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運命(6)

太祖未だ存命の時において、この道衍のごとき怪僧あって燕王に白帽を奉らんとし、燕王もまたこのような僧を帷幕の中に居く。燕王の心、もとより清からず。道衍の爪また毒あり。
道衍、燕邸に至るに及んで、袁珖(珖の字は当て字)を王に勧む。袁珖は占いをよくし、百にひとつの誤りもない。燕王に見えて言うには、御年四十にして御髭が伸びて臍を過ぎなさるに至れば、大宝位(皇位)にのぼること、疑うべからず、と。燕王笑って言うには、私はまさに年四十であり、また、髭がこれ以上伸びることがあろうか、と。
道衍は、そこで金忠という者を勧める。金忠は若くして書を読み、易に通じる。燕王は忠に卜占させる。忠は卜して卦を得、尊きこと言を絶する、と言う。燕王の意、ここにおいて固まる。

帝の傍らには黄子澄・斉泰あり、諸藩を削減し、封土を奪う意志がどうして止むことがあろうか。
燕王の傍らには僧道衍・袁珖あり、秘謀を醸成することがどうして止むことがあろうか。
両者の間がこうである以上は、風声鶴唳、剣光火影、世はだんだんと乱れていく。

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文脈から推定できない難語・難読語を使う愚劣さ

私は、問題となっている事件(出来事)についてまったく知識が無いが、ここでは単なる「言葉の問題」に興味があるので、それを書く。

まず、「アファーマティブ・アクション」という長いカタカナ語だが、affirmativeという言葉自体は「肯定の、賛成の」の意味で、それが米国で「affirmative action」という連語が「(積極的)平等施策」「差別解消積極措置」つまり、たとえば大学入学などに一定の人種枠を最初から設置するという、「全体的には(受験者全体に対しては)不平等行為だが、それによって人種間の数の平等に近づける」という施策になったようだ。で、最近は日本の大学でそれを真似ているところがあるのだろう。あるいは、それを推進すべきだという層(主にフェミニストか)があるのだと思われる。要するに、「アファーマティブアクション」という言葉だけでは、それがどういうものか想像できない類の名称だというのが、私の言いたいことだ。その結果、この運動について、世間の関心はゼロに等しいと私は推測する。
もうひとつは「悍ましい」という言葉の問題で、私の持っている国語辞書には、「おぞましい」に「悍ましい」という表記が無い。つまり、これはひらがな書きするのが当然の言葉だということだ。ところが、なぜかワープロ(パソコン)の語句変換機能で、「おぞましい」と打つと「悍ましい」と変換されるので、最近はこの漢字を使って書く例が多い。ついでに言えば、この漢字は「悍馬」や「剽悍」のように、「たけだけしい」意味の漢字であり、それを「おぞましい」と読ませるのは、誰が始めたのか、また、過去に有名著述家が「おぞましい」を「悍ましい」と書いた例があるのかどうか、私は知らない。おそらく、IME漢字変換機能を作った集団の誰かが、「惧」か「惶」(どちらも「おそれる」意がある)を「悍」と間違えたのではないか。

(以下引用)

若手男性研究者が、お茶の水女子大学ハラスメント告発の件に思う事

アファーマティブ・アクションという名の『トロッコ』の下敷きになっている一人であると同時に、


告発の発端となったDMの送り主と同じく、ちゅうしたいしえっちしたい(泣)騒動を当時間近で見聞きしていた一人として、


よくもまあそんなえらそうなことが言えたものだと、かねてより神山翼氏の厚顔無恥ポジショントークを大変苦々しく思っていたのですが、


あろうことか氏が女子学生不適切な関係にある上にハラスメントの加害当事者である蓋然性が高いだけでなく、


それが事実であった場合本来その被害者たちの最も心強い味方であるべき(特に同性の)研究者たちが


臆面もなく公然セカンドレイプを加えているというあるまじき惨状を目の当たりにし、あまりの悍ましさに筆を執らずにはいられませんでした。


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「Prima Sedes a nemine judicatur」

記事そのものよりも、引用記事の中のラテン語の格言らしきものが面白い。これは「主席者(最上席の者、組織のトップ)は誰にも審判されない」(「主席者に審判無し」)という意味ではないか。(裏)政治教科書の最初に置くべき格言だろう。
ユダヤ人は、まず、さまざまな分野での「組織」を作り、そのトップをユダヤ人(人種とは無関係)で占めるのである。ノーベル賞選定委員会やオリンピック運営委員会やIMFなど。そうすれば、どんな支配も容易になる。
そして、あらゆる「帝国」で、国家主席、帝王の権限が絶大であることは言うまでもない。それがまた帝国自体の堕落と滅亡の原因にもなる。まあ、政治を影で操作する連中は、「新たな帝国」を作ればいいだけだ。


「Prima Sedes a nemine judicatur」(※ ラテン語で「最初の席は誰にも審判されない」というように読めますが、意味は不明)という格言


(以下「大摩邇」から転載)

速報:バチカンはヴィガノ大司教を分裂の罪で「有罪」とし破門した

BREAKING: Vatican says Archbishop Viganò ‘guilty’ of schism and excommunicated
LifeSite News 2024/07/05


フランシスコ法王のバチカンは 7月4日、米国大司教の元大使であるヴィガノ氏が「分裂の留保された罪」で有罪であると認定し、自動的に破門されると発表した。



バチカンの教義省は 7月5日、元米国大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教が「分裂」の罪を犯したと宣言し、自動的に破門されたと発表した。


教義省は、聖座の報道陣に予告なく発表した声明の中で、7月4日に同党の大会がヴィガノ氏に不利な判決を下すために開かれたと述べた。声明には次のように書かれている。


2024年7月4日、信仰教義省会議は、教会分裂の罪(教会法第 751条および第 1364条、 SST第2条)で告発されたウルピアナ名義大司教カルロ・マリア・ヴィガノ大司教に対する教会法第 1720条に規定される超法規的刑事手続きを終了するために開催された。


教皇を認め服従することを拒否し、彼に従属する教会のメンバーとの交わりを拒否し、第二バチカン公会議の正当性と教権を拒否したという彼の公的な声明はよく知られている。


刑事裁判の結末として、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は分裂の罪で有罪判決を受けた。


教皇庁は、教会法典第 1364条第 1項に基づき、破門を宣告した。これらの場合の譴責解除は使徒座に留保される。この決定は、2024年7月5日にヴィガノ大司教に伝えられた。


最新版の教会法の規定によれば、破門された者は聖餐を執り行うことが禁じられている。


6月20日、ヴィガノ氏は、教義省が 6月11日付けの書簡で、同高位聖職者を「分裂の罪」で告発し、彼に対する「超法規的刑事裁判」を開始したことを明らかにした。


教義省の懲戒部門を率いるジョン・ケネディ大司教が発行したバチカンの書簡は、同大司教に対し、「同大司教が告発されている分裂の罪(カトリック教会との交わりを維持するために必要な要素を否定する公的な発言、フランシスコ教皇の正当性の否定、同教皇との交わりの断絶、第二バチカン公会議の拒否)」について警告した。


ヴィガノ氏は当時、この非難を否定し、「私は使徒の後継者として、ローマカトリック使徒教会、ローマ教皇の教導権、そして彼らが忠実に守ってきた途切れることのない教義、道徳、典礼の伝統と完全な交わりを持っていると主張します」と述べた。


さらにヴィガノ氏は、「教会の権威を正当化する目的に反して、絶対的に専制的な権力管理を行っているホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(※ フランシスコ法王の名前)のスキャンダル、誤り、異端を私は否認し、拒絶し、非難します。教会の権威とは、 キリストの代理であり、キリストのみに従わなければならない権威です」と付け加えた。


6月28日に発表された詳細な声明の中で、元米国大使は教義省の分裂の告発に対して痛烈に反論し、「分裂派が私を分裂の罪で告発しています。これは破壊活動が行われていることを示すのに十分であるはずです」と証言した。


ヴィガノ大司教は続けてこう述べた。


… ホルヘ・マリオ・ベルゴリオとの教会の交わりから私自身を離れるためには、まず彼と交わりを持たなければなりませんが、それは不可能です。


なぜなら、ベルゴリオ自身は、彼の数々の異端と、彼が無効かつ違法に担っている役割との明らかな異質性と不適合性のために、教会のメンバーとは見なされないからです。


ヴィガノ氏はバチカンの告発を自分たちに向け、フランシスコ教皇を分裂主義者として非難し、次のように書いた。


私はホルヘ・マリオ・ベルゴリオを異端と分裂の罪で告発し、彼が異端者、分裂主義者として裁かれ、11年以上不当にその座を占めてきた王座から解かれるよう求めます。


これは 「Prima Sedes a nemine judicatur」(※ ラテン語で「最初の席は誰にも審判されない」というように読めますが、意味は不明)という格言とまったく矛盾しません。なぜなら、異端者は教皇の地位に就くことができない以上、彼を裁く高位聖職者たちより優位ではないことは明らかだからです。


バチカンの判決に対するコメントを求めてヴィガノ大司教に連絡が取られており、このレポートはそれに応じて更新される予定だ。





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運命(5)

太祖が亡くなったのは閏五月である。諸王が入京をとどめられて不快に思いながら帰った後、六月に至って戸部侍郎卓敬という者が、皇帝に密疏(秘密の上奏文)を奉った。その内容は、諸王を抑えて禍根を絶つべし、というものである。しかし、皇帝は卓の密疏を受けただけでそれに応じることはしなかった。断行の時機はついに終わった。
ああ、諸王も帝を疑い、帝も諸王を疑う。互いに疑って、どうして相背かないことがあろうか。
帝のためにひそかに謀るものがあり、諸王のためにひそかに謀るものがある。しかも、諸王の中には自ら天子になろうと思う者があるからには、事が決裂しないはずがない。

帝のために密かに謀るものは誰か。黄子澄であり、斉泰である。斉泰は子澄とともに帝の信頼するところとなって、国政に参与していた。太祖の遺勅によって諸王の入京をとどめた際には、諸王は、これは斉泰が洪武帝の遺勅を書き変えて、朱一族の骨肉の情を隔てたものだ、とした。諸王が泰を憎んだのも当然だろう。

諸王のために密かに謀るものは誰か。諸王の雄なるものは燕王である。燕王の近臣に僧道衍(どうえん)という者がある。道衍は僧とはいっても、俗世の欲望から離れた道心の僧ではなく、謀を好み、知略を好むものである。
洪武二十八年、初めて諸王が封国に就いた時、道衍は自らを燕王に推薦して、「大王が臣をお傍に勤めさせてくださるなら、臣は一白帽を奉って大王のためにそれを戴かせましょう」と。
「王」の上に「白」を置けば、それは「皇」の字である。つまり、燕王を明帝国の皇帝にしてさしあげよう、という意味である。

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フェミニズムと「結婚制度の崩壊」

私は古い意味でのフェミニスト、つまり女権拡張論者なのだが、それは女性が不利な面においてその権利を拡張すべきだという思想であり、「男と女をすべて同じに扱え」という、現代の狂人的フェミニズムには反発する者だ。
そのキチガイフェミニズムの結果のひとつが、「自己認識が女性ならスポーツの女性部門に出場していい」というあれだ。
男性か女性かは肉体的に最初から決まっているのであり、その性別を不満に思うかどうかは各自の精神的問題にすぎない。社会が関与すべき問題ではないわけだ。それを、性別を自己認識で決めるなら、もはや性別は実質的に存在しないということになる。
この場合は運動競技で男性と女性を分けることこそが、女性の権利なのである。それを昔は当然のこととして認めていたのである。ここでは、男女の区別を無くすことは、女性の権利の喪失なのだ。
結婚という制度も、女性の権利を守るものでもあったが、女性も社会に出て労働せよ、となると、男性が結婚する意味はほとんど無くなる。つまり、「家庭維持業務」を誰がするのか、ということであり、育児も老人介護もやりたくない男は、結婚もしなくなるに決まっている。当然、少子化になる。
まあ、女性の社会進出は、とある権力層の計画によるものだろうと思うが、その結果も、彼らの狙い通り地球人口削減になったわけであるwww 
言うまでもないが、これは大局論であり、結婚などより社会でバリバリ働きたいという女性は、それはそれで結構、という話だ。下 の言葉のような「結婚は男が女を養う制度だ」というのも、それも間違いだろう。結婚とは、お互いにそれぞれが得意な仕事を家の外と内で分け合う制度である。(この考えも、女性差別だと騒ぐフェミニストが出てきそうであるww)

(以下引用)

女性の権利を守るようになったら

男は女を養わないようになり、未婚の男女ばかりが増えた。

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電気その他のインフラが消えた世界でどう生き残るか

「東海アマブログ」記事で、冒頭と後半を省略。中間部分には(これから来る世界大戦での)サバイバル知識として有益な情報が多い。

(以下引用)

今の公共インフラに支えられた便利なライフスタイルが、そのまま永遠に続く可能性は非常に少ない。今から、昔の生活を思い出して、どのようなライフスタイルを求めるべきか、考え直す必要がある。

 新自由主義の「市場原理主義」一色に染まった自民党政権が、金にならない地方の生活や、人々の生活インフラを支えてくれる可能性は、ほぼない。せいぜい、竹中平蔵や岸田文雄が言うとおり、わずかな「金銭的施し」が与えられる程度だろう。
 日本は、いつまでも昔の日本だと思わない方がいい。どんどん悪化しているからだ。

 「昔の生活」を持ち出すのは、昔は、公共インフラが不十分で、とても不便な環境であって、どの家でも井戸水を使い、薪で火をおこして調理したり風呂を焚いたりしていた。暖房は、もっぱら薪炭だったが、隙間だらけの家だったので寒かった。
 我々は否応なしに、そんな時代に逆戻りさせられるかもしれない。

 私は上川陽子と生年月日が同じなので、物心ついたのが1950年代後半であり、1960年代の前半まで子供だった。
 https://www.youtube.com/watch?v=MUAyQgjB5-c

 当時の食生活を思い出すと、もちろん電気はあったが、まだ家庭用冷蔵庫が普及していなくて、生鮮食品といえば、葉物野菜くらいしかなかった。
 ただ、名古屋市、下之一色町から市電に乗って毎朝、シジミ売りのおばさんがやってきて取れたてのシジミを食べることができた。彼女たちは50K近い荷物を背負って、長楽橋から私の住んでいた黄金通にまで売り歩きにきていた。

 当時の食生活の主体は、米を別にすれば、おかずは漬物と乾物だった。ご飯に鰹節や生卵をかけられれば、もの凄い大ご馳走だった。
 今の若い人は知らないが、昔は「乾物」というのが一大食品分野であり、「乾物屋」が八百屋と同じくらいあったのだ。
 売っていたのは、昆布とか鰹節とか、豆とか調味料とか鱈の干物とかだった。塩砂糖は乾物屋で買うのが普通だった。

 今のような、肉料理などほとんどない。冷蔵庫がなかったからだ。せいぜい、肉屋でコロッケやメンチカツを買える程度だった。魚はあったが、いつでも生臭い鰯くらいだった。私は鮮度の悪い臭い煮魚しか食べた記憶がない。
 だから、魚と言えば煮干しか干物だったと思う。
 肉と魚は、冷蔵庫の進歩とともに需要が高まっていったので、1960年代からである。

 動物性蛋白質の摂取が少なかったので、子供たちは、みんな青洟をすすっていた。私もそうだ。金持ちの子供だけが、きれいな鼻の下をしていた。
 母親は新潟出身なので、恵まれた食生活しか知らず、名古屋に嫁いで、ひどい目に遭っていると思っていたようだ。
 しかし、父親は、インパール作戦に従軍して、骨皮筋右衛門になって奇跡的に帰還したので、食事に不満はなかったようだ。

 父親は、滅多矢鱈に塩辛いものを食べたがった。それは、おそらく軍隊で、出される食事の大半が濃い塩漬け食品ばかりなので、慣れてしまっていたのだろう。
 父はSL機関士だったが、とにかく汗をかく商売だから、それでも良かったのかもしれない。クーラーもない時代だったし。
 当時、誰も彼もが汗臭かったのだ。塩も水も、今の何倍も摂取したような気がする。夏場、黒い服など着たら、みんな体から塩が噴き出して真っ白になったものだ。

 当時の食品は、味よりも何よりも腐らないことが大切だったので、とにかく塩辛かった。漬物、味噌漬け、塩蔵食品は今食べたら吐き出すのではないだろうか?
 しかし、もし核戦争が起きたり、上空でEMP爆弾が爆発したとすれば、電気や電子に関係する機器(とりわけコイルの含まれた機器)が数年以上も使用不能になるため、仮に電気が復旧しても、冷蔵庫も洗濯機も長い間使えなくなる。
 保存性を考えれば、また塩辛い食品に戻るしかないのだ。

 そこで、長期保存性のある食品を、今のうちに研究し、準備しておこうというのが、このブログの主題である。
 震災・戦争・行政崩壊などでインフラが遮断されたとき、一番困るのは水で、次に電気、そして暖房と調理だが、仮に冷蔵庫が使えなくなると、肉や魚、牛乳がやられる。
 子供たちは、ご飯と漬物で過ごさなければならず、蛋白質不足で青洟児童が出てくるが、別に死ぬわけではないから、それほど深刻に考える必要はない。
 私の時代、私のような貧しい家では、子供が青洟を垂らすのが普通だった。

 水供給が途絶えると、トイレの水が流せないではすまない。暖房ができなくなると命に関わることになる。
 食事は、煮炊き調理が困難になるので、保存食主体になる。これは買うと高いので、自作に限るが、上手に作れるようになるには、何回も失敗を重ねる経験が必要だ。

 私は、味噌を自作したり、ナスや赤カブの味噌漬けをかなりたくさん作っているし、保存食を主題に考える機会が多かった。私の住む地域は、スーパーまで車で20分くらいかかるので、食品を買える機会が少ないので、どうしても自作中心になる。

 そして、自宅の山林から木を一本一本引っこ抜いて小さな畑を作った。
 最初のうちはよくできていたが、20年を経た今では病害虫がたくさん出てきて不作になり、野菜はプランターで新しい土によって作ることの方が多くなった。
 畑を再生するには、耕運機で深く耕してビニールを被せて夏場の太陽光で高温殺菌しなければならない。その耕運機で、今トラブっている。

 今年は、春先がひどく寒くて、とりわけ野菜の生育が悪かった、畑で育てるとうどんこ病やモザイク病が出るので、プランターで育てていたが、今年は、キュウリが10本くらいしかできていない。ナスはまだ実が小さいが、葉がテントウムシダマシにやられて生育が遅れている。無農薬主義では、どうにもならなくなっている。
 トマトの実がつかない。買ってきた「トマトの土」が、窒素過多だったのか?
 ゴーヤは、やっと一本食べられただけ。まあ五個くらい実がついているが。

 もし、可能であったなら、味噌は自作した方がいいと思う。原料の大豆は、地方の農協でまとめ買いをすれば安くあがるが、JAと別行動している農業グループがよい。
 私は二回作ったが、残念ながら、あまりうまくいかなかった。仕込みのとき、暖かかったり、消毒が不十分だと麹に腐敗菌が混じったりするのだ。
 美味しい味噌を造れる人は、何をやらせても上手にできる人だろう。
 ちょうど、たくわんを仕込む時期と重なるので、糠が味噌と混ざったりすると、味噌に異臭が出る可能性がある。微生物食品は、かなり繊細な取り扱いが必要だ。

 微生物食品といえば、私は安い味噌を購入して、ナスや赤カブを大量に仕込んでいる。これは結構長期間、ときには数年も持つので、可能なら作った方がいい。
 ナスの2年ものは真っ黒になって塩がきついが、もしかしたらこの世で、もっとも素晴らしい香りではなかと思うほど、素晴らしい食品になることがある。

 その他、梅酒もたくさん作ったが、原料のリカーで腹を下しやすいので、三年ものになってたくさん残ってしまっている。
 蕪は自家畑にできたものを、甘酢漬けや味噌漬けにしている。これも数年の古漬けにして、細かく砕いてカレーライスのリンゴ代わりに使っている。なかなかうまくて、ヨーグルトとの相性が非常に良い。

 さて、電気が止まり、長期間復旧の可能性もないとき、同時に水道やガスも止まってしまう可能性が強い。インフラが壊滅するのだ。
 こんなとき、清冽な清水の湧く場所を知っていると心強い。人里の川は、あまり清潔ではないが、清水は岩の隙間から泉のようにあふれ出してきて、安全性味覚共に最高の飲料水である。

 私が過疎の田舎に住んでいる最大の理由が、非常時に清冽な水が容易に得られるからだ。今のところは井戸を利用しているが、電気が途絶えるとポンプが回らないので、近所の山の清水を探しに行かなければならない。
 井戸には手押しポンプも設置してあるが、中の木製部品が腐るのと、近所にAという元プロ泥棒の超異常人物がいて、もしかしたらシロアリ用ヒ素剤を嫌がらせで投入した可能性があるので、封鎖してしまった。
 2年前、私の腕に白い小さな白斑がたくさんできて、もしかしたらヒ素を入れられたと疑っているのだ。

 非常用の飲料水になる、清冽な湧水の場所は、もちろん、歩いて行ける場所も含めて、たくさん確保している。
 2年前から、私は、井戸水が怖くて飲めないので、飲料調理水は、すべて近所の山の清水を使っている。

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「上品さ」とは何か

私の別ブログにかなり前に書いた記事だが、フィクションについての私の基本思想を示しているかと思うので、ここにも載せておく。

(以下自己引用)
見たいアニメが無いので、「君に届け」を見直しているが、やはり名作である。
で、そのオープニングアニメで、爽子が氷に足を滑らすシーンがあって、もしかしたら、「スキップアンドローファー」の踊りの途中でミツミが足を滑らしかかる場面は、この作品へのオマージュではないか、と思ったのだが、今日見た回(吉田が龍の兄に失恋する回)のエンディングに、たぶんその回の演出として「出合小都美(漢字は忘れた)」の名前があり、彼女がこの作品の関係者だったことは、私の勘は正しかったことを示しているようだ。
ついでに言えば、スキローは、「君に届け」を超えていると思う。まあ、名作同志に優劣をつけるのは失礼だが、これは原作の違いもあるかと思う。たとえばピンという馬鹿教師や「小さいおじさん」ギャグのしつこい使い方などが、やや「君に届け」の品を落としている。

アニメの評価のひとつとしてほとんど無視されているのが「上品さ」や「節度」であり、「君に届け」や「スキロー」は、その最優秀の部類である。少年対象のものでも、「ハンター×ハンター」などは、かなり上品であり、また鳥山明の作品などは絵そのものが上品なので、Hなギャグもエッチにならない。つまり、赤ん坊の裸がエロでないのと同じである。
また、作り手が視聴者の嗜好や品性を見くびっていい加減に「受け」を狙うと、たいてい下品になる。ほとんどのアニメがそれである。まあ、作り手が下品なら作品も下品になるという、当たり前の話である。私が嫌いな漫画やアニメはたいていそれだ。

念のために言えば、エロやグロだから下品という単純な話ではない。
たとえば山上たつひこの「喜劇新思想体系」などはエロやグロだらけだが、本質的には下品ではない。つまり、エロのためのエロやグロのためのグロではなく、笑いに至る過程としてのエロやグロであり、その追及の姿勢は真摯そのものなのである。あるいは山松ゆうきちの「村のひばりちゃん」など、田舎の教師による小学生女子との強制性交という異常なシーンがあるが、エロどころではなく、そこに人生の悲哀が極まっている。つまり、どんな優れた資質の持ち主(この小学生女子)でも境遇によっていかに悲惨な人生になるかが、あのシーンに示されるのである。あるいは、つげ義春の「赤い花」も同じである。いや、エロはエロなのだが、それだけにはとどまらない、人生や運命への深い観照があるわけだ。


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男性
職業:
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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