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医者に「命を預ける」という冒険

まあ、今さらだが、いちおう載せておく。ワクチン接種が始まった、かなり初期から、ワクチンの危険性は言われていた。
そもそも、新コロワクチンの治験がいい加減であることくらい、知っている人は多かったと思うが、仕事柄、やむなく接種した気の毒な人も多かっただろう。
そして、医療関係者は、新コロワクチンが治験不十分(というか、現実的には、まともに治験するには膨大な時間がかかり、最低で2世代を必要とするので治験不可能)だと知っていて、ワクチン接種に協力したのである。いや、新コロワクチンについてまったく調べることもなく政府の言うがままに接種に協力した医療者のほうが圧倒的に多いだろう。そういう連中(確信犯的犯罪者か、無知無能)が人間の命を預かっているということが視覚化されたのがワクチン事件だった。
まあ、これは言い過ぎかもしれない。水虫を治す程度の関与なら医者は貴重とも言える存在だ、というのが正しいだろう。しかし、ワクチンは「命に関わる」のである。医者で、そういう自覚を持っていた人があまりに少ない、というのがこの事件の教訓だろう。


(以下「大摩邇」から引用)

イギリス国家統計局のデータによると「コロナワクチン接種を受けた子どもは未接種の子どもより死亡率が4423%高い」

地球の記録 - アース・カタストロフ・レビューさんのサイトより
https://earthreview.net/4423-percent-higher/
これでも少なく発表しているのかもですが
日本の隠蔽よりはましですね。
というか暴動が起きるレベルの話のような気がします。
<転載開始>



2021年以降、欧米などで、「子どもや若い年齢層の超過死亡」が目立って増えていました。高齢者などの超過死亡もそれなりに増加しているとはいえ、子どもや若者の場、一般的に「何か特殊な状況でもなければ」若者の超過死亡など発生しないはずなんです。


以下は、2022年の時点のヨーロッパの「 0歳から 14歳の超過死亡数の推移」です。


EUの 0歳から14歳の過剰死亡数の推移

euromomo.eu



この傾向は今年に入っても、あまり変わらず、端的に 2020年と現在の子どもと若者の超過死亡数の推移を比較してみますと、以下のようになっています。



euromomo.eu


これらのことについては、2年ほど前の以下の記事で書いています。


(記事)超過死亡率データを見て思う、緩慢に進む子どもたちのジェノサイド
In Deep 2022年8月25日


「起点が 2021年から」というあたりが、わかりやすいところだとも思いますが、アメリカでも同様のことが起きています


最近、イギリス国家統計局のデータから、「英国での子どもたちのワクチン接種回数との関係」が記事になっていました。


以下は記事にあったグラフのひとつで、わりと一目瞭然です。


英国の10歳から14歳の死亡率とワクチン接種回数の関係

slaynews.com


その記事をご紹介したいと思います。


記事には、かなり多くのグラフが示されているのですが、上で提示したもので、とりあえずは十分な気もしますので、割愛します。

新型コロナワクチン接種を受けた子どもは未接種の子どもより死亡率が4423%高い

Covid-Vaxxed Children 4423% More Likely to Die Than Unvaxxed
slaynews.com 2024/07/07


英国政府の公式統計によると、新型コロナワクチンを接種した子どもたちの死亡リスクが大幅に上昇していることが明らかになった。


この衝撃的な数字は英国政府の報告書で明らかにされ、新型コロナワクチン接種によって前例のない割合で子どもたちが死亡していることがひそかに確認された。


この数字は、英国政府の国家統計局(ONS)のデータを基にまとめられた公式報告書に埋もれている。


データによると、ワクチン接種を受けた子どもは、接種を受けていない子どもに比べて、あらゆる原因で死亡する可能性が 4423%高い、つまり 45倍高いことが示されている。


さらに、ワクチン接種を受けた子どもは、接種を受けなかった子どもに比べて、COVID-19 で死亡する可能性が 13,633%(137倍)高くなっていた


この驚くべき数字は、イングランドにおけるワクチン接種状況別の死亡者数に関する最近公表されたONSデータで明らかになった。


国家統計局の最新のデータセットのタイトルは「ワクチン接種状況別の死亡数、イングランド、2021年1月1日~2022年5月31日」で、公式データは、国家統計局のウェブサイト(こちら)からアクセスでき、ここからダウンロードできる。


データセットの表 6には、2021年1月1日から 2022年5月31日までのイングランドにおける COVID-19 関連の死亡者数、COVID-19 に関連しない死亡者数、および年齢層別の全死亡原因に関するデータが含まれている。


また、ワクチン接種状況別に、10~14歳の子どもと 15~19歳の若者の死亡数も含まれている。


統計局は、データセットに含まれる他のすべての表において、他のすべての成人年齢層についてもこの情報を提供しているが、子どもや十代の若者の 10 万人年あたりの死亡率を提供していない。


しかし、それでも、統計局は死亡率を計算するのに十分な情報を提供している。統計局のデータに、各ワクチン接種グループにおける死亡者数と人 - 年数が含まれているためだ。


したがって、ワクチン接種状況別の死亡率を計算するには、各ワクチン接種グループの「人 - 年」を 100,000 で割り、各ワクチン接種グループ内の死亡者数を前の式の答えで割ると、数字が得られる。


例:ワクチン未接種者 2,881,265 人年 / 100,000 = 28.81 ワクチン未接種者の新型コロナウイルスによる死亡者数 (9) / 28.81 = 100,000人年あたり0.3 死亡者数


統計局が提供した数字によると、2021年1月1日から 2022年5月31日までの期間におけるイングランドの 10歳から 14歳の子どもの 10万人 - 年あたりのワクチン接種状況別の死亡率の最も重要な調査結果は次のグラフで確認できる。



COVID-19 による死亡者数に関して、統計局は、ワクチン接種を受けていない 10歳から 14歳の子どもの死亡率は 0.31に相当することを明らかにした。


しかし、1回接種した子どもの死亡率は 10万人年あたり 3.24人に相当する。


さらに、3回接種した子どもの死亡率は、10万人年あたり 41.29人という衝撃的な数字に相当する。


ファイザーのワクチン有効性計算式に基づくと、このデータは、新型コロナワクチンの注射が現在、子どもの死亡に対してマイナスの効果があることが証明されていることを明らかにしている。


そして残念なことに、コロナ以外の死亡者数(全死亡率)に関しても、ほとんど改善が見られない。


ワクチン接種を受けていない子供の全死亡率は、10万人年あたり 6.39人に相当する。


部分的にワクチン接種を受けた子ども(1回接種)の間では、この数字は 6.48とわずかに高くなる。


しかし、回数を重ねるたびにその割合は悪化していることが示される。


2回ワクチン接種を受けた子供の全死亡率は97.28に相当する。


驚くべきことに、3回ワクチン接種を受けた子供の場合、その数字は 10万人年あたり 289.02という衝撃的な数字にまで跳ね上がる。


つまり、英国政府の公式データによれば、ワクチンを 2回接種した子どもは、接種していない子どもに比べて、あらゆる原因で死亡する可能性が 1422%(15.22倍)高いということになる。


一方、3回ワクチン接種を受けた子どもは、ワクチン未接種の子どもに比べて、あらゆる原因で死亡する可能性が 4423%(45.23倍)高くなることを示す。

 

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運命「8」

建文元年二月、帝、諸王に詔(みことのり)して、文武の官吏、兵士の数を限定し、官制を変えないようにさせた。これも諸藩を抑える手段のひとつであった。夏四月、西平侯が敏王(敏は当て字)の不法を奏す。よって王を廃して平民とする。また湘王(湘は当て字)の不法を以て、兵をやって捕えさせる。湘王は自ら邸に火を放って死ぬ。斉王、代王もまた庶民に落とされる。

燕王は最初から朝野の注目するところであった。また、威望も財力も抜群であり、彼が終には天子となることを期待する者もあった。また、彼は異能の人や術士を養い、勇士、強兵を蓄えていた。人も彼を疑い、己も行く末を危ぶみ、朝廷と燕と両立不可能な形勢があった。
斉泰、子澄はもとより燕王を許す気はない。たまたま北辺に寇(異民族の侵略)があったのを好機として、防辺を口実に燕藩の護衛の兵に砦から出て王都を去らしめ、その羽翼を取り去り、咽喉を締めようとした。

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地球の傾きの変化と気候変動

「大摩邇」から転載。
日本など、部分的な気象だけを見ていると分からないことが、視野を大きくすると見えてくる。
明らかに、中国西部の寒冷は、そこが冷帯化していることを示しているかと思う。そして、日本の場合(酷暑に関して)は温帯が亜熱帯化しつつあるのだろう。つまり、地球の自転の回転軸の傾きの変化で、気候区分に変化が生じているのである。これまでの、赤道を中心とした気候区分(地軸を垂直にして気候帯をその真横にして決めた気候区分)は、かなりズレてくるわけだ。将来はシベリアまで一部温帯化し、農業が発展するのではないか。欧州はかなり寒冷化すると思う。つまり、衰退する。

(以下引用)

中国甘粛省で突然の夏の大雪

BrainDead Worldさんのサイトより
https://nofia.net/?p=21294
<転載開始>

東アジアで 7月の雪は珍しいですが、気温分布を見てみますと、日本はたいそう暑いですけれど、中国のかなりの部分が平年より極度に気温が低いようです。


2024年7月7日の平年との気温の差異

tropicaltidbits.com

甘粛省張掖市の突然の大雪で苦情が噴出

ntdtv.com 2024/07/04


肃张掖夏日突降大雪 网民



中国本土では異常気象がますます頻繁になっている。暑い夏の日、甘粛省張掖市に突然大雪が降った。 Weiboネットユーザーたちは「深刻な問題があるに違いない」とコメントした。


7月4日は旧暦 5月29日で、あと 2日で旧暦 6月になる。その日ネット上に投稿された動画には、張掖山脈に突然の大雪が降った様子が映っていた。


動画でも見られるように、山道には雪が舞い、多くの人が傘を差してバスを待っている。彼らは夏服を着ていたが、寒さを防ぐためにコートを追加していた。動画を撮影した男性は「2024年7月4日、夏なのに雪が降りました」と語った。


Weiboネットユーザーは、このビデオが甘粛省祁連山脈の合流点にある甘粛省張掖市で撮影されたことを明らかにした。


ここ数日、中国本土で夏に雪が降る映像が報道されている。


6月24日、四川省甘孜県の哲多山で大雪が降り、高速道路で交通渋滞が発生し、閉じ込められた車の所有者は寒さに震えた。6月21日には一部のネットユーザーも雪の動画を投稿した。


近年、この奇妙な現象は中国本土全土に広がり、そのため「夏の雪」は中国共産党当局による禁止の対象となっている。上述の夏の降雪のニュースは本土のメディアでは報じられておらず、散発的な動画がソーシャルメディア上で拡散しているだけだ。




<転載終了>

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運命(7)

「諸王不穏」の流言がしきりに朝廷に聞こえてきたので、一日、帝は子澄を召しなさって「先生、かつての東角門の話を覚えておられるか」と言う。子澄言う「けっして忘れ申しません」と。東角門の話とは、子澄が七国の故事を論じたことである。
子澄は退いて斉泰と議する。泰が言う、「燕は重兵を握り、もとより大志あり。まさに、まずこれを削るべし」と。子澄言う「そうではない。燕はあらかじめ備えていることが長いので、すぐには謀り難い。まず周を取り、燕の手足を斬って、その後で燕を謀るべきである」と。
そこで曹国公李景隆に命じ、兵を整えて素早く河南に至らしめ、周王とその世子、および妃と嬪(正妃以外の妃)を捕え、周王の爵位を削って庶民とし、これを雲南に移した。周王は燕王の同母弟であったため、帝もこれを疑い、周王もまた異心があった。
これは実に洪武三十一年八月のことで、太祖が崩じて幾ばくも月を経ていなかった。
同じ冬十一月、代王(「代」は国名らしい。)の暴虐が民を苦しめたという理由で代王を蜀に送り、蜀王と共に居らせた。

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「私的所有」と「個人的所有」の個人的解釈

タイトルどおり、これから書くのは私の「個人的解釈」にすぎない。

思考の出発点は「私的」の対立概念は「公的」だということだ。
つまり、「私的所有」とは、「公的所有」すなわち共同体全体の所有となるべきものを、個人が、その社会の合意に反して所有することである。たとえば、地下資源や生産手段や、労働の結果を個人が不適切に(そしてしばしば過度に)所有することだ。この行為は資本主義社会では当たり前に行われているが、社会主義国家では不適切な行為(反社会的行為)となる。
それ以外のもの、つまり「社会の共有財産」以外のものの所有は、「個人的所有」が許される。たとえば、人間という存在の社会的所有(共有)は「非常識(アンコモン)」な行為であるから、結婚や恋人関係は「所有概念」に属さないことになる。個人的創作物の創作者自身による所有も同様だ。社会的資本を使った利殖行為の結果は、基本的に社会の所有になる。
マルクスの言う「共産主義」が、上記の「公的所有」概念にとどまるなら、それはキチガイ思想ではなくなるわけである。しかし、その場合、それと通常の社会主義との境目も無くなるわけで、そこに「共産主義と社会主義の同一視」「共産主義(社会主義)嫌悪思想」の発生源があるのではないか。つまり、人間というのは平等・公平が実は大嫌いなのであるwww

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「私的所有」と「個人的所有」

政治思想というのは本来誰でも理解できるはずだが、下の引用文は、何を言っているのか、私にはほとんど意味不明である。これは、政治を哲学的に考察するという、「水と油を混ぜる」行為をしているためではないか。
そして、政治改革(昔の学生運動など)が常に中途で大混乱し、挫折するのも、こうした「意味不明の思考」が現場を混乱させるからではないか。つまり、誰も理解できないことを大声でわめき合い、互いに殴り合うからである。これを「内ゲバ」という。

(以下「蚊居肢」から引用)「混沌堂主人雑記」でこの文章の存在を知った。「私的所有」と「個人的所有」とどう違うのか、説明してほしいものだ。まあ、あとで私自身、真面目に考察するかもしれない。この両者が同一なら、「私的(個人的)所有を認めない」共産主義は即座に破綻するからである。私(社会主義者である)の共産主義否定論も、その論拠によるものだ。
なお、引用記事冒頭の「マルチチュード」は、最近古書店で買った仏日辞典によると「多数、群衆」の意味らしい。「俗衆、衆愚」の意味もあるようだ。「ひとつの公民one people」というのは、頭がひとつで胴体が八つ(九つ)という「逆ヤマタノオロチ」みたいに思えるwww そんな国民って存在可能かね。まあ、ナポレオン時代のフランスのようなものか。
もっとも、ナポレオンはべつに民主主義者ではなく、独裁者に近かったのだが。つまり、彼自身が龍の頭ではなく、龍の背中に乗って操縦していたのである。独裁者の意志が民意と合致することもある。さて、それは「民主主義」か? その時、独裁者は批判され、殺されるべきか?

マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。(…)multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(…)スピノザの教えにおいて、単独性からコモンsingularity to the commonへの移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度newly invented institutionsへと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ commontismoを要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)


なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)



▶︎「俗に知られているマルクス主義と真のマルクスの思考の相違」



特にマルクスは私的所有[Privateigentum]を否定しつつも個人的所有[Inndividuelle Eigentum]を肯定していることに注意。


 






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「古典」の講談性とは何か

「運命」の現代語訳(明治文語文は、もはや古語である。)をしながら、その中に露伴の表現をそのまま残している部分が多いのは、そのような部分は現代人でも理解ができるか、完全に理解はできなくても、意味が推定でき、そして何よりも、言葉のリズムや調子の面白さがそこにあると思うからである。これを「講談性」と言っておく。(これは現代の小説からは完全に失われている。)
この「講談性」はほとんどの古文の古典の文章の中にあるもので、その特長は「聞いていて、あるいは読んでいて気持ちがいい」ということだ。読むというのは、それが自分の脳内で音声化されることでもあるわけだ。

たとえば、「平家物語」の「小督」の章で、帝の命を受けて、帝の愛人だった官女小督(宮廷から行方不明になっている)の居場所を探す侍(?)が、小督が琴の上手だったことを頼りにして発見に成功する、その直前の文章はこうだ。

「峰の嵐か松風か 尋ぬる人の琴の音か」

今、耳に聞こえたかすかな音は、ただの峰の嵐の音か、松風の音か、それとも小督の弾く琴の音だろうか、と侍が自問自答しているわけだ。(私は、この一文以外はロクに読んでいないので、かなり間違いを書いていると思うが。)この文章の「7,5,7,5」の見事なリズムと音韻を味わえない人は、気の毒だと思う。それに感動できる自分が、まさに、「日本人で良かった」と思う。

あるいは、私は「源氏物語」はまったく読んだことが無い(せいぜい、須磨流謫の章だけ。)が、田辺聖子が「文車日記」の中で取り上げた、闇の中に白く咲いている花の名を光源氏が(だったと思う)少し離れた人に問う場面だ。(前に、この言葉について書いたかもしれない。)

「うちわたす遠方人(をちかたびと)に物申す。それそのそこに咲けるは何の花ぞも」

という言葉(発言)の見事な音韻とリズムに感動する。(これも、いい加減な記憶で書いているが。)特に「それそのそこに」が素晴らしい。「咲ける」まで入れれば、S音の4連発だ。しかも、それが少しも嫌みが無く、耳に心よい。

sore sono sokoni sakeruwa

である。しかも、一見無意味な「それ」「その」「そこに」の3連発が、自分の問いを正確にしようとする心理的必然、人がやりがちな「質問の不正確さ」への半無意識の自覚があるのである。古典古文の「見えないリアリズム」と言っておく。


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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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