦しい入院生活と退院後の単調なリハビリの時間を過ごすべく、彼が意識していたのはこんな話だ。


 タイガーは、尊敬する父親がむかし話してくれた、戦場での時間の過ごし方を参考にしたのだという。
 記事を引用しても良いのだが、ここは私が記憶している内容に沿って書くことにする。


 タイガーの父親は、こんな話をした。


 戦闘がおこなわれている場所では、敵襲を予測することができない。いつまで平穏が続くのかもわからない。戦闘は5時間で終わるかもしれないし、5週間続くかもしれない。いずれにせよ先を読むことはできない。だから片時も安心できる時間がない。


 そういう神経の休まらない時間を、とにかくやり過ごすためにタイガーの父親は、「次の食事まで」の時間を無事に過ごすことに集中したのだという。朝食を食べたら次の昼食まで、昼食を食べ終えたら夕食の時間まで、というふうに、だ。時間を短く区切って、その細切れになった時間をひとつずつ無事に過ごす実績を積み重ねることで、戦場の中の長い時間を乗り越えたのだという。


 で、タイガーも父親のもたらした教訓に従って、先のことを考えるのをやめたのだという。


 このお話は、とてもよくわかる。


 私は2015年に足を骨折して以来のこの7年ほどの間に、なんだかんだで7回の入退院を繰り返している。


 まさに七転八起(←どうして8回起きる必要があるのか、その理由が昔からどうしてもわからないのだが)と言っていい。


 入院するたびに、自分の中のタイムスケールが短くなる。


 入院患者は、未来に思いを馳せなくなる。
 一カ月後や半月後のことも、ほとんど考えない。
 入院が長引くと、明日のことさえ思い浮かべないようになる。


 そんなわけで、よく訓練された患者は、その日一日のことしか考えない。


 そうやって即物的に過ごすことが、精神の安定のためにも、病状の改善をはかる上でも最も理にかなった方法であることを、長い目で見れば患者であるわれわれは、あらかじめ知っているのだと思う。


 ただ、ひとつだけ困ったことがある。


 一日限りのタイムスケールを使い捨てにする日々を繰り返していると、病院の外で生起している世間の出来事に対応できなくなることだ。
 対応できないというよりも、興味を失ってしまうのだ。


 もちろん、入院患者である限りにおいて、世間で起こっている生臭い出来事や、自分たちを取りまく経済的社会的政治的な状況には、なるべくまきこまれないことが望ましい。そういう意味では、はじめから外部の事情に関心を抱くことなく入院生活をまっとうするのは、患者の過ごし方として正しい。
 とはいえ、時事コラムみたいなものを書いて糊口をしのいでいる人間は、そうそう浮世離れしてばかりもいられない。


 で、病室のWi-Fi経由でインターネットにぶらさがりなどしながら、かろうじて世間との接触を保っていたりする次第なのだが、自身の内心に真正な興味が湧いてこないことばかりはいかんともしがたい。


 であるからして、退院してからこれまで、どうしてもリアルな現実社会に対してよそよそしい気持ちを抱いている。


 サッカーの試合結果にもさしたる興味はないし、野党の代表選挙の結果も、冷ややかな気分で眺めることになる。
 新型コロナウイルスに新しい変異株が現れて、またぞろ鎖国が実施されるらしいという噂も、半ば以上、他人事としてうけとめている。


 ツイッター上の発言も激減する。
 書き始めるそばから
 「で、それがどうしたんだ?」
 「こんなことを書いて何の意味があるのだ?」
 と自分でそう思ってしまって、送信ボタンをクリックする手前のところで書いたツイートを消してしまうからだ。


 当欄のコラムに関しても、おおむね同じことが起こっている。


 いくつか腹案がないわけではないのだが、書き始めるや
 「で、そんな話を誰が読むんだ?」
 「しょせんどこかで誰かが言っていることの繰り返しじゃないか」
 と、醒めた自己批評が機先を制してくるわけだ。


 これは、健康な状態ではない。


 「とにかく食事から食事までの間を生き延びること」
 という、タイガーの親父さんがもたらしてくれている指針は、限界の状況を生きる人間の処世としておおいに参考になる。


 しかしながら、現実の社会の中で暮らしている人間が、いったんタイムスケールを短くしてしまうと、さまざまな面で不都合が生じる。


 社会的、経済的、政治的な人間としての役割や思考や哲学を、少なくとも一時的に放棄しないと、タイガーの父の境地に立つことはできない。ちなみに「タイガーの父の境地」というのは、動物的な存在(つまり「時間を持たない/意識しない」)としての人間のことだ。もっと言えば昆虫的な生き方かもしれない。


 この何年か、入退院を繰り返す暮らしの中で、私は、昆虫に近い短期的で遠くを見ない処世を身に付けるに至った。


 それは、必ずしも悪いことではない。


 非日常的な苦しい状況に立ち向かっている人間は、その苦闘の中で、虫みたいな具体的/即物的な生き方を選択する。またそうでなければ、目前の災難に対処することはできない。


 とはいえ、虫はコラムを書けない。


 上質なコラムを書き上げるためには、人間らしい思考と自在なタイムスケールと新鮮な視点を確保していなければならない。


 むずかしいことだ。


「書くことがない」


 という異例の書き出しを採用する直前まで、私は、日本維新の会の政治手法の異様さを分析する原稿を書くつもりでいた。


 ところが、いざ書き始める段になって、その原稿が、たいして面白くならないだろうことに気づいて、それで、執筆を断念したわけだ。


 ストーリーはできあがっているし、理屈の裏付けもある。
 まとめてみると、わりとスリリングな筋立てでもある。
 なのに、どうして面白くなる気がしないのかというと、私自身がうんざりしてしまっているからだ。


 おそらく、維新の政治手法の核心は、支持者を熱狂させる新奇さよりも、支持しない側をうんざりさせる凡庸さの中にある。


 「あんなものを相手にしてもしかたがない」
 「維新なんかにかかわっていたら、自分もあの連中と同じ水準に堕ちてしまう」
 という多くの人々の思いが、彼らをはびこらせている。
 「憎まれっ子世にはばかる」
 という昔ながらの定番の展開だ。


 泥の中に落ちた硬貨を奪い合うヤカラをいましめるために、すすんで泥沼に足を踏み入れる人間は少ない。


 結果として、「泥耐性」の高い者だけが生き残る。
 こんな話は書きたくなかった。
 書き出しにふさわしい結語だと思う。
 いつかやってみたいと思っていた。


 また来週。


(文・イラスト/小田嶋 隆)


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「消えたワンセグ」が教えること

どうでもいい話だ、と思っているうちに知らない間に消えたトレンドである。
一種の「ゴルディアスの結び目」パターンで、世の中の大半の話や問題は、無視していればそのうち消える。悪質な事件を起こした政治家がいつのまにかテレビなどで復権していたりする。忘却は人間性の最大の弱点でもある。

ちなみに、「ゴルディアスの結び目」は、どうでもいい問題を解くのに四苦八苦している馬鹿を笑い飛ばす話だと私は思っている。問題を解くのではなく、問題そのものを切って捨てるわけだ。もちろん、それができたアレクサンダーの英雄性を象徴するための寓話だ。
しかし、ワンセグへのNHKの課金は、一部の人間の自己利益しか見ない金儲け主義がひとつの有望分野(商業として、の意味で、私個人には関係ないことだが)全体を消滅させたわけで、こういうのは犯罪的だと私は思う。

(以下引用)


既にツッコミの嵐のようだが、「ワンセグ付いてるだけでNHK受信料という余計な出費が発生するから」という最大の理由を書いていないの草
itmedia.co.jp
スマホから消えた「ワンセグ」、2021年は搭載機種ゼロに その背景を探る
スマホから「ワンセグ」が消えつつある。2021年に発売されたスマホの中で、ワンセグ機能を搭載した機種はゼロだった。ワンセグ対応スマホが減少した要因は、「通信の性能向上」「動画配信の普及」「テレビ離れ」という3つの理由が挙げられる。
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車一台分の頭皮

或るスレタイから別のスレタイにとぼんやりネット散歩をしていると、時々「生活板」という類のスレッドに入り込むことがあって、柄にも無く「家庭問題」の記事を読むこともある。
私は「生活などは召使に任せておけ」という主義なのだが、たまにはこの手の話にも面白いものはあるわけだ。
で、そうしているとぶつかった次の文章の一部がまったくの謎である。

「夫も義弟も頭皮の相続は車一台分ぐらいだった」

って、俺が読んでいたのは西部開拓時代のインディアン一家の話だったのか!?
私は「どうでもいいこと」を考えるのが趣味なのだが、この「頭皮」が何の打ち間違いなのかはさっぱり分からない。まあ、相続に関するもので、車に積めるものだろうが、財産相続の経験はないので想像がつかない。「遺品」を「頭皮」と打ち間違えることはないだろう。
それにしても「車一台分の頭皮」って、何人殺したんだよwww
ちなみに、インディアンが殺した相手の頭の皮を剥ぐ、というのは白人が広めた宣伝で、実際は白人側が先にやり、インディアンがその報復にやったらしい。

566 :プリンはのみものです。 2017/03/13(月) 15:09:18 ID:hBm
だけどその時に離婚するのはあまりにも自分が惨めで、
義弟なりに最高の復讐のタイミングを計っていたそうだ。
義父が亡くなった時は突然のことで、相続のこと等全く想定しておらず
生命保険は全て義母受け取り。義父は養子だった為、実家も義母の名義だった。
で、預貯金を法定通りに分配しただけなので、夫も義弟も頭皮の相続は車一台分ぐらいだった。

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酔生夢人
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趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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